2015/06/22

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(4:アニメにおける芝居とその意味)

アニメ本編がもう残り少ないみたいだから急いで本題。ワタシはアニメを「絵さえ動いていれば、またはしっかりとレイアウトされた絵さえ用意されれば、ストーリーもキャラも声優その他も割とどうでもいい」と考えながら見ている偏ったタイプである。ここで「動く絵」とは文字通り動画(主に動画担当者が作画した部分)、「しっかりとレイアウトされた絵」とは「監督や演出の意図が込められた構図や絵づくり」になるだろうか。「響け!ユーフォニアム」はワタシのようなタイプが喜んで食いつくシーンばかりなんだが、全編を通して振り返ると長くなり過ぎるので、物語の大きなターニングポイントとなった第8話以降を中心に軽く抜き出してみた。

【第8話:分かりやすい対比】









【第8〜11話:久美子と麗奈の殴り合い(?)】









確か押井守監督が述べていたのだが、アニメは基本的に作家が意図したものだけが映像になる。そこに撮影時の偶然や役者のアドリブは存在しない。いかに人間の形をしていようと、その演技はあらかじめそのように設計されたものだ。例えばさりげなく足を組むのも同じ場所に座るのも手のひらで胸を押さえるのも膝を叩くのも。これを熟練のアニメ監督たちはアニメにおける「芝居」と呼んでいる(と記憶している)。ワタシが言うところの「動く絵」と「しっかりとレイアウトされた絵」は、おおむね「芝居」という言葉に集約される。

「響け!ユーフォニアム」では、特に手足を使った「芝居」が「過剰なほどに」目立つ(髪の毛と瞳のハイライトもかなりのものだが手足ほどではない)。その意味を読み取るだけで大変な苦労を要するような仕事量を、京都アニメーションは叩き込んでいる。声優のセリフで語られない本当の意図を知りたければ、リモコン片手に通しで10回見直すくらいの覚悟が必要な、そんな作品である。

さて、人物配置、ロケーション、キャラクターデザイン、言葉づかい、フォーカスと手ブレ、芝居について眺めてきたが、冷静になって振り返ってみると、これらは実は一種の苦肉の策だったのではないかと思い始めている。第8話(の特にBパート)が傑作というのはおそらく異論のないところだと思うのだが、1クール(全12〜13話)の後半に目玉を持ってくるのは短期決戦のTVアニメでは不利が多過ぎる。逆に言えば、このアニメのストーリーは序盤の盛り上がりに欠けるのだ。原作小説も同じように現実の時系列に沿っているため仕方ないとは言え、それを補うために「盛るところを盛りつつ場合によってはばっさり切り捨てながら」持てる技術を惜しみなく投入したのではないか。それでも、最初の数話を見て視聴を止めてしまう視聴者をどれだけ引き止められたかは不明だが。それほどアニメの「芝居」は、大量の作品によって目の肥えてしまった我々にとって当たり前過ぎて気にされないのが現状なのだから。

散漫になってしまって申し訳ないが最後に。このアニメを見ながら漠然と思い出した映画を挙げておく。「1999年の夏休み」「台風クラブ」「ぼくらの七日間戦争」。古いのばかりで恐縮だが、それぞれ当時は相当話題をさらった作品なので思い出したときにでも見てみるといいかも。実はワタシも未見なのが何ともだが。ここでは「1999年の夏休み」の予告編を引用して終わりとする。長いことつきあっていただきありがとうございました(…というか書き慣れないもの書いて疲れた…)。



追記:連載はここで終わりにするつもりだったけど語りたいことが多すぎて結局まだ続きます

2015/06/21

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(3:ボケた映像と手ブレ表現)

書きたいことがだいたい揃ったので連載はここで一旦終わりかな。いきなりだけど滝先生は「特別である」「美人である」枠だけど、目に見えて「執拗で」「容赦のない」特別なポジションを与えられている。顧問だから仕方ないね。

さて今回は撮影技法から見た演出の話。まずこちらのブログを見てほしい。
響け!ユーフォニアムは他のアニメ、京都アニメーションの過去の作品と比較しても偏執的なほどピントの被写界深度が浅いと述べた。フォーカスが合っている部分と合ってない部分の差が激しい。
被写界深度はカメラ用語で一眼レフを触っている人ならばすぐに理解できるものだが、一言で表現すれば「被写体のピントが合う奥行きの深さ」になる。レンズの絞りを解放気味にして撮れば被写界深度は浅く、逆に絞って撮れば被写界深度は深くなる。これに光量ISOシャッタースピードその他のパラメーターが複雑に作用するので写真撮影は何かと難しいわけだが、ここではこれ以上触れない。

この作品の「解放気味に撮って被写体周りがボケまくってる」絵づくりは、リアリティよりも被写体のキャラや心情を反映させようとしたものだという先のブログの主張(で合ってるよね)にはワタシも同意する。もっと言ってしまうと、「そのシーン、その瞬間の主役は誰か」を「絵のなかでピントが合っている者」として「執拗に」意識させようとしているようにさえ思う。下に引用したのは第10話の1シーン、久美子の呼びかけに対して麗奈が鬱憤を爆発させる直前の場面である。同じ構図の中でフォーカスが久美子から麗奈へ一瞬で移動しているところに注意してほしい(画角が変なのはこちらの編集の都合ですすみません…)。



実写作品でこれをやろうとすると実は大変な技術を要するはずなのだが、最近のデジタル機材とポストプロダクションソフトウェアの発達から考えるとそうでもないのだろうか。ともかく、演出のツールとしてフォーカスを意図的に操作しているのは明白である。他にもユニークな使われ方をしているところがたくさんあるので、興味のある人は探してみてほしい。

カメラの演出といえばもうひとつ、フレームの手ブレ表現も多用されている。有名な例で言えば永谷園のお茶漬けのCMだろうか。


これはハンディカム…今ならアクションカムかな…で撮って(いるということにして)「ライブ感」を表現する手法として20年以上前に「発明」されたものと記憶しているが、歴史があるだけに少々使い古された感がある。実際このアニメでも多用されているが、個人的にはその効果に疑問を持っている。フォーカスが「画面内の主役は誰か」を示すのに対して、手ブレがそのシーンの何を表現しているのか読み取れないことが少なくないのだ。逆に言えば、手ブレ表現に意味を持たせようとするなら、もう少し使用を控えた方が良い効果を得られるように思う。

最後にキャラクターの手足の芝居と連想される映画の話をして締めようと思ったが、長くなってしまったので機会を改めることにする。うまく終わるといいなあ…

2015/06/20

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(2.5:2つのPVにみるスタッフの理解度)

今回はちょっと脱線して、実際の動画を見ながら少々思うところを。

京都アニメーションの公式YouTubeチャンネルに、アニメPV第1弾・第2弾が公開されているが、比べてみると発見がいろいろとある。





第1弾は2015/01/22 、第2弾は2015/03/22に公開されているが、この2ヶ月間における制作サイドの意識の変化が透けてみえる。

第1弾では、およそ現在のイメージとは遠い、(どこぞのアニメっぽいw)ハードタッチのジャズが耳に残るが、結局のところ「楽器を持って何だか楽しそうにしている女の子たちの姿」という、どこかで見た景色しか描かれていない。おそらくは「けいおん!」の成功体験も影響したであろうこのアニメ化企画において、まずはそれをトレースしていこうと考えるのは自然なことだと思う(なおPV第1弾のシークエンスの一部は現OPに「転用」されているが、麗奈は生真面目で寡黙な性格を反映した動きに変更されていることに注意)。

第2弾は放映直前ということもあり本編のシーンをふんだんに引用して制作されており、現在のイメージとほぼ同一になっている。これは素直に制作サイドの理解が深まったと見るべきであろう。ここで理解とは、原作小説やシナリオ、ロケーションやキャラクター設定に加えて、スタッフ間の意識や方向性の共有なども含まれる。つまり、このアニメに関わるスタッフは、2ヶ月を掛けて(実際の制作期間を考えればもっと短時間のうちに)「足並みを揃えた」というわけである。

この作品は「けいおん!」ではない、別の音楽と青春を描くものだと。

なお、アニメの制作現場では本編に先行して作られることが多いと言われるOP/EDだが、この作品でも同様なように思う。それは、上記のPVの真ん中にOP/EDを置いて考えてみると「PV第1.5弾」として実感できるだろう。

脱線したが映像をどうしても見せたかったので書いてみた。次はまた文章だらけに戻ります。

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(2;ロケーションと身体と言葉のリアリティ)

アニメ「響け!ユーフォニアム」について語る記事の2回目は、ロケーションと身体と言葉について。前回に引き続き「過剰」「執拗」「容赦のなさ」というキーワードを挟みながら三題噺みたいなところに落ち着かせようと考えているけど、どこへ着地するか少々不安ではある。

ではさっそくロケーションから。アニメの制作現場ではずいぶん前から、TV・映画を問わず、実際の土地を綿密に取材して背景等の作画に生かす、いわゆるロケハンが多用されるようになった。押井守の「パトレイバー」「攻殻機動隊」では複数の場所を取材し混ぜることで全体的には匿名的な東京・アジアを描き出していたが、現在のアニメでは特定の街・場所・建築物等を画面に出すことをいとわなくなっている。京都アニメーションでは「らき☆すた」が有名だが、他の作品でもかなり徹底したロケハン主義を貫いている。

「響け!ユーフォニアム」の舞台は、原作小説通り京都府宇治市である。久美子たちが使う電車、通学路の交差点、川べりのベンチ、学校の建物(のモデル)、県(あがた)神社、大吉(だいきち)山などは実在するものそのままが描かれていると言ってよい。むしろ宇治市であることを分からせるために印象的な場所をあえて選んで背景に用いているようにすら思う。「聖地巡礼」にはいかにもおあつらえ向きだが、まるで映画を撮影しているような縛りの強さ(=過剰さと執拗さ)には若干戸惑う部分もある。それでも破綻を感じないのは、リアル側に振ったキャラクターデザインの影響もあるだろう。

さてそのキャラデザ、前回でも軽く触れたようにかなり細かい。主人公の久美子は高1の女の子にしては体格が良く(明らかに身長が上なのはあすか先輩だけ)、その一方で髪はボサボサ、プロポーションも見るべきところは少なく…要するに本来は「何かきっかけがあると目立っちゃうけど基本的には深く考えてなくてボケてるっぽい」キャラとして読み取れる。他を細かく見ていくとキリがないので止めるが、それぞれのキャラデザには彼ら彼女たちの性格や立ち位置が分かるような仕掛けが施されていると考えてよい。

そのようにして設定された各キャラは劇中において「容赦なく」並列される。久美子・葉月・緑が集まるシーンでは緑は頭の上半分だけ見切れたりする。チューバ担当の2年・梨子先輩は他の女子生徒よりも中肉中背…というより明らかに肥満気味に描かれる。とりとめなく会話するモブキャラの女子生徒たちのバストの大きさは丈が短めのセーラー服という衣装設定も影響してはっきりと比較できてしまう。映画のように写実的に描こうとすればするほど、各キャラにとっては残酷な「現実」が突きつけられる。アニメでデフォルメされているぶん、よりシビアと言うべきだろうか。

ここで不思議な事実が浮かび上がる。ロケーションとキャラの身体を写実的に振って映画的に配置しているにも関わらず、皆の話す言葉がなぜか標準語で統一されているという点である。原作小説では久美子以外のほとんどのキャラが関西弁を話す。これをNHKが実写ドラマ化したらほぼ確実に関西弁中心のシナリオを用意するだろう。なぜアニメでは「リアルな宇治市の高校生たち」が標準語で話す必要があるのだろう?答は「アニメ映画ではなくTVアニメであろうとする演出の意図によるもの」だと考える。仮にアニメ映画なら許されるであろう関西弁を、より広範囲に(場合によっては海外でも)放映されるTVアニメというフォーマットのために、京都アニメーションは「容赦なく」切り捨てたのだ。スタジオがある地元の言葉であるにも関わらず。他にも声優の演技力の問題などいろいろあるだろうが、京都を拠点にするひとつの地元企業としてこの判断はなかなかできることではないように思う。「広がり」への自信のあらわれと言い換えてもいいかもしれない。

今回はここまで。何とか軟着陸できたかな。次回は撮影技法と手足の芝居の話あたりができたらいいなと思います。

2015/06/19

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(1:キャラクターの配置)

アニメ批評的な文章を書くかどうか迷っていたが結局書くことにした。

現在放映中のアニメ「響け!ユーフォニアム」を録画しておいた8話まで一気に見たところで「こりゃあ面白い」となって、原作小説を一気に通読して現在は毎週の放映を楽しみにしながら待っているところ。と言っても1クールならもうすぐ終わってしまうのだけど。

このアニメはいろいろと語りたくなる要素が満載なのだが、今回から不定期で、記事のタイトルに挙げた「過剰」「執拗」「容赦のなさ」というキーワードを適宜使いながら、思いついたことを書き連ねていこうと思う。初回は「キャラクターに与えられた役割」について。なお画面キャプチャを入れたいところなんだがnasneから撮るのが面倒っぽいので断念、従って色気のない文章の羅列になることをあらかじめお断りしておく。

OPラストの全員整列シルエットやBパート冒頭のアイキャッチでお分かりの通り、北宇治高校吹奏楽部のメンバーは各々にキャラクター設定(顔つき体つきはもちろん、名前、学年、担当楽器、仲の良い友人etc.)が細かく行われていると考えてよいだろう(=モブにしては「過剰」な扱い)。そのなかで、一種の特権を与えられているキャラクターが存在する。列挙すると以下の通り:
  • 特別である:久美子、麗奈、あすか先輩、(緑輝)
  • 道化である:久美子、葉月、緑輝、あすか先輩
  • 美人である:麗奈、香織先輩、あすか先輩
「特別である」とは麗奈のセリフからの引用だが、ここでは「楽器演奏において他よりもアドバンテージを持つ者」という解釈で用いる。久美子は小学校からユーフォニアム一筋なのでキャリアは他の部員より頭ひとつ抜けている(が本人はそのことに対して無自覚)。麗奈は恵まれた家庭環境に加えて本人の意思と才能によって一層の高みを目指している。あすか先輩は練習の虫で何よりもユーフォニアムを愛している。この3人はあの「大してやる気の無かった」部員の中では上から数えて何番目の上手さのはずなのだ。ここで問題になるのは緑輝…もう緑でいいや…の存在なのだが、あの背の小ささでコントラバスを弾きこなす腕前とキラキラネームへのコンプレックスでプラスマイナスゼロだろうか。まあとりあえず彼女は横へ置く。

「道化である」とは「漫画・アニメ的表現を許容する者」という意味である。京都アニメーションがジブリではない、つまりTVアニメを作っているのであってアニメ映画のTV版を作っているわけではないのは、例えば彼女たちの「ヒョウタンツギ」みたいなふくれっ面を見れば分かる。道化である彼女たちは物語をくるくると回して前に進める役割を担う。久美子・葉月・緑のトリオは言ってしまえば水戸黄門と助さん角さんみたいなものだ。あすか先輩は「変人」という設定からその役割が巡ってきてしまったのかもしれないし、何を考えているか窺い知れない「仮面」のメタファーなのかもしれない。

「美人である」とは文字通り。好むと好まざるに関わらず、こういうキャラクターがいなければアニメは盛り上がらない。麗奈は同性の久美子をして惚けさせるほどの美少女として描かれる。香織先輩は下級生に取り巻きができる上品でしっかり者で芯が強くて優しい女の子。あすか先輩は頭脳もプロポーションも非の打ち所がない美女だが変わり者という残念美人のカテゴリー…(=容赦のなさ)。

さてここで振り返ってみる。3つの要素を全て兼ね備えているのはあすか先輩のみであるが、彼女を主役に据えると話が「ハルヒ」になってしまうのは容易に想像がつく。ゆえに彼女は自ら中心を去る(=部長に推薦されていながら辞退して副部長に納まる)。そして、主役の座は久美子と、その照射としての麗奈に譲られる。
あすか先輩(特別・道化・美人)→久美子(特別・道化)+麗奈(特別・美人)
当初、久美子は自分が「特別」であることには無自覚なように思えたのだが、そこに中学からの友人であった麗奈の存在が強くコミットしてくることで彼女の内面は大きく変わろうとしているように見える(特に8話において)。つまりこれからは、主人公兼語り部たる久美子の成長を通して、「より特別になる」吹奏楽部員たちの姿が描かれることになるはずだ。その過程の苦しみや葛藤も描いているために(9〜11話)、いわゆるキャラ萌えアニメとは一線を画した重厚なドラマ性を有しているのだが。ここはおそらく「けいおん!」とも違うところだろう(実は「けいおん!」をしっかり見てないんで間違ってたらごめんw)

少々とりとめのない話になったが今回はここまで。なお原作小説とアニメは各エピソードの扱いがかなり違っていたりするので、ファンの方はできれば両方見ることをオススメします。