2016/11/25

「響け!ユーフォニアム2」深読み:第八回

いつもの前置き:何をどう工夫してもネタバレは避けられないし、そもそも自分が考えてることは明らかに他の皆さんと違っちゃってるようなので、まだ見てない人はもちろん既に見た人も含め、作品を素直に楽しみたい方は、この記事の存在を忘れてください。ただの感想文とか楽しい感じには絶対にならないので、そういうのを期待してる人は読まないでください。

警告おしまい。あとは好き勝手に書く…けど、今回はいつものノリとは違うので、今までお付き合いいただいてた方にも正直オススメできません…もし読んでしまって変な熱が出ちゃったら、サファイア川島に頭突きで体温を測ってもらってください。


2016/11/20

「響け!ユーフォニアム2」深読み:第七回

いつもの前置き:何をどう工夫してもネタバレは避けられないし、そもそも自分が考えてることは明らかに他の皆さんと違っちゃってるようなので、まだ見てない人はもちろん既に見た人も含め、作品を素直に楽しみたい方は、この記事の存在を忘れてください。ただの感想文とか楽しい感じには絶対にならないので、そういうのを期待してる人は読まないでください。

警告おしまい。あとは好き勝手に書く。と言っても今回は個人的に第五回に匹敵するほど、いや、第1期を含めても異様に密度が高くて全く思考が追いついてないんだけど。



2016/11/14

ワタシにとっての「この世界の片隅に」

たまに実家へ帰ると、母はいつもの服装で、おだやかな表情をして座っている。

そういう母は昔、子供だった頃の体験を話してくれた。根室の空襲で焼け出されたこと、仕方なく移り住んだ田舎で幼い兄弟姉妹揃って畑仕事に駆り出されて、蹴飛ばしても言うことをきかない農耕馬に腹を立てて悔し泣きしたこと、味方の飛行機だと思って手を振ったら敵で、機銃掃射を食らって間一髪で助かったこと。

田舎の中学校を卒業してから家事手伝いのまま成人した母は、そういう体験から来るのだろうか、愛想笑いが得意なだけの、学がなく、世間知らずで、心配性で、とても臆病な人だった。ずっとそう思っていた。

父とは見合い結婚したと聞いている。その父は小樽港に潜っては不発弾を拾って遊んでいたというのだから性格は正反対に近いのだけど、どのような経緯で父と母が結びついたのか詳細は知らない。ただ、結婚して父の家庭に入ったとき、祖母や父の兄弟姉妹…自分の叔父叔母からかなりひどい扱いを受けたというのを、母がよくこぼしていた。

そういう母は幼い頃のワタシを少し虐待していた。何かにつけてはワタシを自分の膝の上に座らせ、何度も頬をつねった。やわらかくて気持ちいいからという母の言葉をワタシは忘れていない。母からかわいがられているんだというのと、母に弄ばれているんだという感覚を同時に覚えながら、黙ってされるがままにしていた。

母は家事手伝い時代に学んだらしい洋裁をたしなみ、ワタシと兄姉の服や小物をよく作ってくれた。ワタシは末っ子なので兄姉のお下がりが回ってくることが多かったけれど。料理も得意で工夫するのが好きだったらしく、普段の食事は質素ながらも並以上の味のものが食べられた。ちょっとしたパンケーキや片栗粉に砂糖を入れて湯がいたものなどの質素なおやつは、他の菓子よりもワタシのお気に入りで、母に頼んではよく作ってもらっていた。

自分が中学生か高校生の頃だろうか、母の実家へ遊びに行ったとき、押し入れの中からこんなものが出てきたと言って叔父が持ってきたのは、母の兄弟姉妹が様々な服を着て、広い間取りの家が描かれた、幼い頃の母の絵の数々だった。母は、それまで見たことが無いような表情を浮かべながら、そんなものさっさと捨ててほしいと言った。ワタシはその絵を見て、母が夢に描いたような家を建ててやりたいと漠然と考え、それが進路を選択する動機のひとつになった。結局その夢は果たせていないのだけど。





片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」を見始めてすぐに思い出したのは、このようなワタシと母との記憶の数々である。能年玲奈あらため「のん」が演じる主人公のすずさんの生きざまは、もしかしたら道東の田舎で生まれ育ち父の元へ嫁いだ母の人生の追体験なのかもしれないと感じてしまう瞬間が何度もあった。冒頭に挙げた、母の話と共通する場面がとても多かったから。なので、とても他人事とは思えなかった。

すずさんがそうであったように、母もまた、この世界の片隅でひっそりと生きてきたひとりである。そんな無名の人たちがどこにでもいたことに、あらためて想いを馳せる。





実家に帰ると、母はいつも微笑んでいる。

頬をつねられることはとっくの昔に無くなった。ミシンはもう何十年も動いていない。たまに帰ってきたんだから得意料理の数々を食わせてくれと頼んでも、それが出てくることはもう無い。母の実家はずいぶん前に引き払われたらしいので、あの絵も処分されてしまったはずである。だから、戦争当時の体験を尋ねても、何も答えてくれないだろう。数分前に話したことさえ忘れてしまうから。

映画館を出てしばらくそんなことを考えながら歩いていたら、不意に涙があふれて止まらなくなった。いまの母の、何の思考も経ていないオウム返しの会話も、あの曖昧な微笑みも、もうすぐ永遠に失われるという事実を突きつけられたから。それを何年も前から覚悟していたはずなのに、準備もしていたはずなのに、結局何ひとつできてないことが分かってしまったから。もっと話しておけば、もっと聞いておけば、そんな後悔が一気にこみ上げてきて、街中でぼろぼろと泣いてしまった。





近いうちに実家へ帰ろうと思う。母がこの世界を忘れてしまう前に。

「響け!ユーフォニアム2」深読み番外編その2:疑似劇場版ユーフォ2のススメ

第五回でアニメ史に残るであろう一大クライマックスを迎えてから第六回でまたギアチェンジしたように見えるユーフォ2、第六回Aパートのゆるいノリが第1期の第六回くらいまでに近くてすごく好きなんだけど、そこらへんを考えると、第一回〜第五回と第六回以降は、実質的な「2」と「3」であると見なしていいだろう。

そういうわけで今回は、「実質的な2」を今後何度も繰り返して見るファンの皆さんへ向けた、ちょっとした提案というかお遊びである。


2016/11/11

「響け!ユーフォニアム2」深読み:第六回

いつもの前置きを再び:何をどう工夫してもネタバレは避けられないし、そもそも自分が考えてることは明らかに他の皆さんと違っちゃってるようなので、まだ見てない人はもちろん既に見た人も含め、作品を素直に楽しみたい方は、この記事の存在を忘れてください。ただの感想文とか楽しい感じには絶対にならないので、そういうのを期待してる人は読まないでください。

警告おしまい。あとは好き勝手に書く。こんなのを読むおまえらなんかお化けに取りつかれて呪われてしまえー!!



2016/11/06

「響け!ユーフォニアム2」深読み:第五回

いつもの前置きを今回はやめることにした。いまだに考えがまとまらないので散漫なメモ書きみたいになるのを許してほしい。

さっそく本題。第五回「きせきのハーモニー」について。以前『舞台装置としての宇治』という一連の記事を書くにあたって第1期を見直した際、ユーフォの「アニメの文法に極めて忠実な」構成に驚いたことがある。その疑問を解決しようとしてネットを探ると、木上益治氏の存在に必ず行き着いた。あの沖浦啓之氏をして「京都ではアニメーターの何たるかは、木上益治さんの背中を見ていれば全てわかるはずだ」と言わしめる、全てを兼ね備えた天才とさえ称されるような、京都アニメーションの重鎮である。そういう人物が今回、絵コンテと演出を担当していることを踏まえた上で話を進めたい(石原監督も共同で絵コンテをやっているけど)。氏が第1期で手がけられた第五回第十二回がどのようなものだったかを思い出してもらえると助かる。

2016/11/01

インスタレーションとしての『映画「聲の形」』〜チネチッタLIVE ZOUND字幕付き上映を見て

公開から時間を経て仲間との「聲の形被害者の会」(というひどい名前の飲み会)でいい具合に作品を消化できてユーフォ2期も始まったところで、川崎のチネチッタが『映画「聲の形」』LIVE ZOUND字幕付き上映を行ってると知って、これを見逃す手はないと思ったので見てきた。

そもそもLIVE ZOUNDとは何ぞや、という話から始めた方が良いか。詳細はリンクを辿っていただくとして、端的に説明すると立川のシネマシティの極上爆音上映・極上音響上映と同じように音響機材を特盛り化した上映形態であるが、シネマシティとの大きな違いは、グループ内にある老舗ライブハウスのクラブチッタで培った音響ノウハウを転用している(らしい)というところ。先日のガルパン劇場版LIVE ZOUND上映で確かめた感じでは、シネマシティは重厚で迫力があり、チネチッタはモダンでパワフルといった印象だった。なお、チネチッタは以前から「LIVEサウンド上映」と銘打った音響に力を入れた上映を行っており、劇場版ユーフォでワタシはそれを体験していることを付記しておく。

もうひとつ、インスタレーションについて軽く説明しよう。詳細はこれまた先のWikipediaへのリンクやその他の解説に譲ってざっくり言うと、「空間に設置された装置で体験を提供する現代芸術作品」といったところだろうか。芸術関係を少しでもかじっていればインスタレーションはもはや普通の表現形態のひとつと分かるけど一般の人は意外と触れる機会のないものなのかもというのは最近になってあらためて感じたことで、そのへんは現代芸術が直面する難しさのひとつかもしれない。そういう自分でさえ、現代芸術家の友人に連れて行かれた横浜トリエンナーレでの体験くらいしか語る材料がないくらいだから。名前の通り3年に1回の開催だけど次は2017年なので興味のある方は行くといいぞ。ヴェネツィアは遠いからな。

(横浜トリエンナーレの展示作品のひとつです念のため。2011年撮影)

やっと本題。『映画「聲の形」』はそう名乗る通り映画として完成しているが、そのエモーショナルな表層をぺりぺりってめくるとインスタレーション的な視聴覚表現が顔を覗かせるのではないか、というのを、2回目を見た後に感じた。

きっかけになったのは、花火大会のシーンで硝子ちゃんが手に持つカップの水面に起こる波紋。実際にやってみれば分かると思うけど、手の震えや花火の爆発の衝撃ではあんなふうにはならず、全体に波打つか外から中に向かう波になるはずである。つまり、中心から外側に向かって広がる波紋は、その中心に何かが落ちたことによって発生したものである。

その何かとは…言うまでもなく涙である。硝子ちゃんはあの場面、いや、物語のほぼ全編にわたって将也と一緒にほろほろと泣いているのである。

この「見えないものを描いている」事実に気づいたとき、『映画「聲の形」』は、表層で描かれる絵や語られる言葉と、深層に流れる意味が、ずれたり隠されたり多層化したりしてるんじゃないか、要するにひとつの現代芸術作品として見立てても通用するんじゃないかと思った。繰り返し現れる「中心点から外に広がる波紋」のモチーフと、アンビエントからエレクトロニカを2010年代的にアップデートしたような劇伴は、その分かりやすい切り口と言える。

…などと考えつつ、LIVE ZOUND上映を見た。

視覚を刺激するスクリーンには、京都アニメーションの技術の結晶のような映像が、ときには抽象画的に、あるいは文字や記号を交えて投影される。

聴覚を刺激する音響、聲と劇伴と環境音は、LIVE ZOUNDが誇る設備によって、きわめて広いダイナミックレンジで克明に再生される。

この映画は、これほど大胆で複雑で刺激的で生々しいものだったのかと唸った。映画館という真っ暗な空間で体験する、映画という形をしたインスタレーション。LIVE ZOUND上映に限っては、そう呼んでいいかもしれない。

『映画「聲の形」』は公開からかなりの時間が経ち、LIVE ZOUND上映も期間限定ゆえ体験できる人の数は限られてしまうのだが、できれば芸術的な素養が深い方にこそ体験してほしい。自分は本音を言うと酒を飲んでべろんべろんになってハイな状態でこの映画のLIVE ZOUND上映をキメたいのだが、それを実際にやるのはさすがに憚られるので自宅での楽しみに取っておこうと思う。

…ところでシネマシティさん、上映するなら何が何でも行きますよ?