2012/06/03

飽きた、去る?

「みらいのねいろ in 台北」後のVOCALOID聴き専ラジオで、ZANEEDSのざにお氏が非常に重要な事実を指摘した。曰く、
ボーカロイド楽曲の制作者が、制作に飽きて離れていっている
と。今後のことを考えると軽く受け流すことはできないが深く考えるのも少々億劫なので、台北うんぬんとは別に、メモ的なものをとりとめなく書いておく。



ニコニコ動画(やピアプロ等)というプラットフォーム上で、初音ミクを起点にした唄声合成楽曲が脚光を浴びて、約5年が経過した。そこでは実にさまざまなバックグラウンドを持った人たちが、(基本的には)アマチュアかつ個人というスタンス(またはそういうお約束)で、オープンに作品を発表してきた。いやむしろ、いまや無いものを探すほうが難しい。音楽でもイラストでも動画でもストリーミングでも何でもいいからアップロードして、コンテンツを共有することの楽しさを存分に味わうことができた。「ミクの日大感謝祭」と「ニコニコ超会議」は、ひとつの頂点だったかも知れない。

その一方、ニコ動あるいはボカロに関わる人たちの顔ぶれが変化してきたのも事実であるが、そんなことは今さら指摘するまでもなく当然である。5年という時間は赤ん坊を子供に、小学生を中高生に、大学生を社会人にする。変わらないのはおっさんくらいなものだが、一般的には、社会で責任を全うしつつ家庭に向きあうというミッションが待ち構えている。5年とはそれくらいの重みを持ち、同時に、人生において可処分時間が得られるのは、ほんのわずかの期間しかないということなのだろう(もちろん約5年の間に大震災があり、現時点でもなお社会が不安定であることも忘れてはいけない)。

その上でワタシが懸念するのは、ざにお氏が指摘した「飽きた」という感情が、この界隈に増えているかもしれないということなのだ。氏は制作側として問題提起しているが、ワタシはこれをいわゆる「聴き専」のひとりであるワタシ自身への言葉として受け止めた。VOCALOID楽曲紹介onetopiのキュレーターを引き受け、毎日、大量に発表される作品群を聴き続けて数ヶ月が経過した昨年の8/31に、ワタシは一種の燃え尽き症候群に陥って、以前のようには作品を聴けなくなったことを吐露してしまおう。

一般的に、美術・芸術作品の制作には大変な労力を伴う。また、時間的・金銭的なリソースも消費する。しかし、そのほとんどは報われない。途方もない数の美術・芸術作品が、陽の目をみることなく消えていく。DTMによる楽曲制作ももちろんその一部である以上、相応の覚悟をもって望んだつもりだったが、甘かったことを思い知らされた。ワタシから見れば大量の作品群のなかのひとつでも、制作者からすれば、想いを込めた1つの作品である。それを自分の浅薄な知識と感性で無碍に切り捨てていいものかという悩みが増大し、ついには押しつぶされてしまった(具体的には、2011/8/31に発表された大量の作品群以降、新作をキャッチアップできなくなった)。この状態を「お前は飽きたんじゃねえの」と尋ねられたら、返す言葉が見つからない。みっともない話である。

わずかながら言い訳をするならば、作品に対して何かしらの縛りを設けず均等に接することが、どれほど大変なことかを知る良い機会を得られているということである(VOCALOID楽曲紹介onetopiのキュレーターは、自分が知るかぎり最強クラスの聴き専である(た)さんという心強いパートナーを得られたが、ワタシもまだ続けています念のため)。ボカロのライブラリや作品の制作者(=いわゆるP)、ジャンル等を区別なく大量に音楽を聴くと、すぐにそのほとんどは自分の好みではないと感じる、また、ワタシはオーディオ趣味を持ち音楽を聴く側に長く居たので、音質的に辛いと感じたとたん作品の評価が揺らぐ、というクセを持っていることに気づいた。語弊を恐れずに言えば、これは砂金採りのようなものかも知れないと思いついたのは2012年になってからだったか。「それは本当に砂金であると世間様に公言していいのか」などと考え始めると、また無限ループに陥るのでやめておく。

さてここであえて書く。「ボカロのライブラリ」という表現を用いたが、約5年の間、特にPSPのProject DIVA発売後に、「ボカロのキャラクター」を重視する方々が増加したように思う。いやそれは、初音ミクという、たったひとりのキャラクターへの傾倒と換言してもいい。2010年の感謝祭から2011年のミクパ&MIKUNOPOLIS、そして2012年の大感謝祭とスケールが大きくなっていくにつれて、ボカロの世間一般での認知度が大きくなっているのは確かだが、「ボカロ≒初音ミク」は(多くの非難を承知の上で)事実なのだ。

上記と並行して、環境の整備が招いた各クラスタの分断も指摘しておかねばなるまい。先のProject DIVAは象徴的だが、端的に言って入り口が増えたのだ。ニコ動にアクセスせずともボカロの作品群を楽しむことができる。また、ニコ動内においてさえも、生放送や「歌ってみた」等、作品を楽しむスタイルは人それぞれに違ってしまった。他にも、アーケードゲームや3DSで、CDやDVDやBlu-rayで、カラオケで、イラスト投稿サイトで、新聞や雑誌や書籍やTVやラジオで、コスプレで、その他諸々で、ボカロを消費できてしまう。ではそこから、次のボカロPへの動線をどのように描けばいいのだろう。がんばれば自分でも何とかできそうという一種の楽天的な空気が失われつつあることに危機感を抱いているのは、ワタシだけなんだろうか。

ワタシの疲弊はこれらと無関係ではないだろうと思うことも、この際だから吐露してしまう。

「どうしてこうなった」。ボーカロイドエンジンはバージョン3になり、クリプトン以外の他社からも多数のライブラリが発売され、それぞれの認知度はもっと増えていいはずだ。もっと多くの可能性が追求されていいはずだ。この5年の間に、我々はそれだけの「厚み」を蓄えてきたのではなかったか。そんな疑問があったのは確かである。これは裏返せば、先のざにお氏の指摘に繋がる。すなわち「飽きる」とは、制作者のモチベーションを刺激して維持して高めるための「厚み」がいまだに得られていない、ということではないか。誰でも目の前のおもちゃに飽きたら新しい遊びを始めるものだが、似たようなおもちゃを欲するとは限らないのである。

台湾から帰って以降、やっぱりそう思わざるを得ないよなあ、でもあの熱気に応えるには再度ネジを巻き直さないといかんなあ、自分がやれることは限られてるけどなあ、どうしようかなあ、などとあれこれ考えていたら、数日前に突如、ちょっとした騒ぎが起こった。UTAU波音リツのキレ音源を用いた作品群のブレイクである。これらはニコ動のカテゴリランキングとTwitterで一目瞭然であるが、少なくない数の制作者と聴き専を強く刺激したと断言していいだろう。「キャラクター」ではなく「ライブラリ」の「厚み」を増す、似たようなおもちゃではなく新しい遊びを提供する。それがインディペンデントな範囲で実行可能であるという事実について、ボーカロイドのライブラリを企画・発売している各社は、真摯に受け止める必要があるだろう。もちろんワタシ自身も新しい刺激をもらったからには、やれることをやる(久しぶりに動画をアップロードしたのは勢い余ってのことですけどね何卒何卒)。文末にきて、この文章はそういう決意の表明に近づいてきたようなので、そういうことにしてしまおう。

寝る。