2016/09/24

これから「響け!ユーフォニアム」を追いかけるべき3つの理由

冗談を口にしたら本当に書きたくなったのでつらつらと。長くなると未見の皆さんへのネタバレになるので、できるだけ端的にという気持ちで。

2015年春に放送されたTV版「響け!ユーフォニアム」(以下1期)は、その確かな評価によって「劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校へようこそ〜」(以下劇場版)が制作され、さらにこの10月から「響け!ユーフォニアム2」(以下2期)のTV放送が始まる。昨今のTVアニメでは珍しくない間を空けての続編だが、先日、先行上映会へ参加できる機会に恵まれて、2期1話(1時間スペシャル!)を丸の内ピカデリーで見た。

これは事件だと思った。

上映が終了したあとの呆然とした感覚を、数週間経った今でも忘れることができない。長いことアニメ好きをやってきて、こんなふうに思ったのはほとんど記憶にない。放送後はおそらく大騒ぎになるだろうと確信している。

その2期1話をとにかく1人でも多く「目撃」してほしいというお節介なアピールを前提として、「ユーフォ」を見るか迷っている人のために、今からでも追いかけるべき理由を以下に3つ述べる。
  1. 京都アニメーションと日本アニメの転換点に位置づけられそうな作品であること

    京アニは作画の安定性とトータルの品質で名をあげたアニメ制作集団である。ゲーム・マンガ・小説が原作の作品を立て続けにヒットさせたのち、自社レーベルのラノベ文庫を原作としたアニメをしばらく制作していたが、「甘城ブリリアントパーク」で再び他者の原作に戻ってきた。その後に制作したのが、宝島社が出した武田綾乃氏の小説が原作の「ユーフォ」1期と、(「無彩限のファントム・ワールド」を挟んで)講談社が出した大今良時氏のマンガを原作とした映画「聲の形」である。

    原作を自社で賄うことを止めて、例えば以前のカドカワのような(京アニからすれば)大きな会社の小説やマンガを今あえてアニメ化する理由は何だろう。推測の域を出ないが、これは作画や品質だけでは視聴者がついてこなくなっている現状を打破するための選択ではないかと思っている。と同時に、高齢化するアニメーター等の職人の後継者が不足している(らしい)こと、さらには中国などの海外資本が日本のアニメ制作職人を高く買っている(らしい)現状も、制作側の危機感に繋がっているだろう。

    定評のある作画や品質に加えて、時には既に話題を呼んだ大きくダイナミックな原作をアニメ化して作家性も前面に打ち出し、今後はそれで勝負する。自分は「ユーフォ」と「聲の形」を、京アニの転換点というか決意のようなものと受け取っている。そして、こういった現代の日本アニメ技術の精緻と言うべき作品を、今後は京アニですら作るのが難しくなるかもしれない。だから今、「ユーフォ」を見逃す手はない。

  2. 極めて上質な「音楽映画」であること

    「ユーフォ」は、架空の学校である北宇治高校の吹奏楽部全員が主役であると思っている(主人公の黄前久美子は、特に1期では語り部兼その代表として描かれていると解釈)。彼女たち彼らの演奏は、最初は下手くそだけど指導者の手腕によって次第に実力を身につけていくのだが、「ユーフォ」では、その過程が実際の音として描写されていて、クライマックスの演奏シーンは異様に力の入った作画も相まって大きなカタルシスを呼ぶ。まさにアニメで描かれた熱演である。

    京アニにとって「音楽」は特別なものである。作品リストを眺めていただければ、誰でも納得するであろう。社会現象化した「けいおん!」以来の、真正面から音楽を描く「ユーフォ」は、方向性はまるで反対ながら、同様の上質な音楽体験を提供してくれる。主にシリーズ演出の山田尚子氏のしわざによる劇中曲の「意表を突いた」選曲はもちろんだが、特に「架空の吹奏楽曲」である「三日月の舞」は物語の「象徴」で、個人的には「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー メインテーマ」に匹敵する「映画音楽」における名曲だと思っている。

    同時に、物語を彩る松田彬人氏の手による劇伴が素晴らしい。特に1期では、通常の吹奏楽では使われない楽器を巧みに配置して、劇中の吹奏楽の演奏と差別化しながら叙情的な心象風景を描き出すことに成功している。物語を通して何度も反復される旋律のそれぞれが何を意味しているか、語り出せばそれで記事がひとつ書けてしまうだろう。

    余談だが、劇場版だけを見ていた音楽のヘビーリスナーである某氏に1期のサウンドトラックを聴かせたところ、1曲目が始まってすぐに良いと呟いて食いついてきたのはさすがに笑ってしまった。また、立川のシネマシティでの劇場版「極上音響上映」は、コンサートともライブともクラブとも部屋のオーディオともヘッドホンとも全く違う、このまま死んでも構わないと思うほど極めて鮮烈で圧倒的な音楽体験であったことを付記しておく。


  3. 「永遠の夏」への回答であること

    先ほど挙げた「ビューティフル・ドリーマー」では、「永遠に繰り返す日常」という、オタクコンテンツへの呪いとも言うべき重大なモチーフが提示された。「何度もやってくる文化祭の前日」「廃墟とコンビニと自宅で謳歌し続ける夏のバカンス」「脱出できない悪夢の連続」という描写がその後に与えた影響は計り知れず、また、当時のオタクたちの価値観を大きく変えてしまった。なかには自分のようにその後の生き方がネジ曲がってしまった者も多く…まあいい。現在でも様々に形を変えながら引用されるそんなモチーフが、2015年度の宇治を舞台にしたこのアニメでも、ほんのわずかに顔を覗かせる。


    「ユーフォ」は夏の物語だと、個人的に思っている。実際にそれを体験したくて、去年と今年の暑い時期をわざわざ狙って宇治へ行ってきたほどに。しかし京アニ本社がある現実の宇治では当然だが季節が巡りゆく。それが「ユーフォ」の劇中でも描かれるのは、既に公開されている2期のPVでほぼ確定してしまっているのである。


    「ユーフォ」の物語を駆動する推進力はあくまでも主人公の黄前久美子をはじめとした北宇治高校吹奏楽部の成長であり、それは不可逆的なものである。ゆえに、オタクの呪縛だった「永遠の夏」は終わる。重い枷をほどいて次へ行くために、夏を終わらせるために、オタクは「ユーフォ」の行く末を見届けるべきである。
…やっぱり長くなってしまった。とにかく2期1話がとんでもないので、1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を全部見ておいてほしい気持ちでいっぱいなんである。ちょうどニコ動で1期の一挙放送があるようだし、せっかくの機会なので少々お時間を割いていただくのも悪くないだろうと考える次第である。



備えよう。



(1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を見終わったら下のPVを見よう)

「聲」とは何か 〜 映画「聲の形」レビュー追記(ネタバレあり?)

映画「聲の形」公開初日に見に行って大きな衝撃を受けた状態でヒーヒー言いながら何とかまとめた前回の記事では覚悟と材料が足りなくてどうしても触れることができなかった話が、のどの奥に魚の骨が刺さったような違和感として残ってしまっているので、それをこれからとりとめなく吐き出していく。ネタバレは前回より少ないはずだけど、未見の方は映画を見てから読むことをオススメしますと念のため前置き。

本題。公開初日、上映後の舞台挨拶で、山田尚子監督が最後にこう仰った。ワタシの聞き間違いでなければ正しいと思う。

「この映画は音にこだわって作りました」

さすがに耳を疑った。確かに良い音響、良い音楽、良い演技なのは充分に伝わるが、聴覚障害者が出てくる物語で「音にこだわる」とはいったいどういう意味なのか。これは、先日のレビュー執筆時ではとうとう答が見つからず、自分みたいな人間に突きつけられた問いなのかと感じながら、あれこれ思索を巡らせてきた。

この作品で、どのようにしても逃げられない「音」は、早見沙織さんが演じる硝子の「聲」(「声」の旧字体)である。劇中ではわずかにしか発せられないその「聲」を演じるために、早見さんは聴覚に障害を持つ皆さんと「対話」しながら役づくりに励まれたというような話を見かけた(記憶がある)が、現在の声優の演技力はここまで到達しているのか、と、この映画を見ながら思った(同席した友人はあまり納得していなかったようだが、これは個人差だろう)。

似たような経験を、実は去年もしている。

山田監督がシリーズ演出としてクレジットされているTV版「響け!ユーフォニアム」1期の第12話「わたしのユーフォニアム」のクライマックスで、黒沢ともよさんが演じる主人公の黄前久美子が悔し涙を散らして宇治橋を駆けるシーン、「うまくなりたい」と叫んでから秀一との掛け合いのあとに久美子が膝から崩れ落ちつつ声を振り絞った、

「私のほうが…」

という、あの一言である。高校生の女の子の感情が爆発して言葉にならないさまを、ありのままに再現した、あの演技である。


黒沢ともよさんが実はとんでもない傑物であると知ったのは番組放映からかなり後なのだが、それは今回の本題ではないので触れない。とにかく、現在の声優の演技がここまで到達できる事実を、しかもそれをまだ20歳そこそこの彼女が示せたことを、「ユーフォ」にも出演していて十分なキャリアを持つ早見さんはもちろん、山田監督も、京都アニメーションの音響をずっと支え続けている鶴岡音響監督も、重く受け止めたに違いない。

いまさら指摘するまでもなく、山田監督のキャリアは「音楽」とともにあった。「けいおん!」からスタートして「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」、「ユーフォ」での選曲、そしてこの作品の冒頭で流れる「あの曲」のチョイスなどでも発揮されている通り、音楽へのマニアックなこだわりは現在も徹底している。個人的に印象深かったのは、「たまこ」における音楽制作へのスタンス(こちらの記事がとても詳しいので一読をオススメします)と、「まーけっと」「ラブストーリー」を通じてただひとつだけリアルに存在する曲を使った、という押し引きのメリハリであるが、そういう人物がこの映画を作るにあたって「音楽」から一歩進んで「音」にこだわったと言うからには、個人なり制作スタッフなり会社組織なりのレベルで何らかの変化があったのであろう、という、ぼんやりとした想像を今はしている。

荒川修作による「アート」である養老天命反転地が劇中に登場するのは、前回書いた。その荒川の他の作品を追っていくと必ず出てくるのが三鷹天命反転住宅である。


両者に共通する「天命反転」というテーマは、こちらのページでより具体的に示されている。一部を引用する:
私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。
これを読んでやっと、「音にこだわる」意味と「聲」の正体への手がかりが掴めたような気がした。

この映画の主題は聴覚障害者でもいじめでもなく、ディスコミュニケーションとその克服であるというワタシの解釈は前回述べた。ここにもうひとつ付け加えるなら、荒川修作が目指したような、個人ごとに異なる身体性の具現化と、それが持つ個々の可能性の提示ではないか。硝子の「聲」を可能な限りそのまま「再現」したことと、彼女が繰り返しダイブするという「肉体的な」描写は、その象徴と言っていい。絵と音で出来ているアニメという表現で、山田監督はそういう困難な命題と真摯に向き合ったように今は思う。

…ここまで考えて、リアルサウンドに載った山田監督へのインタビューを読んだ。すとんと腑に落ちる音がした。そんな気がした。遠慮しない。遠慮しなくていい。自分が持っているありのままをぶつける。人間のコミュニケーションと表現の本質は、そういうものである。

2016/09/19

iPadからiPad miniへ移行

2012年に台湾で開かれた「みらいのねいろ」参加時に購入した第3世代(でいいのかな)のSIMフリー版iPad。ずっと満足してたんだけど、数ヶ月前から内蔵スピーカーが音割れするようになった。イヤホンジャックに直接挿せるスピーカーでごまかしながら使い続けてたところ、ちょうどご縁に恵まれて、iPad mini 3 64GBを譲っていただけることになった(しまさんありがとう)。


元のiPadと容量が同じなので、バックアップをそのままminiに復元して(例によって何度かトラブルはあったけど)、ほぼストレスなく移行できた。

で、実際に使ってみると、スペックや画面の小ささはあまり気にならず、むしろ軽さと取り回しの良さに感心した。それと内蔵スピーカーがステレオなのがとてもうれしい。家でしか使わないならiPadまたはiPad Proでもいいけど、持って歩くならminiで充分だと思う。安く済ませるなら、まだ新品で売られてるmini 2でもいいくらい(mini 3とスペックがほとんど変わらないらしいし)。ただ、大画面化したiPhone 6/6 Plus以降とは差別化が難しい。オススメとしては、iPhone 5S/SEかiPod touchを使ってる人向けになるのかなあ。なお今回の機種はWi-FiのみでSIMが差せないけど、テザリングが解禁されてる現状ではあまりこだわる必要はない気がしてる。

というわけで、いつも通り画面保護フィルムをちゃちゃっと貼って本格運用を開始、んで、使い勝手のよいカバーを探す旅を始める楽しみが増えた。自分の使い方に合うカバーって、なかなか見つからないものなんですよね。増してや旧型になると在庫処分セールののち店頭から消えてしまうので。

…Appleというかスマートフォンやタブレット関係で最も困るのは、実はこの新陳代謝のスピードの速さに影響されて旧機種のアクセサリーがあっという間に手に入らなくなることなのかもしれない。

2016/09/18

目で聞く、耳で見る 〜 映画「聲の形」レビュー(ネタバレあり)

映画「聲の形」を原作マンガ未読のまま公開初日に見に行って、感じたことをとりあえず書き留めておく。従ってストーリーやキャラクターの掘り下げはあまりせず、この映画の演出を中心に話を進める。ただ、どうしてもモチーフやストーリーやキャラクターに触れることになるので、ネタバレを少しでも気にする人は、映画を見てから読んでいただいた方が良いかと思う。



まずはPVをご覧いただきたい。



これだけでもう充分に重たい話であることは伝わってしまうのだが…それはさておき、個人的に強く印象に残ったのは、TV版「響け!ユーフォニアム」で石原立也監督が大々的に用いた被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写と、牛尾憲輔氏によるピアノ主体の抑制的な劇伴である。石原監督と同じ京都アニメーションに所属する山田尚子監督は、本作でこれらを極めて自覚的に作品へ適用したと思った。

そういう話の前に、ストーリーのあらすじを上記PVのキャプチャ画像を引用しながら軽く説明しておこう。

主人公である石田将也(いしだ しょうや)の小学校に、先天的な聴覚障害を持つヒロインの西宮硝子(にしみや しょうこ)が転校してくるところから、物語は始まる。教室の困惑はやがて硝子への無自覚ないじめへと繋がり、無邪気さゆえに硝子へちょっかいを出していた将也は、ある日、いじめの先導者として糾弾され、それがきっかけでいじめられる側になり、周囲から孤立していく。




高校生になった将也は罪の意識を抱えたまま、いじめ発覚後に再び転校してしまった硝子と再会する。ぎこちなく接する将也と、「表面上は」おだやかなほほえみを絶やさない硝子の距離は次第に縮まり、周りに少しずつ友人が戻ってくるのだが、それはひとときに過ぎず、将也と硝子の想いはすれ違ったまま「顔に×印のついた」危ういバランスはついに崩壊してしまう。そして…


…と、ここまで書けば、聴覚障害といじめという重いモチーフが物語の重要な部分を占めていることはお分かりになると思う。劇中ではもっと生々しくて身を切られるような場面が続出するのだが、この作品は、それらを描くこと「自体」を目的としていない。

劇中の中盤、物語の舞台の岐阜県大垣市にほど近いところにある養老天命反転地が出てくる。建築・アート好きには説明不要なほど有名な荒川修作の「アート」だが、将也がコケていた通り、この場所では平衡感覚を狂わされて転ぶ人が多いと聞く。

(画像は養老天命反転地のwebサイトより引用、詳しくは他のサイトをご参照ください)

もうひとつ、これは本作と直接は関係ないのだが、八谷和彦による「視聴覚交換マシン」を紹介しておく。これは自分と他人の視覚と聴覚を丸ごと入れ替える体験を提供する「アート」だが、動画からは装置を装着した人々の戸惑いが伝わってくる。


例えばこのように、通常の感覚やバランスを喪失したときに生じる自他の混乱と、それに伴って不可避的に発生するディスコミュニケーション。そして、それを克服するために何が必要か。これが、本作で山田監督が描こうとしたものではないかと思う。

被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写は、「ユーフォ」では画面を盛り上げるためにここぞという場面で使われた印象があった。一方、この作品は、最初から最後までダメレンズで描写され尽くされる。画面の端に寄ると主役級キャラでさえ容赦なくボケて歪んで滲みまくるそれは、こころを閉ざした将也の視野の狭さと重なる。

そして、抑制的な劇伴は物語の起伏に寄り添わず、淡々と響き続ける。この、音が感情に連動していないさまは、硝子のこころのあり方にそのまま直結している。

では、「意識的に周りを見なくなった」将也と「先天的に音が聞こえない」硝子を繋ぐ糸は何だろう。

学生時代に「非言語(ノンバーバル)コミュニケーション」という本を読んだことがある。もう手放してしまったか部屋の奥に埋もれているのでこれだと断言はできないが、とりあえず本の表紙の画像を引用しておこう。


これによると、人間のコミュニケーションは言語より非言語、例えば、身振り手振り、色、座る位置etc.などの比重がずっと大きいという(…というようなことが書いてあったとぼんやり記憶している)。本作では、それらの非言語的なコミュニケーションの数々が、京都アニメーションならではの美しく細やかな筆致で描かれている。

ひとつずつ見ていこう。

硝子は聴覚障害者ではあるが、もちろん普通の優しい女の子である。ときには怒りも泣きもするし、当然、恋もする。その感情の揺れ動きは、言葉ではなく表情や身体の動きで読み取れる。ただ、彼女が「ある行動」を起こすまでは、本当のこころは分からないのであるが…。







次に、言語と非言語の中間として描かれる手話。硝子が使う手話には当然字幕が出ないので、手話を理解できないワタシをはじめ観客のほとんどには、彼女が話していることは分からない。しかし、手話を学んだ将也には、彼女の言葉が伝わっている。





そして、涙。感情に直結して目から流れ落ちる水滴が、言葉にならない嗚咽や言葉を失った表情などとともに描かれる。



最後は、水面に広がる波紋のモチーフと花火の爆発が象徴する、振動から来る皮膚感覚(最初に引用したPVではそれらの場面が描かれていないので画面キャプチャは割愛)。特に高校生の将也と硝子が物理的に触れ合うことがほとんどないのは、この物語のキーのひとつかもしれない。

アニメを含めた映像作品は、突き詰めれば絵と音で出来ている。その片方である音があらかじめ失われた少女に対して、彼女にまつわる複雑な想いを引きずる少年がどう向き合うか。それを描くために、被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写と抑制された劇伴と、音で聞こえる言語ではなく目で見える非言語で伝えられる言葉の数々をていねいに積み重ねて、この作品は成立している。「けいおん!」や「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」で見せた、ふんわりとしてかわいらしくデフォルメされた表情や動きとは全く逆の世界の、リアルな青春の痛みを描き切った本作は、山田尚子監督の観察眼の確かさと繊細な作劇能力の高さを改めて示している。モチーフ的にはむしろ山田監督、いや京都アニメーションの新境地と言っていいかもしれない。

単なるラブストーリーではなく、見ると確実にこころを抉られるような重いものを突きつけられるが、それは決して受け止められないものではない。なぜなら、我々が豊かな感情を持ち、コミュニケーションすることさえ諦めなければ、想いは必ず伝わると分かっているからである。

2016/09/04

「響け!ユーフォニアム」深読み番外編:「聖地」を超えて

「響け!ユーフォニアム」深読み:舞台装置としての宇治』シリーズの余談めいたもの。本編は上記のリンクを辿ってお読みください。

今年の夏も、あの「鼻血が出るほどの」暑さを体感したくて、宇治の街へ行ってきた。「久美子の日常空間」である宇治川周辺を軽く周った後にちょっとしたご縁に恵まれて京都市へ向かうことになり、話の流れで「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」の「聖地」である、出町桝形商店街周辺と、京阪電鉄藤森駅〜聖母女学院周辺を探索することになった。なおワタシは上記2つの作品を後追いで軽く見ただけなので、細かなディテールをあまり意識していなかったことをあらかじめお断りしておく。

【出町桝形商店街周辺】





商店街のアーケードをくぐった瞬間、「たまこま」のオープニング曲「ドラマチックマーケットライド」の歌詞の最後を思わず呟いてしまった。
まるでどんなパーティーもかすむような
きらめく場所ね、ここは
確かめてみて!
仰る通り、確かめてみるまで分からなかった。「たまこま」のメルヘンチックな世界観は、脚色でも何でもなかった。出町桝形商店街は、京都市中心部の他の大型アーケード街とは全く異なる、下町情緒にあふれ、カラフルでポップで人情味のある場所であった。ここで渋谷系っぽいアニソン中心のクラブイベントを開いたら楽しいかもなあなどと妄想しつつ、その一方で、作品の発表から数年が経ち、劇中に登場した店のモデルがいくつか閉店している現実を直視させられもした。

また、商店街から歩いて数分のところにある、京都でも随一の観光名所にして「たまこラ」の象徴的な場所でもある鴨川デルタの飛び石は、言ってしまえば市民の憩いの場そのもので、真夏に涼を求める京都の人たちで賑わっていた。

次に、出町桝形商店街の最寄り駅である京阪電鉄出町柳駅から、同じく京阪電鉄の藤森駅に移動した。

【藤森駅〜聖母女学院周辺】




iPhoneの容量が不足して満足に写真が撮れなかったのが悔やまれる。雷に撃たれたようなショックを受けたのは、藤森駅を降りてすぐに目に入る琵琶湖疏水にかかる橋を見たとき。「たまこま」でなにげなく出てくるこの場所が、こんなにアクロバティックな構造をしてたなんて想像もしていなかった。

京都は千年以上の歴史を持つ。条坊制と呼ばれる碁盤の目状の都市構造を守り続けているこの街が、その長い都市化と近代化の過程で様々なインフラを整備するにあたって、碁盤の目に沿うように手を入れるのは自然な発想である。だが、千年前から続く街並みを縦に貫く鉄道と琵琶湖疏水、それらの上をさらに直交する形で作られた名神高速道路が、時代を超えて濃縮されて普通に共存している風景は、歴史もインフラもない北海道の片田舎で育ったワタシからすれば驚異以外のなにものでもなかった。


さてここからは、妄想という名のちょっとした思考実験である。

前述の通り、京都は非常に長い歴史を持つが、同時に現在進行形の大都市でもあるため、古いものと新しいものが凝縮されており、それゆえ、「いかにもフォトジェニックで意味深な」ロケーションには事欠かない街である。京都アニメーションは、この豊富なロケーションの存在と立地的に有利という理由によって、京都とその周辺地域を舞台としたアニメを作り続けてきたと言える。これらを軽く俯瞰してみよう。事実誤認があるかもしれないのであらかじめ謝っておく。
  • 京阪電鉄は、「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」の舞台である京都中心部、「中二病でも恋がしたい!」「中二病でも恋がしたい!戀」の舞台である滋賀県の大津市周辺(琵琶湖の南端)、「響け!ユーフォニアム」の舞台である宇治市を繋げている。
  • JR京都駅は「けいおん!!」の修学旅行編で登場するが、「たまこラブストーリー」の極めて印象的な場面でも用いられた。
  • 「けいおん!」「けいおん!!」の校舎のモデルである旧豊郷小学校は、滋賀県犬上郡豊郷町…平たく言えば琵琶湖の東側にある。
  • 京都聖母女学院は「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」でたまこたちが通う学校のモデルであるが、「響け!ユーフォニアム」の川島緑輝の出身校である「聖女中等学園」の関連性も考えられる(名前だけ借用した可能性もあるが)。
「氷菓」や「境界の彼方」なども含めて探せば、他にも何か出てくるかもしれない。これらの符合を偶然の産物として片付けてしまってよいものだろうか?

そして、京都アニメーションが今後もこの調子で京都とその周辺の街をロケ地に据えてアニメを作り続けていくとしたら、一体どうなるだろうか?

もしかしたら、富野由悠季監督とサンライズが中心となって作りあげてしまった、個々の作品は独立していながら世界観を共有する「宇宙世紀(UC)」の歴史物語みたいになるんじゃないか?

京都アニメーションの作品群は、京都とその周辺の街を「聖地」化しながら次々と繋げて「大きな物語」を紡いでゆく、壮大な社会実験と言うべき存在になるのかもしれない。それをワタシはこう名付けた。
…こんなものは妄想に決まってるので、深追いせず心の中にしまっておこうと思っていたところ、こんなツイートが目に入った。新作映画「聲の形」公開を記念した京都アニメーション作品の劇場上映会の舞台挨拶で、山田尚子監督が以下のようなことを仰ったらしい。
京都の暑さにやられて頭がクラクラしてたからワタシはこんな妄想をしたのだとばかり思っていたが、中の人もどうやらまんざらでもないらしい。

たとえキャラクターの交流が描かれなくても、世界観がどこかで繋がってさえいればよい。それを百年続けてくれれば、千年後には、京都とその周辺の街を舞台とした京都アニメーションの作品群は源氏物語と見分けがつかなくなる。全く楽しみな話だが、このタイムスパンだと、どうがんばってもその全貌を知ることができなさそうということだけが残念である。






(最高に楽しかった2016年夏の京都の思い出を最後に添えて)

「響け!ユーフォニアム」深読み:舞台装置としての宇治(6)

(5)からのつづき。これで最後、想定より長くなってしまったがもう少しだけご容赦いただきたい。

これまで述べてきた通り、「響け!ユーフォニアム」における宇治市の扱われ方は、他のアニメの「聖地」と決定的に異なるように思われる。その理由は、宇治市の中心を流れる宇治川と街のシンボルである宇治橋によって構成される、街の規模に比べて小さな空間が、まるで野外劇のための舞台装置を設計したかのように描かれているからに他ならない。漠然とロケハンして、見栄えのいい場所を継ぎ接ぎして作ったらこうはならないし、明確な意図を持っていなければ、その街にある世界遺産を描かずに済ますのは難しい。京都アニメーションが「ユーフォ」で自社のある宇治市を扱うにあたってどのような意図を企てたのかは、想像の域を出ない。しかし、歴史が古く豊富な観光資源と物語に恵まれながら同時にありふれた日常を送る生活空間という複雑極まる街の構造を、おそらく地元住民ならではの視点で注意深く大胆に整理した手際の鮮やかさは賞賛に値すると思う。この舞台設計があったからこそ、「ユーフォ」の物語、キャラクター、そして宇治の街という「新しい聖地のあり方」が、一層印象深く、一層輝いて見えるのである。この一連の記事を読んで「ユーフォ」と宇治市の魅力を再発見する方が仮にいらっしゃったなら、長々と妄想を吐き出した甲斐があったというものである。


アニメのロケハン主義と「聖地」化事例は、これからも増え続けるだろう。ではその街が物語にどれだけフィットしているか、その場所が持つ文脈をどれだけ掬い上げているか、「新しい聖地のあり方」を提示した2015年春の「ユーフォ」以降のご当地アニメは、そこが問われることになる。現時点では富山に本社を構える「クロムクロ」のP.A.WORKSが似たようなアプローチの作品群を生み出しているので、注目している。

さて、「ユーフォ」は劇場版を経て2016年10月から2期が始まる。この仮説、すなわち

『「ユーフォ」の主人公である久美子の日常空間は、
宇治川を中心としたひとつの舞台装置として構成されている』

は、そのまま適用可能だろうか。自分で言うのも何だが、個人的には否定的な見方をしている。理由は原作小説を読了済みなせいもあるのだが、既に発表されているキービジュアルやPV等から、ただならぬ緊張感を読み取ってしまっているためである。新しいキャラクターを加え関西大会という新しいステージに向けてどのような物語が紡がれるのか、期待と不安の両方の気持ちを抱えながら待ちたいと思う。



以下、余談:
  • 北宇治高校と京阪宇治線と京阪電車については考察の外に追い出してしまったが、それぞれ深読みしがいがあるテーマだと思う。特に京阪宇治線。
  • 非日常空間の延長と位置づけた山城総合運動公園・太陽が丘の陸上競技場(サンフェス会場)や宇治市文化センター(再オーディションの場所)、京都コンサートホール(府大会会場)なども同じく考慮外。こちらは単発エピソードっぽいところがあるので、深読みしてもあまり意味は無さそうである。
  • 実在しない久美子の住むマンションや北宇治高校など、意図的にフェイクが混ぜてあるのは別建てで考察したい。逆に、現時点で消えてしまったランドマークが宇治でさえ存在するのは、正直ショックではある。
  • この仮説に基づいて番外編(第14話)「かけだすモナカ」を見ると、とても新鮮な気分が得られるのでオススメ。
  • 逆に、劇場版ではエピソードや日常シーンがかなりカットされているので、この仮説をそのまま適用するのは難しいと思われる。


…ここで終わるはずが番外編を書いてしまったので、こちらからどうぞ。

「響け!ユーフォニアム」深読み:舞台装置としての宇治(5)

(4)からのつづき

では、アニメのロジックで「ユーフォ」の主人公である久美子の日常空間を眺めてみよう。(3)で掲載した図を再掲する。



この、宇治川と宇治橋で規定された空間を、いよいよ「仮説」に基づいて抽象化してみる。その「仮説」とは、

『「ユーフォ」の主人公である久美子の日常空間は、
宇治川を中心としたひとつの舞台装置として構成されているのではないか』

というものである。具体的には以下のイメージ:
  • 宇治川:街の構造の起点、分断する流れ、強い力、観客(=我々)の視線の方向、
時間や若さのメタファー(=水のモチーフ)
  • 宇治橋:街のシンボル、左岸(下手)と右岸(上手)を繋ぐもの、舞台、演者の場所
  • 宇治川左岸:下手、俗なるもの、安易なもの、平凡に甘んじるもの、交友、地獄
  • 宇治川右岸:上手、聖なるもの、崇高なもの、高みを目指すもの、孤独、天国

では仮説の具体的な検証として、キャラクターの配置や動きを眺めてみよう。

滝先生の場合:右岸の住人



滝先生がこの空間に現れるのは第1話だけで、右岸にある宇治神社へ「わざわざクルマに乗ってやってきて」参拝する。彼は寺社仏閣巡りが趣味なので、宇治神社の格が高く学問の神を祀っているのを知っていたと思われ、おそらく学業成就=吹奏楽部指導の成功を祈願したに違いない。そして「地獄のオルフェ」≒天国と地獄について言及して去っていくのは、この空間の構造を暗示しているようでもある。

麗奈の場合:右岸の住人





麗奈は劇中で常に右岸に現れ、一度も宇治橋を渡らない。自宅も大吉山周辺と明言されている。トランペットを習っているので宇治橋を渡って市街のどこかへ行っている気がするのだが。なお引用した画像の1枚目と3枚目、ともに宇治神社が背景であることに注意。

葵ちゃんの場合:左岸の住人





葵ちゃんは第2話で宇治橋を右岸から左岸に渡って以降、左岸にしか登場しない。久美子の幼なじみなので家は久美子と近いはずで通学路もほとんど重なるはずだが…。なお3枚目の背景が宇治橋なのに注意。

久美子と秀一の場合:??






久美子はいかにも主役らしく、劇中でこの空間内のあちらこちらに現れて、宇治橋を行ったり来たり忙しい。自宅は左岸にあり、同じく左岸の通称久美子ベンチが定位置ではあるが、右岸を通学路にして右岸の川べりに座ることもある。そして秀一も久美子に付き合うように居場所が安定しない。なお第12話から引用した5枚目の画像は「うまくなりたい」と叫ぶ直前のものだが、遠くに見える2本の煙突は、第2話で葵ちゃんが宇治川を渡るシーンでも映し出されていることに注意。こういう「いかにもフォトジェニックで意味深な」風景がそこかしこに存在するのが、宇治の街の極めてユニークな点だと思う。



葉月の場合:……





葉月がこの空間に登場するのは第6、8話。初心者らしく素直に「うまくなりたい、チューバは」と呟くのは(思いっきり引きの場面で分かりづらくて恐縮だが)右岸で、秀一に振られるのは左岸、そして宇治橋の途中で泣き出してしまう。この分かりやすさが彼女の魅力ではあるのだけど。

そして第8話「おまつりトライアングル」の構造も簡単に整理しておこう。北宇治高校吹奏楽部員の多くは左岸で行われている(お祭りとしてはわりと俗っぽい位置づけらしい)あがた祭へ出かけたが、久美子は麗奈と右岸の大吉山へ登り、そこで麗奈の「特別になりたい」という感情の吐露を受け、久美子が呆然となってしまう。



麗奈は久美子が成り行きで誘い出したわけだが、麗奈はこれ幸いと久美子を自らのホームグラウンドである右岸に引っ張り込む。要するに「一緒に特別になってほしい」という左岸の住人である久美子への神聖な「愛の告白」なのだが、それを右岸の宇治神社の奥にある物理的にも高い大吉山の上で、左岸のあがた祭や葉月・秀一の恋愛模様と対比しながら描くというのは、ほぼ完全に「仮説」を実証する構図と言っていいと思う。

長くなってしまった。仮説を再度記す。

『「ユーフォ」の主人公である久美子の日常空間は、
宇治川を中心としたひとつの舞台装置として構成されている』

ぜひ、他のエピソードもこの仮説に基づいて見直していただきたい。必ず新しい発見があることを保証しよう。

最後に軽くまとめて終わりにする。

(6)につづく