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2016/11/14

ワタシにとっての「この世界の片隅に」

たまに実家へ帰ると、母はいつもの服装で、おだやかな表情をして座っている。

そういう母は昔、子供だった頃の体験を話してくれた。根室の空襲で焼け出されたこと、仕方なく移り住んだ田舎で幼い兄弟姉妹揃って畑仕事に駆り出されて、蹴飛ばしても言うことをきかない農耕馬に腹を立てて悔し泣きしたこと、味方の飛行機だと思って手を振ったら敵で、機銃掃射を食らって間一髪で助かったこと。

田舎の中学校を卒業してから家事手伝いのまま成人した母は、そういう体験から来るのだろうか、愛想笑いが得意なだけの、学がなく、世間知らずで、心配性で、とても臆病な人だった。ずっとそう思っていた。

父とは見合い結婚したと聞いている。その父は小樽港に潜っては不発弾を拾って遊んでいたというのだから性格は正反対に近いのだけど、どのような経緯で父と母が結びついたのか詳細は知らない。ただ、結婚して父の家庭に入ったとき、祖母や父の兄弟姉妹…自分の叔父叔母からかなりひどい扱いを受けたというのを、母がよくこぼしていた。

そういう母は幼い頃のワタシを少し虐待していた。何かにつけてはワタシを自分の膝の上に座らせ、何度も頬をつねった。やわらかくて気持ちいいからという母の言葉をワタシは忘れていない。母からかわいがられているんだというのと、母に弄ばれているんだという感覚を同時に覚えながら、黙ってされるがままにしていた。

母は家事手伝い時代に学んだらしい洋裁をたしなみ、ワタシと兄姉の服や小物をよく作ってくれた。ワタシは末っ子なので兄姉のお下がりが回ってくることが多かったけれど。料理も得意で工夫するのが好きだったらしく、普段の食事は質素ながらも並以上の味のものが食べられた。ちょっとしたパンケーキや片栗粉に砂糖を入れて湯がいたものなどの質素なおやつは、他の菓子よりもワタシのお気に入りで、母に頼んではよく作ってもらっていた。

自分が中学生か高校生の頃だろうか、母の実家へ遊びに行ったとき、押し入れの中からこんなものが出てきたと言って叔父が持ってきたのは、母の兄弟姉妹が様々な服を着て、広い間取りの家が描かれた、幼い頃の母の絵の数々だった。母は、それまで見たことが無いような表情を浮かべながら、そんなものさっさと捨ててほしいと言った。ワタシはその絵を見て、母が夢に描いたような家を建ててやりたいと漠然と考え、それが進路を選択する動機のひとつになった。結局その夢は果たせていないのだけど。





片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」を見始めてすぐに思い出したのは、このようなワタシと母との記憶の数々である。能年玲奈あらため「のん」が演じる主人公のすずさんの生きざまは、もしかしたら道東の田舎で生まれ育ち父の元へ嫁いだ母の人生の追体験なのかもしれないと感じてしまう瞬間が何度もあった。冒頭に挙げた、母の話と共通する場面がとても多かったから。なので、とても他人事とは思えなかった。

すずさんがそうであったように、母もまた、この世界の片隅でひっそりと生きてきたひとりである。そんな無名の人たちがどこにでもいたことに、あらためて想いを馳せる。





実家に帰ると、母はいつも微笑んでいる。

頬をつねられることはとっくの昔に無くなった。ミシンはもう何十年も動いていない。たまに帰ってきたんだから得意料理の数々を食わせてくれと頼んでも、それが出てくることはもう無い。母の実家はずいぶん前に引き払われたらしいので、あの絵も処分されてしまったはずである。だから、戦争当時の体験を尋ねても、何も答えてくれないだろう。数分前に話したことさえ忘れてしまうから。

映画館を出てしばらくそんなことを考えながら歩いていたら、不意に涙があふれて止まらなくなった。いまの母の、何の思考も経ていないオウム返しの会話も、あの曖昧な微笑みも、もうすぐ永遠に失われるという事実を突きつけられたから。それを何年も前から覚悟していたはずなのに、準備もしていたはずなのに、結局何ひとつできてないことが分かってしまったから。もっと話しておけば、もっと聞いておけば、そんな後悔が一気にこみ上げてきて、街中でぼろぼろと泣いてしまった。





近いうちに実家へ帰ろうと思う。母がこの世界を忘れてしまう前に。

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