2016/09/24

これから「響け!ユーフォニアム」を追いかけるべき3つの理由

冗談を口にしたら本当に書きたくなったのでつらつらと。長くなると未見の皆さんへのネタバレになるので、できるだけ端的にという気持ちで。

2015年春に放送されたTV版「響け!ユーフォニアム」(以下1期)は、その確かな評価によって「劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校へようこそ〜」(以下劇場版)が制作され、さらにこの10月から「響け!ユーフォニアム2」(以下2期)のTV放送が始まる。昨今のTVアニメでは珍しくない間を空けての続編だが、先日、先行上映会へ参加できる機会に恵まれて、2期1話(1時間スペシャル!)を丸の内ピカデリーで見た。

これは事件だと思った。

上映が終了したあとの呆然とした感覚を、数週間経った今でも忘れることができない。長いことアニメ好きをやってきて、こんなふうに思ったのはほとんど記憶にない。放送後はおそらく大騒ぎになるだろうと確信している。

その2期1話をとにかく1人でも多く「目撃」してほしいというお節介なアピールを前提として、「ユーフォ」を見るか迷っている人のために、今からでも追いかけるべき理由を以下に3つ述べる。
  1. 京都アニメーションと日本アニメの転換点に位置づけられそうな作品であること

    京アニは作画の安定性とトータルの品質で名をあげたアニメ制作集団である。ゲーム・マンガ・小説が原作の作品を立て続けにヒットさせたのち、自社レーベルのラノベ文庫を原作としたアニメをしばらく制作していたが、「甘城ブリリアントパーク」で再び他者の原作に戻ってきた。その後に制作したのが、宝島社が出した武田綾乃氏の小説が原作の「ユーフォ」1期と、(「無彩限のファントム・ワールド」を挟んで)講談社が出した大今良時氏のマンガを原作とした映画「聲の形」である。

    原作を自社で賄うことを止めて、例えば以前のカドカワのような(京アニからすれば)大きな会社の小説やマンガを今あえてアニメ化する理由は何だろう。推測の域を出ないが、これは作画や品質だけでは視聴者がついてこなくなっている現状を打破するための選択ではないかと思っている。と同時に、高齢化するアニメーター等の職人の後継者が不足している(らしい)こと、さらには中国などの海外資本が日本のアニメ制作職人を高く買っている(らしい)現状も、制作側の危機感に繋がっているだろう。

    定評のある作画や品質に加えて、時には既に話題を呼んだ大きくダイナミックな原作をアニメ化して作家性も前面に打ち出し、今後はそれで勝負する。自分は「ユーフォ」と「聲の形」を、京アニの転換点というか決意のようなものと受け取っている。そして、こういった現代の日本アニメ技術の精緻と言うべき作品を、今後は京アニですら作るのが難しくなるかもしれない。だから今、「ユーフォ」を見逃す手はない。

  2. 極めて上質な「音楽映画」であること

    「ユーフォ」は、架空の学校である北宇治高校の吹奏楽部全員が主役であると思っている(主人公の黄前久美子は、特に1期では語り部兼その代表として描かれていると解釈)。彼女たち彼らの演奏は、最初は下手くそだけど指導者の手腕によって次第に実力を身につけていくのだが、「ユーフォ」では、その過程が実際の音として描写されていて、クライマックスの演奏シーンは異様に力の入った作画も相まって大きなカタルシスを呼ぶ。まさにアニメで描かれた熱演である。

    京アニにとって「音楽」は特別なものである。作品リストを眺めていただければ、誰でも納得するであろう。社会現象化した「けいおん!」以来の、真正面から音楽を描く「ユーフォ」は、方向性はまるで反対ながら、同様の上質な音楽体験を提供してくれる。主にシリーズ演出の山田尚子氏のしわざによる劇中曲の「意表を突いた」選曲はもちろんだが、特に「架空の吹奏楽曲」である「三日月の舞」は物語の「象徴」で、個人的には「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー メインテーマ」に匹敵する「映画音楽」における名曲だと思っている。

    同時に、物語を彩る松田彬人氏の手による劇伴が素晴らしい。特に1期では、通常の吹奏楽では使われない楽器を巧みに配置して、劇中の吹奏楽の演奏と差別化しながら叙情的な心象風景を描き出すことに成功している。物語を通して何度も反復される旋律のそれぞれが何を意味しているか、語り出せばそれで記事がひとつ書けてしまうだろう。

    余談だが、劇場版だけを見ていた音楽のヘビーリスナーである某氏に1期のサウンドトラックを聴かせたところ、1曲目が始まってすぐに良いと呟いて食いついてきたのはさすがに笑ってしまった。また、立川のシネマシティでの劇場版「極上音響上映」は、コンサートともライブともクラブとも部屋のオーディオともヘッドホンとも全く違う、このまま死んでも構わないと思うほど極めて鮮烈で圧倒的な音楽体験であったことを付記しておく。


  3. 「永遠の夏」への回答であること

    先ほど挙げた「ビューティフル・ドリーマー」では、「永遠に繰り返す日常」という、オタクコンテンツへの呪いとも言うべき重大なモチーフが提示された。「何度もやってくる文化祭の前日」「廃墟とコンビニと自宅で謳歌し続ける夏のバカンス」「脱出できない悪夢の連続」という描写がその後に与えた影響は計り知れず、また、当時のオタクたちの価値観を大きく変えてしまった。なかには自分のようにその後の生き方がネジ曲がってしまった者も多く…まあいい。現在でも様々に形を変えながら引用されるそんなモチーフが、2015年度の宇治を舞台にしたこのアニメでも、ほんのわずかに顔を覗かせる。


    「ユーフォ」は夏の物語だと、個人的に思っている。実際にそれを体験したくて、去年と今年の暑い時期をわざわざ狙って宇治へ行ってきたほどに。しかし京アニ本社がある現実の宇治では当然だが季節が巡りゆく。それが「ユーフォ」の劇中でも描かれるのは、既に公開されている2期のPVでほぼ確定してしまっているのである。


    「ユーフォ」の物語を駆動する推進力はあくまでも主人公の黄前久美子をはじめとした北宇治高校吹奏楽部の成長であり、それは不可逆的なものである。ゆえに、オタクの呪縛だった「永遠の夏」は終わる。重い枷をほどいて次へ行くために、夏を終わらせるために、オタクは「ユーフォ」の行く末を見届けるべきである。
…やっぱり長くなってしまった。とにかく2期1話がとんでもないので、1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を全部見ておいてほしい気持ちでいっぱいなんである。ちょうどニコ動で1期の一挙放送があるようだし、せっかくの機会なので少々お時間を割いていただくのも悪くないだろうと考える次第である。



備えよう。



(1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を見終わったら下のPVを見よう)

「聲」とは何か 〜 映画「聲の形」レビュー追記(ネタバレあり?)

映画「聲の形」公開初日に見に行って大きな衝撃を受けた状態でヒーヒー言いながら何とかまとめた前回の記事では覚悟と材料が足りなくてどうしても触れることができなかった話が、のどの奥に魚の骨が刺さったような違和感として残ってしまっているので、それをこれからとりとめなく吐き出していく。ネタバレは前回より少ないはずだけど、未見の方は映画を見てから読むことをオススメしますと念のため前置き。

本題。公開初日、上映後の舞台挨拶で、山田尚子監督が最後にこう仰った。ワタシの聞き間違いでなければ正しいと思う。

「この映画は音にこだわって作りました」

さすがに耳を疑った。確かに良い音響、良い音楽、良い演技なのは充分に伝わるが、聴覚障害者が出てくる物語で「音にこだわる」とはいったいどういう意味なのか。これは、先日のレビュー執筆時ではとうとう答が見つからず、自分みたいな人間に突きつけられた問いなのかと感じながら、あれこれ思索を巡らせてきた。

この作品で、どのようにしても逃げられない「音」は、早見沙織さんが演じる硝子の「聲」(「声」の旧字体)である。劇中ではわずかにしか発せられないその「聲」を演じるために、早見さんは聴覚に障害を持つ皆さんと「対話」しながら役づくりに励まれたというような話を見かけた(記憶がある)が、現在の声優の演技力はここまで到達しているのか、と、この映画を見ながら思った(同席した友人はあまり納得していなかったようだが、これは個人差だろう)。

似たような経験を、実は去年もしている。

山田監督がシリーズ演出としてクレジットされているTV版「響け!ユーフォニアム」1期の第12話「わたしのユーフォニアム」のクライマックスで、黒沢ともよさんが演じる主人公の黄前久美子が悔し涙を散らして宇治橋を駆けるシーン、「うまくなりたい」と叫んでから秀一との掛け合いのあとに久美子が膝から崩れ落ちつつ声を振り絞った、

「私のほうが…」

という、あの一言である。高校生の女の子の感情が爆発して言葉にならないさまを、ありのままに再現した、あの演技である。


黒沢ともよさんが実はとんでもない傑物であると知ったのは番組放映からかなり後なのだが、それは今回の本題ではないので触れない。とにかく、現在の声優の演技がここまで到達できる事実を、しかもそれをまだ20歳そこそこの彼女が示せたことを、「ユーフォ」にも出演していて十分なキャリアを持つ早見さんはもちろん、山田監督も、京都アニメーションの音響をずっと支え続けている鶴岡音響監督も、重く受け止めたに違いない。

いまさら指摘するまでもなく、山田監督のキャリアは「音楽」とともにあった。「けいおん!」からスタートして「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」、「ユーフォ」での選曲、そしてこの作品の冒頭で流れる「あの曲」のチョイスなどでも発揮されている通り、音楽へのマニアックなこだわりは現在も徹底している。個人的に印象深かったのは、「たまこ」における音楽制作へのスタンス(こちらの記事がとても詳しいので一読をオススメします)と、「まーけっと」「ラブストーリー」を通じてただひとつだけリアルに存在する曲を使った、という押し引きのメリハリであるが、そういう人物がこの映画を作るにあたって「音楽」から一歩進んで「音」にこだわったと言うからには、個人なり制作スタッフなり会社組織なりのレベルで何らかの変化があったのであろう、という、ぼんやりとした想像を今はしている。

荒川修作による「アート」である養老天命反転地が劇中に登場するのは、前回書いた。その荒川の他の作品を追っていくと必ず出てくるのが三鷹天命反転住宅である。


両者に共通する「天命反転」というテーマは、こちらのページでより具体的に示されている。一部を引用する:
私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。
これを読んでやっと、「音にこだわる」意味と「聲」の正体への手がかりが掴めたような気がした。

この映画の主題は聴覚障害者でもいじめでもなく、ディスコミュニケーションとその克服であるというワタシの解釈は前回述べた。ここにもうひとつ付け加えるなら、荒川修作が目指したような、個人ごとに異なる身体性の具現化と、それが持つ個々の可能性の提示ではないか。硝子の「聲」を可能な限りそのまま「再現」したことと、彼女が繰り返しダイブするという「肉体的な」描写は、その象徴と言っていい。絵と音で出来ているアニメという表現で、山田監督はそういう困難な命題と真摯に向き合ったように今は思う。

…ここまで考えて、リアルサウンドに載った山田監督へのインタビューを読んだ。すとんと腑に落ちる音がした。そんな気がした。遠慮しない。遠慮しなくていい。自分が持っているありのままをぶつける。人間のコミュニケーションと表現の本質は、そういうものである。