2017/02/13

「この世界の片隅に」をアニメ・映画的に読み解くための試案づくり

昨年末から今年にかけての社会現象と言っていい「この世界の片隅に」の大ヒットを受けて…というわけではないが、1回目に見たとき受けたショックも癒えた頃合いなので先日2回目を見た。それでようやく、いつもの「キモい感じの」ノリの記事を書く気になったのだけど、まだ円盤が売られておらず配信もされていない現状、記憶だけで書くのはさすがに自信がないので、あくまで試案づくりの段階、ドラフト版ということでメモ書き程度にまとめておく。これを受けてどなたかが肉付けをしてくださると大変に助かるので、そういう方はどしどし引用したりアイディアをパクったりしてください(笑)。

さて本題。この「アニメ映画」が昨年の晩秋の公開以来尻上がりに評価を高めて大ヒットし、社会現象と呼んでいいほどの話題になっているのは前述した通り。この状況を眺めていて、ワタシはいくつか疑問を持った。以下にそれを記す。
  • いわゆる文化人、具体的にはたくさんの書物や映画、美術作品などに触れていて教養の深い方々、が、この「アニメ映画」をこぞって絶賛して、しかもそのほとんどが文化人とは思えない、ガルパンで言うところの「いいぞ」的な語彙でしか語ることができなくなっているのはなぜか
  • 2017年2月現在、この作品を見に映画館へ足を運んでいる方々の半数くらいは50〜70歳程度に思えるが、本来は「アニメ映画」から最も遠い層であるはずなのにわざわざお金を払って見に来て、しかも途中退場もせず最後はしんみりと余韻に浸っているように見えるのはなぜか
この疑問を解決するには、例えばこの「アニメ映画」のすごさや美点として語られている「ストーリーの良さ」「徹底した時代考証と取材」や「元:能年玲奈・現:のんの演技の素晴らしさ」といった各要素からいったん距離を置き、もう少し俯瞰して、技術・技法的な話をしておいた方がいいように思った。

そう考えるようになったきっかけは、呉への空襲など特に後半で目立つ砲撃・爆撃のシーン。「徹底した時代考証と取材」からリアリズム追求を主眼としてあの場面を作ったならば、遠くで爆弾が炸裂するシーンでは絵と音がシンクロしない、具体的には煙が見えてからわずかに時間差を置いて爆発音が聞えてくる描写になるはずである。だけどそういったものはあの作品においてほとんど見られず、そのことがむしろ砲撃・爆撃の臨場感を増して(さらに言えばあの原爆投下のシーンに大きく効いて)いる。

この「絵と音がシンクロしないアニメは気持ちが悪い」的なことを、確か「彼氏彼女の事情」を作っていた時の庵野秀明監督が言っていたように記憶している。踏切の警報灯の明滅と警報音は現実ではシンクロしていないことが多いが、アニメではシンクロして描かないと間が持たないというか盛り上がらないというか気持ちが悪い、というようなことを話していたと思う(が例によって記憶が曖昧)。

「この世界の片隅に」は、例えばこういう「アニメ」や「映画」の文法に極めて忠実な、オーソドックスかつ重厚な映像・演出技術の集大成みたいなもので、それがたまたま「アニメ」という皮を被ってるだけじゃないのか。だから、教養の高い文化人の方々さえ開始数分で物語世界にタイムトリップさせて強い体験を与えて言葉を奪うことができる。だから、シニア層もアニメであることを意識せず映画としてごくごく自然に楽ませることができる。自分が話をしたいのは、ここに集約される。


そういう目線でもってあの作品を思い出してみると、いろいろと興味深いことに気がつく。

構図はメリハリがあるものの水平基調で安定感がある。また、(アニメとして仮想化された)カメラレンズも、魚眼や超望遠といった突飛なものはほとんど使ってなかったはず(もしかしたらレンズの種類は2〜3本かもしれない)。そしてこの2つは「同じ場所」を「違う時間」で切り取るために用いられているので、劇中では何度も同じようなカットを見ることになるが時間が経っているので当然全て見え方が違う。また、カメラはほとんど固定でレールやクレーンを使ったような描写どころかパンする場面すらわずかであり、もちろん、流行の手ブレ・ダメレンズ表現は使われていない(ただし手ブレ表現は例えば防空壕のなかでの衝撃を表現するために文字通りブレブレな映像として出てくる)。

やわらかな輪郭線や背景は原作マンガの世界の再現を目指したためと思われる(原作未読なのでここの話は想像が混じるのをあらかじめお詫びしておく)。しかし原作が全てフルカラーで描かれているとは思えないので、あの淡い色彩設計は時代がかったアナログフィルムのテイストの表現かもしれない。しかしだからこそ、ピンポイントでビビッドな色が使われる場面が生きる。

アニメ的にカロリーの高い派手な動きはないが、常にほぼあらゆるところがぬるぬると動く。しかしそれが主目的ではないのは、この物語の性格ゆえかもしれない。その一方で、小気味よいカット割りで観客を飽きさせず、笑いどころのスパイスとしてストップモーションアニメ的表現を用いたりもしている。



その絵は原作をリスペクトしたほんわか基調ながら時に大きく抽象へ寄ったりするが、その境目はあいまいで、すずさんの描く絵と同化してしまうことさえあるし、シネカリグラフィーという技法が使われたりする。同じく、登場人物が(物語の中で)現実なのか虚構の存在なのか、生きているのか死んでいるのか、そのあたりも説明抜きでかなりあいまいに描かれていることが多いように思う。この虚実が入り混じる感じは今敏監督を引き合いに出すまでもなくアニメではよく使われるモチーフだが、探せばもちろん実写映画にも多く存在するだろう(ワタシが無知なだけ)。

ちょっと考えただけでこれだけ出てくる。文化的な素養が高く劇場へ通い詰めて何度も見ている方なら、他にももっといろいろ気づくことが多いだろう。

この妄想を思いついたとき、いつも相談に乗っていただいている識者数名へご意見を仰いだ際に出てきたのが、小津安二郎の名前である。例によってワタシはこういう話に疎いのでどう考えるかは皆さんへお任せするとして、押井守監督が言っていた「全ての映画はアニメになる」というテーゼは、片渕須直監督によってひとつの解を得たように思う。いや、良い原作マンガを基に据えて徹底した時代考証と取材を敢行し現:のんをパズルの最後のピースとして主役に抜擢して数々の技法を高レベルで駆使しながらひとつの映画に仕立て上げた片渕監督は、この作品を通じてアニメや映画を超える何かを我々に見せてくれているのかもしれない。



余談。片渕監督が思い描く、空を飛ぶアニメが見たい。この映画を見てその想いを強くしています。