2011/07/07

ロサンゼルス・チキチキ弾丸ツアー:ぼくらが旅に出る理由

サッカーフリークにはお馴染みの言葉のひとつに、「Football Nation」というのがある。サッカーを知ってさえいれば、国籍・人種・民族・言語・性別・年齢・宗教など関係なく、互いに分かり合えるという一種のオプティミズム…。しかしご存知の通り、今回の震災において、漠然とした理想像に過ぎなかったはずの「Football Nation」が、すぐに反応した。世界各地で活躍する日本人選手がメッセージを発し、それをチームとサポーターが敵味方の境なく支援し、日本を含めた各地でチャリティマッチが開催された。「Football Nation」は国家ではない。組織でもない。宗教でもない。「サッカーを愛する」という、ただそれだけの人達による、連帯の意志である。

今回、無謀とも言える「ひとり弾丸ツアー」を決行したのは、いくつか理由がある。それをつれづれに列挙してみようと思う。

ひとつは、去年の感謝祭の感想でも述べたとおり、「一種のインスタレーション=現代芸術」と呼びたくなったほどのステージを、よりによってロサンゼルス=ハリウッドという映像産業の総本山に持っていく、その蛮勇を応援したくなったから。サッカーのサポーターにとって弾丸ツアーは当たり前なので、当初は1泊3日の日程を考えていたほど(なので、2泊4日に決まってから宿を選んだため、結果的にホテルを渡り歩くという無駄なことをするはめになった)。「圧倒的アウェーに決まってるんで、まぐれで引き分けに持ち込めればラッキー負けて当然、だけどワタシはそれを見届けてやるぜ骨は拾ってやるぜ」という意気込みは、一応持っていったつもり。

それから、「海外でボーカロイドの楽曲がウケている」という評判に、少々疑念を持っていたことも大きい。Twitterではアジに等しい言説を弄する一方で、結局それはごく一部のgeekたちが喜んでいるだけなのではないかという不安が、心のなかにあった。ライブはそれを直接確かめることができる千載一遇のチャンスなので、これを逃す手はないと考えた。「自ら行動するしか状況を確かめる方法はない」ということは去年の休職期間中に得た大きな教訓で、今回もそれに従ったわけである。

もうひとつ、ぶっちゃけチケットが安かったせいもある。Anime Expoの内部イベントだとしても15ドルだっけ?AXのチケット代を含めても、日本のちょっとしたコンサートを見る程度の価格。公式応援ツアーの価格発表後にチケット代・宿代・飛行機代を調べてみたら、自力で行ったほうが安上がりになるのが分かったので、この程度なら何とかなっちゃうよなあと判断した次第である。それに加えて実兄がJALのパワーユーザーなので、もしかしたらフライト料金を浮かせられるかもという甘い見込みがあった(結果的には自腹で行くことになったが)。

あとは些細なものばかり。一度くらいは海外に自力で行ってみなくちゃとか、iPad/iPhoneが安く買えるかもとか、AXは以前から興味があったからついでにちょっと覗いてみたいなあとか、無意味な待機を強いられた一方で休暇申請を断られた職場へのささやかな仕返し、等々。

別に大それた理由などなかったのである。

しかし、これほど大きな財産を得ることになるとは、出発前には想像もしていなかった。成田空港で見た整備員の礼儀正しいホスピタリティ、ハリウッドの映像産業コングロマリットの圧倒的な巨大さ、ビバリーヒルズを闊歩する本物のセレブリティの姿、その一方で極度に階層化した社会構造、特にヒスパニック系の移民が下支えする住民生活、ヒリヒリと突き刺さる余所者に対する目線、ネイティブレベルの英語力がないと買い物すら満足にできない現実、どれもが今までは完全に他人事だった。実際に街を歩き、一般市民に混じって市営バスやシェアードワゴンを使い、ある程度のリスクに身を晒して、ハジメテ見えてきたものがある。

コミュニケーション。

己の意志を何としてでも伝えようとする、断固たる決意。あの国では、それがないと生きていけない。英語力の有無などという皮相的なものではない、もっと根源的なものである。己の意志を伝達するためには、あらゆる手段を用いなければならない。紙のメモ、大げさな表情や身振り手振り、使えるものなら何でも使う。その努力なくしては、何も得られない。若いにーちゃんの店員に鼻であしらわれて終わりである。渡米初日にそういう現実を見せつけられ、ある種の恐慌状態にワタシは陥った。「こんなところで大丈夫か?」偽らざる心境である。

明けて次の日のライブ当日、あらゆる幸運に恵まれたのは単なる偶然だと思う。通称ボブとエレベーターで一緒になったこと、MIKUNOPOLISブースでチケットのことを教えていただけたこと、AX会場の内外で馬鹿騒ぎしている連中を見てリラックスできたこと、会場内で無線LANを拾えたこと、リン・レンのねんどろいどぷちをプレゼントしたミク&リンコスの母子が狂喜してくれたこと、ボストン在住の13歳の女の子が突然Twitterで話しかけてきたこと、A先生やBUNKA:EXTENDのヨシ沢さんをはじめ、公式応援ツアーの皆さんとお会いできたこと、現地の日本語CATVに取材されたこと、ライブ後にA先生と共に質問攻めにあったこと、関係者の打ち上げ会場に混ぜていただけたこと…。ライブのパフォーマンスは全く文句なしなんだが、その感想は、実は以上の体験も丸ごと含めてのことなのである。軽い思いつきで太平洋を超えて遙か東の果てまでやってきて、こんな結末を迎えるとは全く想像していなかった。旅はしてみるものである。

ボーカロイド、特に初音ミクというキャラクターをイコンとして宗教的に解釈する向きがあるようだが、ワタシはそれに異を唱えたい。音楽やダンスはアミニズムの重要な要素ではあるが、そこにばかり注目すると本質を見失う危険がある。では本質とは何か。価値観を共有したいというコミュニケーションの、切実な欲求である。言葉が理解できなくても、メロディやリズム、ジェスチャーで理解し合える世界がある。「Football Nation」では、リフティングすればたちまち子供たちが寄ってくる。パスを交換して相手プレイヤーの間を駆け抜けるだけで楽しい。誰かがゴールを決めれば身体に快感が突き抜け、相手の攻撃をディフェンスがしのげばハイタッチを交わし働きを称える。初音ミクは神ではない。なぜなら、彼女は自分の意志では何も歌わないし踊らないからである。ボールがただ置かれているだけではサッカーにならないのと同様に。彼女を歌わせ踊らせているのは、彼女を通じてメッセージを伝えたいという人々の意志そのものであることを、忘れてはならない。そしてそのメッセージをひとたびボーカロイドに託せば、囚われるもののない、飛び交うボールのように自由な存在であるがゆえに、普遍性を獲得しうる。ボーカロイドを通じて世界とダイレクトにコミュニケーションできる「VOCALOID Nation」とも呼ぶべき可能性が、眼前に開けている。あなたの携帯やPCは、そのまま世界に直結しているのだ。今回のライブで、扉に指をかけることはできた。解き放つのは、あなたの意志次第である。

ああ、重要なミッションについて触れるのを忘れていた。今回の震災において最大限の援助をしてくれたアメリカに、ひとことお礼を伝えたかった。口で言うのを最後の最後まで忘れていたのは既に述べた通りだが、もっとインパクトのある方法をひらめいたので、それを実行したかった。ネタがボーカロイドで今回のライブが冗談みたいな話である以上、全力で応えねばならない。そしてそれは叶った。

ロサンゼルスに置いてきたシリアルNo.89のアナログピクチャーレコードが最終的に誰の手へ渡るのか、そんなことはどうでもいいのである。