2015/07/10

色あせて覆われる場所

1週間ほど前に実家へ戻ってくる際、高速バスの車窓を何となく眺めていて、以前は気にならなかった違和感に気づく。風景の骨格は20数年前と変わらない。でも何か、どこかが違っている。数十分ほどバスに揺られながら考えて得た答は「建物が色あせ過ぎている」「緑が生い茂り過ぎている」の2つだった。

建物は生き物である。人に使われずメンテナンスを放棄されたものは日々の天候の変化に晒されてゆっくりと色あせ朽ちていく。鮮やかな屋根の塗装もきれいな壁の仕上げも、そういったものを維持する人間がいなければ次第にぼろぼろになっていく。数年から数十年スパンで見るとその差は歴然で、これは新陳代謝が激しくメンテナンスも行き届いている都市圏ではあまり見かけないものなんだろうなと漠然と思った。

春から夏にかけて一気に無遠慮に生い茂る緑は北海道ならではのものだ。それほど奴らの生命力は強い。問題はそれをメンテナンスする人が誰もいなくなったという事実である。数十年前は北海道開発局があって冬場を問わず道路周囲の環境整備を担っていたはずだった。それが合理化の名のもと解体されたため、北海道の郊外の道路は脇の雑草が伸び放題という荒れた現状になっている。

このように、札幌近郊の衛星都市へ向かう高速道路上から眺めただけでも、北海道の疲弊具合が手に取るように分かる。この変化を観光資源が増えたとポジティブに捉える向きもあろうが、自分がかつて住んでいた街がこれほどまでに人の不在を印象づける風景に変貌しているとは思わなかった。実家に戻るとTVで夕方のローカルニュースをやっていて、実家の街よりさらに田舎の場所で公共工事すら回せないほどの過疎による人材不足を伝えていた。そして実家の建物は、すっかり年老いて身動きが思うように取れなくなった父母だけが淡々と毎日を過ごすのと歩調を合わせるように、周囲の風景と同じように朽ちていっている。聞けば近所の方は何人も長期入院したり亡くなったりしたようで、町内会員がずいぶん減ったらしい。夜中になれば近所に人やクルマの気配はなく、蛙の鳴き声と天井を打つ雨音だけが響く。21世紀の繁栄した都市圏と複雑化したネットの内部を我々が築き上げた未来とすれば、それ以外のリアルな過疎地域というのは20世紀に置き忘れてしまった心残りみたいなものかもしれないと思った。おそらく今後10年以内に何らかの淘汰が公私ともに一気に進むだろうという不安とも言い切れない漠然とした予感を抱えつつ眠る。そして明日になればまた一歩、人は老い、風景は朽ちているのだ。