2013/06/01

「あまちゃん」がツボった理由

まさか自分がこんな記事を書くようになるとは先週まで全く予想していなかったんだが。

というわけで今週からNHKの朝ドラ「あまちゃん」を見始めた。話題沸騰中なので、概要その他は各自お調べください。というか1回見ればノリはだいたい掴めると思うのでぜひ(笑)。

ここではワタシが個人的にツボった理由などをつらつらと書き連ねてみたい。



まず何と言ってもテーマソングが抜群。一撃でやられた(先ほどのホームページで聴くことができる)。音楽を聴くだけで物語が見える。本当に素晴らしい仕事だと思う。

そしてキャストがまた豪華というか名優ばかりなのだが、ヒロインの母親役の小泉今日子とその若い時の姿を見つけて、もう居ても立ってもいられなくなった。アイドルとして一世を風靡した彼女に何てことをさせるんだと(笑)。

その後は最近ツイートしている通りである。分かる人にしか分からない(というか40代〜50代以外は無視していると断言できるほど狭い)ネタまみれでツッコミどころ満載、常に結果を求められる国民的な番組枠で、あの突き放し方は相当の覚悟がなければできない。NHKと宮藤官九郎のすごみを日々実感している。

しかし見始めてすぐに気がついた。このドラマを楽しむのに、アイドルが好きである、好きであったことが必須条件ではないと。ワタシが1980年代中期〜90年代前期の女性アイドルポップス好きであることは常々公言してきたのだが、実際のところ、小泉今日子というアイドルと彼女の曲は(当たり前のように聴いていても)それほど好きではなかったのだ。しかし彼女の演技の素晴らしさから、いまは全く目が離せない。

このドラマは、田舎住まいの祖母、田舎を飛び出して東京に行ってUターンした母、東京から田舎へ来た娘の3人が主役である。ヒロインは娘のはずなのだが、ワタシは母に強いシンパシーを感じてしまう。母が娘と同じ年頃に過ごした部屋が手つかずで保存されているのだが、そこに置いてある小道具のひとつひとつ、いや、天野家の居間の風景、北三陸駅の駅舎、その他の舞台装置によって、ワタシの中学生時代の記憶がそのまま脳内再生されてしまうのだ。あの全てを体験してきたであろう母の立ち振る舞いへの感情移入は、今のところそれが理由としか言いようがない。

後輩の農家の畑にヒグマが出没するような絶望的な田舎住まいだった当時、頼みの綱はTVと、特にAMラジオだった。北海道では日が暮れないと入らないニッポン放送を、無理矢理チューニングして聞いていた。周りはSTVばかりのなかで、なんで必死にそうしていたのか正直分からない。しかも東京そのものには全く憧れていなかったにも関わらず。札幌へ行って都会すげえとか圧倒されてたんだよ当時は。それほどの田舎者だったのだ。

憧れではなく手が届くわけでもないけど、TVやラジオによって伝えられてきて、向こうには確かにそこにありそうだという漠然とした何か。それらが形を変えて、雑誌やカセットテープその他の「モノ」として手元に来る。「モノ」がTVやラジオの向こう側と繋がっていることを当時はあまり理解していなかったけれど、ラジオを聞きつつ「モノ」を繰り返し愛でて妄想を膨らませることでしか欲求を満たすことができなかったことは、今ならよく分かる。

その愛玩の対象であったはずの「モノ」たちが、気がつけば身の回りにない。外で見かけることも稀になった。日常風景の新陳代謝は、我々が考えているよりずっと速く進む。都市部であればなおさらだが、田舎は逆に過疎の進行によって維持できない。クルマの免許を取ってから自分が転校して歩いた街を全て巡ったことがあるのだが、住んでいた家…国鉄宿舎はほとんど消えていた。卒業した中学校も、数年前に統廃合されて無くなったらしい。Googleストリートビューで校舎は辛うじて現存していることは確認できたのだが、取り壊されるのは時間の問題だろう。そもそも家の脇にあった線路ですら、半分くらいは廃線でとっくの昔に撤去されているのだ。

「あまちゃん」を見るたびに大笑いしながら、胸にぐさぐさと何かが突き刺さる。自分は春子と同じ時代を過ごした者でありながら春子のようには生きられない。だが春子の母親である夏や(ワタシ自身は独身だから子供はいないけれど)娘のアキのような者たちにも、まるで何もしてやれていない。そして、ワタシにとっての田舎は、もはや取り返しのつかないものになっている。記憶の手がかりとしての「モノ」が、既に失われているのだから。そのことを毎日のように再確認させられるのが、見ていて本当に辛いのである。