アニメ批評的な文章を書くかどうか迷っていたが結局書くことにした。
現在放映中のアニメ「
響け!ユーフォニアム」を録画しておいた8話まで一気に見たところで「こりゃあ面白い」となって、
原作小説を一気に通読して現在は毎週の放映を楽しみにしながら待っているところ。と言っても1クールならもうすぐ終わってしまうのだけど。
このアニメはいろいろと語りたくなる要素が満載なのだが、今回から不定期で、記事のタイトルに挙げた「過剰」「執拗」「容赦のなさ」というキーワードを適宜使いながら、思いついたことを書き連ねていこうと思う。初回は「キャラクターに与えられた役割」について。なお画面キャプチャを入れたいところなんだがnasneから撮るのが面倒っぽいので断念、従って色気のない文章の羅列になることをあらかじめお断りしておく。
OPラストの全員整列シルエットやBパート冒頭のアイキャッチでお分かりの通り、北宇治高校吹奏楽部のメンバーは各々にキャラクター設定(顔つき体つきはもちろん、名前、学年、担当楽器、仲の良い友人etc.)が細かく行われていると考えてよいだろう(=モブにしては「過剰」な扱い)。そのなかで、一種の特権を与えられているキャラクターが存在する。列挙すると以下の通り:
- 特別である:久美子、麗奈、あすか先輩、(緑輝)
- 道化である:久美子、葉月、緑輝、あすか先輩
- 美人である:麗奈、香織先輩、あすか先輩
「特別である」とは麗奈のセリフからの引用だが、ここでは「楽器演奏において他よりもアドバンテージを持つ者」という解釈で用いる。久美子は小学校からユーフォニアム一筋なのでキャリアは他の部員より頭ひとつ抜けている(が本人はそのことに対して無自覚)。麗奈は恵まれた家庭環境に加えて本人の意思と才能によって一層の高みを目指している。あすか先輩は練習の虫で何よりもユーフォニアムを愛している。この3人はあの「大してやる気の無かった」部員の中では上から数えて何番目の上手さのはずなのだ。ここで問題になるのは緑輝…もう緑でいいや…の存在なのだが、あの背の小ささでコントラバスを弾きこなす腕前とキラキラネームへのコンプレックスでプラスマイナスゼロだろうか。まあとりあえず彼女は横へ置く。
「道化である」とは「漫画・アニメ的表現を許容する者」という意味である。京都アニメーションがジブリではない、つまりTVアニメを作っているのであってアニメ映画のTV版を作っているわけではないのは、例えば彼女たちの「ヒョウタンツギ」みたいなふくれっ面を見れば分かる。道化である彼女たちは物語をくるくると回して前に進める役割を担う。久美子・葉月・緑のトリオは言ってしまえば水戸黄門と助さん角さんみたいなものだ。あすか先輩は「変人」という設定からその役割が巡ってきてしまったのかもしれないし、何を考えているか窺い知れない「仮面」のメタファーなのかもしれない。
「美人である」とは文字通り。好むと好まざるに関わらず、こういうキャラクターがいなければアニメは盛り上がらない。麗奈は同性の久美子をして惚けさせるほどの美少女として描かれる。香織先輩は下級生に取り巻きができる上品でしっかり者で芯が強くて優しい女の子。あすか先輩は頭脳もプロポーションも非の打ち所がない美女だが変わり者という残念美人のカテゴリー…(=容赦のなさ)。
さてここで振り返ってみる。3つの要素を全て兼ね備えているのはあすか先輩のみであるが、彼女を主役に据えると話が「ハルヒ」になってしまうのは容易に想像がつく。ゆえに彼女は自ら中心を去る(=部長に推薦されていながら辞退して副部長に納まる)。そして、主役の座は久美子と、その照射としての麗奈に譲られる。
あすか先輩(特別・道化・美人)→久美子(特別・道化)+麗奈(特別・美人)
当初、久美子は自分が「特別」であることには無自覚なように思えたのだが、そこに中学からの友人であった麗奈の存在が強くコミットしてくることで彼女の内面は大きく変わろうとしているように見える(特に8話において)。つまりこれからは、主人公兼語り部たる久美子の成長を通して、「より特別になる」吹奏楽部員たちの姿が描かれることになるはずだ。その過程の苦しみや葛藤も描いているために(9〜11話)、いわゆるキャラ萌えアニメとは一線を画した重厚なドラマ性を有しているのだが。ここはおそらく「けいおん!」とも違うところだろう(実は「けいおん!」をしっかり見てないんで間違ってたらごめんw)
少々とりとめのない話になったが今回はここまで。なお原作小説とアニメは各エピソードの扱いがかなり違っていたりするので、ファンの方はできれば両方見ることをオススメします。