For short, " I. M. G. D. "
Established : 1997/12/07

Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2015/12/27

ボカロP最弱セットMac版(2015)

以前、ほぼ同様のタイトルでMacでのボーカロイド作曲環境を廉価で整える記事を書いた。今回はそのアップデート版なので、基本的なことは前の記事を参照にしてほしい。

2015年に入りDTM環境は一層の多様化を見せ、また、ボーカロイドライブラリ制作各社がV4へのシフトを鮮明化するに至り、ユーザーとしても選択の幅の広さに悩まされることになった。今回の記事はここを中心に書く。

一方、Macは前の記事を書いてからハードが一通り世代交代し、OSがEl Capitanにアップデートしたが、極端に大きな進化はしていない。従って、今回の記事でも「USB3.0ポートが装備されたMacにできるだけたくさんメモリを積むのがオススメ」というスタンスに変化は無く、以降、Mac本体については触れない。

さて前回の記事のまとめに書いた
  • 最弱セット松:Cubase 7の廉価版 + ボカキューNEO + Macに対応したV3ボカロライブラリ
  • 最弱セット竹:GarageBand最新版 + 初音ミクV3またはKAITO V3( + MainStage 3 + Drummer追加)
  • 最弱セット梅:GarageBand最新版 + UTAU-Synth( + MainStage 3)
を見直していくことにしよう。

Cubaseは前回の記事から8.5にアップデートされたが、廉価版(あるいはオーディオインターフェース等のバンドル版)としてCubase Element 8がラインナップされているので、「最弱」としてはこれを軸に考える。注目すべきは体験版の存在で、じゃあこれにボカキューNEOとV3かV4のボカロライブラリの体験版が揃えば初期費用ゼロでボカロ作曲がとりあえず試せるんじゃね?…と思ったら、ちゃんと用意してくれていた。えらいぞヤマハ。というわけで、まずはこれを試してみるのを推奨。ボカロライブラリ体験版ならヤマハ以外の他社でも出ているはずなので、各自探してみてほしい(代表的なところでAHS社の体験版ラインナップへのリンクを貼っておく)。あ、ライブラリがちゃんとMacに対応してるかは確認してね。


と、ここで気になるのがPiapro Studioが使えるクリプトンボカロ。体験版が用意されているのは現時点でV3のMEIKOV4Xの巡音ルカ英語だけだがV3の初音ミクなので、好みで選ぶといいだろう(個人的には容量デカいけどV4Xの新機能が使えるルカさんオススメ)。いずれにせよ、これらの体験版とGarageBandを組合わせればやっぱり初期費用ゼロでボカロ作曲が試せる。なおPiapro Studioは他社製ライブラリも使えるので、Cubase/ボカキューNEOとGarageBand(≒Logic Pro X)/Piapro Studioを比較しながらあれこれ使い込んでみるのもいいかもしれない。


UTAU-Synthは現状維持ながら継続してリリースされているのが素晴らしい。前回の記事を書いた時期から比べるとUTAUライブラリの進歩と充実は目を見張るものがあるので、ニコ動などで音源を聴き比べて面白そうなものを使ってみるといいだろう。もちろんこれも基本的に初期費用ゼロ。それと上記の2つと違ってボーカルエディタが独立しているのでDAWが自由に選べるのは隠れたアドバンテージかもしれない。


さて…新しいアプローチで歌声合成業界(?)に参入してきたCeVIOだが、現時点ではMacでネイティブに動作するものは存在しない。従って、使いたければBoot CampかVMware fusionParallels Desktopか…ってもうこれ初心者向けじゃないので除外。素直にWindowsマシンを用意してください。残念…。


周辺機器については以前と同じ。しっかりとしたモニター用ヘッドホン、あると便利なUSBバスパワー動作のMIDIキーボード、バックアップ用外付けハードディスク、ほしい人はオーディオインターフェース…等々。特にヘッドホンは重要だと思うし長く使うものなのでじっくり選んでほしい。

さて、前回から特筆すべき事柄として、ビギナー向けボカロ作曲用参考書の決定版とも言えるアンメルツPの「ボカロビギナーズ」が一般書籍として発売されたことが挙げられる。とりあえず手元に置いといて損はないと思うので、作曲のお供にどうぞ。


ということで、年末年始休みの間にボカロ作曲を初期費用ゼロでやってみて、気に入ったらお年玉で買える範囲のプランを再考してみた。最弱セット松で数万、梅なら周辺機器関係の出費程度で抑えられる。「とにかく唄わせたい」という意思が先なら、DTM環境を整えるのは後からでも十分間に合うのだ。ご検討あれ。



追伸:クリプトン社は鏡音リン・レンV4Xの体験版を早急に用意すべきだと強調しておく。こういうときにこそオススメしたいのに…。

さらに追伸:2016/01/21にアップルはiOS向けアプリのGarageBandをアップデートし、同時にMusic Memosという「鼻歌作曲ソフト」をリリースした。前者には、強化されたLoop機能とMac版GarageBand / Logic Pro Xに搭載されているDrummer機能が追加され、DTM環境としてはこれひとつでかなりのところまで追い込めるようなところまで来た。また、Music Memosは先述の通り鼻歌などの音源を録音するとそれに見合ったコードを付与しギターとドラムの簡単な演奏までつけてくれるというもので、作曲やカバーの際に威力を発揮するだろう。というか、Music Memos / GarageBandとiOS版VOCALOIDエディタがあれば、とりあえずiPhone / iPadでボカロ作曲できてしまうので、既にiOS機器を持っている人にとっては実はダークホース的にオススメかもしれない(特にiPad)。

2015/12/19

トラックボールを変更

event_note
ワタシのPC環境はずいぶん前からMac mini (Early 2009) を中心として構成されていて、入力デバイスからデータバックアップシステムまで数年単位で変更せず使ってきた。今回話題にする入力デバイスのひとつであるトラックボール(ロジクールM570)は、約3年前に腱鞘炎の悪化を予防するため知人のアドバイスで導入したもので、  少々手を入れて以降は快適に使うことができていた。

ところがここ数週間、どうにも調子がおかしくなってしまった。具体的には左クリックが確定されなかったり勝手にダブルクリックと認識されたり…いわゆるチャタリングの発生である。「M570 チャタリング」で検索すると同様の症状多数、自分で内部のスイッチを交換する猛者も見つかったりしたが、実はこの機種、3年無償保証(!)の対象らしく状況によっては新品交換になる場合もあるっぽいので、いつ買ったかははっきり覚えていないがとりあえずサポートへ連絡することにした。

で、結果どうなったかというと、電話と数回のメールのやりとりの後、自分の手元にはM570tという同製品のマイナーチェンジ版トラックボールが届けられた。製造番号の確認により購入3年以内であることが分かり、通常利用による不具合の範疇だと認められたわけである。代替品をさっさとよこして元々の品はルールに従って処分してくださいねというロジクールの太っ腹でスピーディかつ割り切ったサポート姿勢に感服しつつ…本題はこれから。

最近エレコムがトラックボールの新製品を立て続けに出して一部で話題になっているが、実はこの製品群の前モデルが存在していて、ワタシはモデルチェンジ直前の在庫処分時にちゃっかり1つキープしていたのだった。ていねいな対応をしてくれたロジクールには申し訳ないが、せっかくの機会なので今回はこちら、M-XT1URBKを棚の奥から引っ張り出して使ってみることにした。

さてこの機種、M570と比べて若干小ぶりで人差し指左側の「進む」「戻る」ボタンの位置が窮屈に感じるものの、全体的な感触はM570と大差なく、すぐ慣れることができた。トラックボールやチルトホイール、各ボタン類の感触はこちらのほうがいいので、通常利用なら甲乙つけがたいなあと思う。

しかし、細かな設定などをしていくと少々困った問題がひとつ。エレコム製品はマウスアシスタントと呼ばれる自社製ドライバをインストールして各ボタン類に機能(≒キーボード入力)を割り振ることができるのだが、tabキーが「任意キー」のメニュー内に無く、例えば「control+tab」といったキーコンビネーションが設定できないことが発覚!ブラウザ等のアプリケーションのタブ切り替え等にtabキーはよく使うし、そもそも「任意キー」以外のメニュー内にはtabキー入力がしっかり用意されている(=tabキーだけをボタンに割り振るのは問題なくできる)ので、何を考えてこんな仕様にしているのか正直意味不明である。これじゃあ画竜点睛を欠くなあと思い、エレコムのサポートへ要望を上げておいた。…が、ずいぶん前にエレコムのBluetoothマウスを買ったときも同じ問題に当たってぶん投げた記憶が…ハードウェアが良くてもソフトウェアがタコだと商品価値が下がるという現代のものづくりの難しさの一面とか、そういう話なのかもしれない。些細なことだけど。

ともかくこのトラックボール、上記の不満点を除けば今のところ問題なく快適に使えている。新型では左手用や人差し指操作タイプなどちょっと変わったモデルも積極的に展開している同社には、トラックボール愛用者として今後とも期待したい。入力がストレス無くできればそれに越したことはないので(特に人差し指操作タイプはすごく気になってる)。

2015/12/14

ボカロブーム8年とナユタン星人の登場に思う

誰も書かないなら早い者勝ちということで、ナユタン星人さん(以下敬称略)について思うところをつれづれと書く。端的に言って、2015年の夏にナユタン星人がニコ動に現れたのはひとつの事件であり、また、ボカロブームがもたらした必然だとわりと本気で考えてるのだが、本稿ではそれを何とか説明したい。ちょっと手に余りそうで自信がないが。

とある方がナユタン星人を評して、「正解しか選んでいない」と言ったのを覚えている。ここでの正解とはDTMの音源選びから作詞作曲動画制作のメソッド、ニコ動で伸びるためのスタイルの取り方やプロモーション手法など何から何までにあたる。つまりナユタン星人は2015/07/01の登場時から、誤りなく迷いなく突き進んできたように見える。異星人だから当然っちゃ当然だけど。

さてニコ動でのボカロ楽曲ブームは初音ミク登場から数えて8年を超えたわけだが、一種の熱狂から醒めた現在は、2010〜13年頃に持て囃された「いかにもボカロ曲っぽいスタイル」…高速で細かく刻むリズム構造、難解な漢字熟語を多用した内省的自傷的歌詞、四隅が黒っぽくてキネティックタイポグラフィ的なPV等…の氾濫が落ち着いて、制作者はわりと自由にやっているように感じる。その引き換えとして爆発的な再生数を稼ぐ作品は以前のようにはなかなか出てこなくなったのだが、今回はどちらがいいとかそういうレベルの話はしない。重要なのは、そのような状況下でナユタン星人が全く何もないところからじわじわと侵略話題を呼び、結局ほとんどの発表曲がヒットしたという事実である。

実際にナユタン星人の作品を視聴すると、どれも非常に洗練されていて、かつキャラが立っていることが分かる。それは前述した通り誤りの無さ迷いの無さゆえだが、このセンスはどこから出てきたものだろうか。当人が異星からやってきた存在なので全く想像の域を出ないが、音楽好きであるのはもちろん、かなりの確率で相当なニコ厨、それもぼからんを毎週チェックしたりVOCALOIDタグを全て聴き漁るようなボカロ廃であることが理由にあるように思う。その体験を異星人の頭脳はデータベースとして蓄積して分析して、どうすればヒットするかのノウハウとして自らの作品に適用しているのだろう。

ここでワタシが思い出すのは、かつてあったひとつの音楽ムーブメントである。古今東西のレコードを山ほど買い漁り、サンプリングと引用を駆使して新しい作品として発表する…渋谷系と呼ばれるそれは現在ではひとつのジャンルとして認識されているが、ここで強調したいのはいわゆる渋谷系の曲調ではなくて、バックグラウンドとなった巨大な音楽ライブラリの存在と、スタイリッシュなサンプリング・引用という手法である。ナユタン星人にとってのそれらはもしかすると、8年にわたってニコ動に蓄積された膨大なボカロ楽曲群と、性能・機能的に洗練されたDTMという編集ツールに相当するのかもしれない。おそろしいのは、渋谷系的なそのアプローチを2015年のニコ動でやっているのがたったひとり(確認されている限り)で他には誰も見当たらない感じというところだが、本人は異星人なので案外けろっとしてそうである。

最新作でありアルバム「ナユタン星からの物体X」のラストを飾る「ストラトステラ」の歌詞に一言こうある。

「だから、さよなら」


…そういえば「全ての言葉はさよなら」って曲があったなあ、とドキリとしながら、メロウで瑞々しい歌詞を噛み締める。ワタシにはもう遠くなってしまった場所の歌だが、異星人なら時間も距離も問題にさえしないだろう。そしてワタシは天体観測に戻る。異星人の放つ輝きを待つために。



追記:本当は「曲単体もアルバムも短くて潔いのが特徴のひとつ」とか「初音ミク成分が最初から限りなく抜け落ちてる」的なことなども書きたかったけど冗長になるので次の機会に

公開しました> #2015年ボカロ10選 +1

今年はたぶんやらないと言ったな、あれはウソだ。というわけでボカロリスナー年末恒例のボカロ10選をついやってしまった。今回は勢い余って1曲はみ出て合計11作品。

http://www.nicovideo.jp/mylist/54145167

2013年は年末にいろいろあって2014年はほとんどネットから離れていたから、こうやってまとめるのはたぶん3年ぶり。日常的に書いていた楽曲レビューもすっかりご無沙汰しているので思うようにアイディアが出てこず不満の残るリストとコメントになったが、現状ではこれが精一杯。もし期待されていた方がいたとしたら申し訳ない。

与太話はともかくリストを改めて眺めてみると、我ながら振り幅が大きいというか好みがハッキリしてるというか節操がないというか…。ニコ動のボカロ楽曲から大きなトレンドが失われたように見える現在、あえてその中をクロールするボカロリスナーが作品を選ぶとその趣味と嗜好が以前よりも色濃く反映されてしまうのだ、と、もっともらしい言い訳を述べておく。

総評としてはそんな感じで、選曲した各作品についてはマイリストのコメントを参照してください。それとナユタン星人さんについては章をあらためて書く。氏が2015年に現れたことこそが一連の行動の動機なので。



2015/12/25追記:廻転楕円体さんの「収斂する退化」が再投稿されたので「双頭の零」と入れ替え

2015/11/10

BloggerにTwitter Cardsを設定

event_note
このブログはGoogleが提供するサービスのひとつであるBloggerを使っているのだが、以前から気になっていたTwitter Cardsの設定を実験がてらやってみた。

まずいつもの通り、検索して引っかかったこちらの方法を丸パクりしてみた(Twitter IDは当然自分のものに変更)。

そしてCard validatorに行ってURLを入力してみたが、"Required meta tag missing"とか言われてしまった。

こりゃいつものごとくTwitterかBloggerに仕様変更があったのかなとも思ったが、エラーの内容から考えると追加したmeta tagのmetaDescription部分に問題がありそうとアタリをつける。少々調べたところこんなページを発見したので、ここに書かれた通りにBloggerの管理画面>設定>検索設定>で「検索向け説明を有効にしますか?」のチェックボックスを「はい」にして保存。そしてページ編集画面に現れた「検索向け説明」欄に適当な文言を放り込んで、再度チャレンジ!

できた!

…のはいいんだが、最初の方法に書いてある「Request Approval」ボタンやら申請画面がどこにも見当たらない。試しにブログのURLをツイートしてみたらそれっぽい表示になったので、結果オーライこれでよしとする。こんないい加減でいいのかと自分にツッコミつつおしまい。

2015/11/09

ボカロ系批評サークルは衰退しました(?)

いつものようにTwitterのTLを眺めていたら下記のようなツイートが流れてきた。



それを受けて我らが「DAIM」のボス・しまさんのツイート

中村屋与太郎氏率いる白色手帖は、「VOCALO CRITIQUE」とそれに続く「ボカロ批評」の発行によって、同人活動におけるボカロ批評界(って便宜的に呼ぶけど実体がどういうものかはここでは定義しない)のフロントランナーであり続けた。まずはそのバイタリティと功績に敬意を示したいと思う。

一方、しまさんが指摘する件だが、我々「DAIM」は元々ボカロだけではなくネット上の同人音楽を広く対象として個別にレビューするという方針を取っているため、厳密な意味ではボカロの批評(だけ)を目的にしたサークルではない。ボカロが同人音楽のなかでも比較的アクティブな話題であり、また、ボカロから同人音楽に入ったためボカロと親和性の高い(=ボカロ好きな)レビュアーが集まり、その結果としてボカロ曲を多く扱っているというのが、「DAIM」がボカロ寄りに見える理由である。

ともかく、同人活動におけるアクティブなボカロ系批評サークルは、我々「DAIM」がいるだけになってしまったようである(以前は「Vocapedia」や「Vocalo Imagine」といったユニークな本で賑わっていたものだが。VOCA'ONは元気だろうか)。とはいえ(すっかり何も書かなくなってしまったワタシが言うのも何だが)「DAIM」も開始当初のスタイルから変化してwebマガジン+不定期刊行の冊子という活動形態に落ち着いており、何より上記のように音楽以外の話題の受け皿とはならないため、白色手帖が広く扱ってきたような「ボカロ現象」的なものについて何か発表するためには、個人でなんとかする以外の道がなくなってしまったようにも見える。

「ボカロ現象」的なものへの言及というのは、例えばSFマガジンやユリイカで特集された記事や、また現在だと、ミクダヨー展や金沢21世紀美術館で展示されているGhost in the Cell:細胞の中の幽霊等について語ることを想像してもらうと分かりやすい。電子楽器の一種であるボカロによってアマチュアによる音楽作品が爆発的に発表され、同時に、電子楽器という枠からはみ出して映像や芸術、文学、もっと大きく文化や経済さまざまな方面に大きな影響を及ぼしたこと、それらについてまとめて発表するのが別に学者や専任の記者・ライターの特権ではないのは、白色手帖を筆頭としたこれまでの同人的ボカロ批評活動が示してきた通りである。一方、「DAIM」が当初ネットを主体に活動していたことからもお分かりのように、その論文めいた何かを必ず本という形態で頒布しなくてはいけないわけでもない。現状では、思い立ったときに然るべきサービスを使ってブログを書き公開してしまうのが最も手っ取り早いだろう。

では実際のところどうなのか。積極的に探したわけではないが、そういったボカロ批評系ブログはあまりバズらずニュースサイトの記事がTLに流れてくるケースの方がずっと多いように見える。この「思い立ったらすぐ書いて発表できる」にも関わらず「書かれた結果」を目にすることはあまり無い状況を逆に考えると、思い立つ人やそのモチベーションが減った、ということも言えてしまう(「すぐ思い立つけど書くことに対して何故かものすごく腰が重くて結局何も書かない人」というのは「DAIM」メンバーに限らずたくさん見たけど)。これは、ある側面では事実だと思う。あれだけ発行されていたメジャー出版社の各種雑誌がほとんど無くなってしまったのが、その傍証である。しかし、別の側面…我々おっさんではない、今まさに熱狂している層(その多くは小中学生らしいが)を見渡してみると、ボカロ小説が読まれ、絵が描かれ、キャラクターとして愛されている、らしい。その彼ら彼女たちの中には、ボカロに対する新しい価値観が育まれているはずなのだ。こういう現場を取材するとそれだけでひとつ記事ができそうだから誰かやりませんか。

閑話休題。ここまで書いてやっと、ボカロ批評界は今がある種の世代交代の時期なんじゃないかという結論とも妄想ともつかないところに達した。約8年にわたる「ボカロ現象」がひとまとまりの歴史として認知され、新しい切り口の批評がそろそろ出始めるころなんじゃなかろうか。それを納める容れものはきっといつか然るべきかたちで現れるだろう、と、白いページの後ろに書いてひとまず閉じることにする。

…中村屋さん、今度一杯やりましょう。

2015/10/14

ニコ動のボカロ音楽における単色背景派について

こういうのは深く考えずざっくり書き散らしてしまおう。

ニコ動のボカロ音楽デイリー新着チェックをしなくなって2年近く、それでも最近はサムネだけでもボンヤリと眺めて気になったものを少々聴いたりしている。

そんななか浮上してきたのが、「単色背景で全体の色数が極端に少なくフォント表示がおおむねソリッド」な動画を上げる皆さん。ここでは例によって勝手に「単色背景派」と呼ぶ。

代表的な作家(と言っても全体から見ればごく少数だが)を下記に示す。

  • ナユタン星人さん



  • anomimiさん



  • みみみエナさん



ご覧になってお分かりの通りこれまでにも存在していたスタイルではあるのだが、世間一般のフラットデザインの潮流を照らし合わせて見ると、うまく説明できるのではないかと思う。一目見て分かるキャッチーさ、縮小しても損なわれない視認性の高さ、シンプルに構造化され華飾を排したデザイン志向、etc.。当然そのような考えは各自のサウンドデザインにも当てはめることができ、これまで続いてきたボカロ音楽の単なるフォロワーとは一概に言えない魅力を放っている。

情報と音圧と音符を詰め込むだけ詰め込んだ過剰なPVがもてはやされた時代から数年、個人的な休止期間がミッシングリンクになってしまったのが痛恨の極みではあるのだが、その後にこういう音楽や映像が育ってくるというのが何とも興味深い。実際、ナユタン星人さんは現在発表している4曲ともヒットしており今年の顔のひとりになりつつある。このスタイルが次の時代のスタンダードになるのか、長い目で見守りたいと思う。

2015/09/06

パストフューチャー・マジカルミライ

Twitterで皆が絶賛しているのを見て自分とのギャップにかなり戸惑いながら、おそらく少数派になるであろうワタシの意見を今のタイミングでまとめておくのも決してマイナスには作用しないだろうと信じて、努めて冷静に書こうと思う。あらかじめ断っておくけど単なるdisならPV目当てでもっと露骨にやるからご安心を。もちろんこのエントリへの批判も謙虚に受け止めるつもりでいる(特に座席の位置が違っていたら印象はかなり変わっただろうと感じていることは先回りして白状しておく)。

2015年9月4〜5日、歴史的な事実として後世に語り継がれるであろう「バーチャルアイドルによる武道館単独ライブ」が決行された。この「マジカルミライ2015」自体は別館で開催される企画展なども含んでいるが今回は省略して、ワタシが見た4日夜の公演について感想その他を述べる。

ワタシの座席は1階西側でステージ中央から見て斜め30〜45度という感じ、これではディラッドボードに投影されるCGその他を細かく観察できないと早々に諦め、左にステージ、中央から右に観客席という風景を眺めながら、ハジメテ訪れた武道館という場所でミクが唄いバンドが奏でてPAから飛び出す音に浸ろうと決めた。「武道館の音響はよろしくない」という通説が一抹の不安として頭をよぎったのだが、最初からネガティブになっててもしょうがないと自分に言い聞かせていた。ライブが始まるまでは。

しかし、1曲目の「Tell Your World」が流れたところで先の不安が現実味を帯びてきた。低域の分離が悪くてキレがない。音圧がもの足りない。4曲目の「独りんぼエンヴィー」が終わった頃には、もう自分をごまかせなくなった。似たような傾向の選曲と似たようなアレンジ。演奏がひたすら一本調子で緩急や押し引きがなくリズムやビートにグルーヴ感が無い(しかもたまに演奏が走ったりして不安定だしミスもあった)。これらの瑣末と言えば些末な問題が最後の最後まで気になって結局ワタシの意識はそれに持っていかれてしまって「みんな本当にこれでいいの、満足なの」という疑問で頭の中がいっぱいになり、ライブに没入することなく「ハジメテノオト」を迎えてしまった。

終演後に皆が言っていた「新曲が多かった」というのは作品そのものの発表年ではなく「初音ミクの公式ライブで新しく演じられるもの」という意味であり、セットリストを眺めれば有名Pによる数年前の大ヒット曲(特にProject DIVAがらみ?)を並べているだけにも思えるので、本当の意味で新曲と言えるのか、新進気鋭の作曲家の作品を選ばず保守に逃げたんじゃないかという疑問は残る。また、合間に挟まる古参ホイホイ的な定番曲のチョイスはなかなか鋭いものを感じたが、出だしの「Tell Your World」は大感謝祭で、ラストの「ハジメテノオト」はMIKUNOPOLISでそれぞれ以前にやったパターンなので、個人的にサプライズは無く過去の資産の焼き直しという印象を全否定するまでには至らなかった(ワタシが知らない他の公演でも同様の構成があったかもしれない)。

一方、ステージ演出に関しては今回かなり見るべきものがあった。ディラッドボードへの投影はよく見えなかったので自分の意見は保留するとして、話によるとずいぶん鮮明だったようだからキャラ好きな人は満足できたんじゃないだろうか。また、2015年のキービジュアルである四角やキューブ状モチーフのステージ美術への組み込み方、ライト、ステージ両脇のLEDアレイ、レーザー、ミラーボール、スモークといった装置の使い方はとても洗練されていたと思う。ディラッドボードや後方スクリーンへの映り込みも計算に入れたんじゃないかと思わされるほどライティングがビシッと決まる瞬間が何度もあって、そこは場数を重ねてきた経験の賜物であろうと素直に評価したい。

それゆえ一層、まるで「2010〜13年頃のボカロックを演奏してみた」的なセットリストと出てきた音が現在の視点から見ると既に過去のものでステージ演出とのギャップを生じさせ、2013年の横浜アリーナ(で失望した最大要因)から本質的にアップデートされていない、進歩していないように思えて仕方なかったのである。2010年代半ばにギターをかき鳴らしてギューンってやって解像度を気にせずベタッとした音を出してロックですって言って面白い?…今でも面白い人はいるんだろうな。ロックはもはや古典として慣れ親しまれていて最新であることは必ずしも要求されないものだし。しかし例えば、セットリストからアゴアニキが消えラマーズPが消えOSTER Projectが消えたように、ステージ上からポップな多様性が排除されてしまった事実は指摘しておきたい。繰り返しになるようで恐縮だが、今回特に「ロックな初音ミク」を見たかった人のほとんどは武道館という場所の象徴性も込みで諸手を挙げて賞賛するだろう。だが、実際に演じられた「初音ミクのロック」は、ワタシにとってバーチャルアイドルにふさわしい未来を感じさせるものではなかった。「これがクリプトンフューチャーメディアというロックバンドの音です」と言われたら、もう「ごめんなさい」と頭を下げるしかない。と、ここまで考えて、これは本質的にマジカルミライというライブのサウンドコンセプトとワタシの相性の問題だと思い至った。横浜アリーナから2年を経ても印象が変わらないというのはそういうことなんだろう。

ボーカロイドは「歌声合成ソフトウェア」である。キャラ成分を抜いて考えたときにそれは「歌声」すなわち「音楽」と不可分と言える。新しいテクノロジーによってもたらされた「歌声」は新しい「音楽」とともにあってほしい、そのライブを公式と名乗ってやるからには、「ステージ上に投影された大きな嘘」であるところのボカロキャラを活かすために、周りを彩る「音楽」は偽りなく新しくて精緻を極めていてほしい…というのはワタシの勝手な願望である。そして公式ライブがワタシ個人の想いを実現する場である必要なんかこれっぽっちもないので、上記に書き連ねた不満は無い物ねだりそのものである。満足できなければ自分でライブイベントを企画するか今まで通りニコ動で新しい曲と新しい作家を掘って妄想を膨らませていればよい、ただそれだけの話なのだから。目ざとい何人かはもう気づいてるっぽいけど、「ポストロック」ならぬ「ポストボカロ音楽」的な萌芽は確かに感じられるからね。

2015/09/01

小ネタ:久しぶりにダイエット

event_note
食欲がいまひとつコントロールできなかったのと満足に運動をしなかったことなどが重なって、気づいたら腹の周りに余分な肉が目立つようになっていた。こりゃいかんと思いダイエットを決意したのが7月初旬、結果から言うと2ヶ月で約4kgの減量に成功した。先日久しぶりに知人と会ったが「何だか精悍になった」と言われるのはやはり気分がいい。

方法としては別に何か特別なことはしておらず、摂取カロリーを控えて適度に運動しただけ。初期はとにかく毎日の食事を見直して夕食を冷奴だけにしたり晩酌をしなかったり外食を控えたりして、その後に、腹筋やスクワットといった室内でできて大きな筋肉を動かすトレーニングを、適度な負荷&数日に1度の自分的に無理がかからないペースで実行した。

それともうひとつ、7月に実家へ帰省したのを皮切りに、この2ヶ月間あちこちへ出かけたのも大きい。単なる散歩以上の距離を歩くのは、それだけで十分な運動になってダイエットにも効くというのを実感した次第。あと猛暑が(必要以上に)身体への負担を増してくれたのも大きい。

さて減量の目標はあと2kgというところなんだが、その程度の体重はだいたい誤差の範囲ではあるので、これからは徐々に維持の方向へ意識を向けていくことにする。まあ自分の場合、ポテイト&コーラの暴飲暴食あたりを我慢すれば大丈夫大丈夫…。

2015/08/05

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(11:宇治へ行ってちょっと考えた)

劇中で麗奈が18きっぷでどこかへ行きたくなる衝動を語っていたが、似たような気分にあてられて、7月の終わりに京都府宇治市へ行ってきた。今回は、いわゆる「聖地巡礼」とも呼ばれるアニメ等の舞台となった土地での見聞とそのつれづれを、結局長くなってしまった連載のまとめとしてお送りしたい。なお撮って出しの写真はこちらのツイート群をご覧ください(iPhone 5Sのレンズが汚れたまま撮ったのもあるので最後の方ほど見苦しくて恐縮だが)。


いきなり白状すると、長いことアニメファンを自認してきたワタシが「聖地」へ赴くのは初めてだったりする。近年は特に「ガルパン」での大洗町が有名になったが、その気になれば行ける距離にある場所が多数あったにも関わらず、そこまでしようと思わなかったのが正直なところだった。

じゃあなぜ今になってということなんだが、「ユーフォ」における宇治市の背景描写があまりにも「執拗」なので、そのディテールを直接この目で確認したくなったのがひとつ、そして、このアニメがだいたい2015年4月から8月くらいという現実の時間軸に沿って進行していくので、その時期のうちにリアルの宇治へ行けば、劇中で描かれているものごとの理解が深まるのではないかという当てずっぽうな期待がもうひとつ。で、徒歩で移動するのに都合がよい晴天が予想でき、かつ、昼が長く写真を撮れる時間が多くなる季節、そして「屋外で活動してたらうっかり鼻血が出る暑さ」を体験できそうなタイミングを選んだら、梅雨明け後の7月下旬が狙い目という結論になった。原作小説も考慮して、あがた祭や花火大会といった地元のイベントに合わせる手も考えたのだけど。

旅程は、リソース節約のため首都圏から京都への長距離移動に夜行バスを使い、京都市内から宇治、宇治市内の移動はせっかくなので京阪電車の1日フリーきっぷを利用した。夜行バスに関しては道中で充分に眠れるなら快適という経験則に沿っているが、正直あまりオススメしない。逆に、上記の1日フリーきっぷは劇中の各ロケーションを見て回るなら必須だと思った。主人公の久美子をはじめとした登場人物が京阪電車を使う場面がたくさん出てくるので電車移動は合理的ではあるんだが、他の「聖地」がどうかはともかく宇治市内はクルマでは小回りが効かず自転車でもちょっと距離と高低差があって苦労しそうな気がする。あのへんを楽器持って自転車通学するなんて吹奏楽部員は相当な健脚揃いだよなあなんて後で何となく思ったりした。


現地へ着いてから思い出したのだが、宇治は本来、自然があふれ、歴史やお茶や鵜飼いといった観光資源に恵まれた街である。と同時に、宇治市は京阪都市圏のベッドタウンとして機能しているらしい。「ユーフォ」では前者にはほとんど脚光が当てられず、どちらかというと後者の、ありふれた日常生活空間としての宇治が描かれる。が、そのディテールが異様に細かいのは繰り返し述べてきた通り。その理由を考えたが、最終的には「京都アニメーションがある街だから」という他愛のないものに落ち着いた。街を歩いていても「アニメーションでまちおこし」的な看板が立ってるわけでもなく、道ゆく人たちがそれを意識しているわけでもなく、普通に地元産業のひとつとして京アニがある、そんなふうに感じた。そして、京アニの中の人が今まさに生活しているそのような街を自らが手がけるアニメの舞台に据えたら、そりゃあ解像度は上がりまくるけど見せたくないものは描かなかったりボカしたりするでしょ、とも思った。あの背景描写の細かさと被写界深度の浅さは演出手法のひとつではあるが、きっと一種のプライドのあらわれと照れ隠しでもあるのだろう。


さてそのディテールは、劇中その他の情報を参考にしながら宇治の街をくまなく歩くことで本当に多くの風景として発見できた。帰宅してから録画を見直して「ここ通った!」と気づく場所も多く、事前に下調べをあまりしなかったことが逆にクエストっぽい感覚を覚えさせてくれたことはうれしい誤算だった(大きな鳥が飛んでるだけでOPで見たと感激するレベル)。ただ、夏の盛りにいい歳こいたおっさんが汗だくで街をとぼとぼと放浪している構図はいかにも怪しく、そういう意味では地元民に偽装するか観光と割り切ってしっかり準備してピンポイントで行ったほうがよいようにも思う。とにかく「聖地」と呼ぶには日常的すぎる場所が劇中のロケーションとして広範囲に使われており、そこをわざわざ見に行くのは時間もかかるし地元の方々からすれば変としか言いようがないからである(まあ後者は作品の認知度が上がれば自然と解消するだろうが)。それと宇治は山坂が多くて歩くと想像以上に疲れるのは強調しておきたい。例えば大吉山は市街地からびっくりするくらい身近な場所にあるけど、いざ登ってみると長くて急なつづれ折りで足を取られそうになる。誰かさんみたいにハイヒール的な靴では確かに怪我しそうなのは間違いないと釘を刺しておこう。

街を巡る道中の昼下がり、半分ぼーっとしながら郊外を歩いていると、部活か何かから帰る途中らしい制服の高校生集団とすれ違った。現実とアニメが割とごっちゃになって現実の彼ら彼女たちがアニメに引っ張られて妙に子供っぽく見えたが、暑さと疲労で自分の体力もついに尽きたか、それとも夢見心地のままこの街に埋もれてしまうか、こういうとき久美子なら死んでしまってもいいと表現するかもな、などとぼんやり思った。

宇治にはまた行くことにする。見ていないところ、知りたいことがまだまだたくさんあるので。

2015/08/04

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(10:色彩設計について)

言いたいことはだいたい書いてしまったのでこのシリーズも終わりに近づいてきた。先日勢い余って宇治まで行ってあちこち歩き回ってきたけど、その感想は次回にまとめてそれで一段落としよう。さて今回は色彩設計、平たく言うと色づかいの話。

アニメ作品がなぜアニメと呼ばれるのかというのは作品にアニメ的な要素が含まれるからだが、そのひとつに独特あるいは突飛な色彩が挙げられるのは異論のないところだと思う。アニメ作品内では、特に髪と瞳で顕著だが、日本人というか人類ばなれした色をまとったキャラが闊歩している。一方、リアルでも髪を染めたりカラーコンタクトレンズを使えば明るいピンクや緑などにすることは可能であるが、じゃあそれで日常生活を送れるかというとなかなかに難しいのは、コスプレを楽しむ人たちの多くが地毛ではなくウィッグを常用している事実からも伺える(レイヤーさんは様々なキャラに扮するのでウィッグの方が都合がいいというのもありそうだけど)。まあ要するにアニメ的ファンタジーをそれと分からせる仕掛けのひとつとして、多くの作品で様々な色彩が意図的に用いられている。

その色彩だが、最近のアニメ制作では色彩設計といった名目の担当者が置かれることが当たり前になった。実際の作業風景を知らないので想像だけで言うしかないのだが、この仕事は昔から受け継がれている動画ごと・場面ごとの色指定作業に加えて、作品を通した色調の統一も行っているんじゃないかと想像している。各社ともデジタル作画に移行して久しいが、塗料の種類や調合比率にとらわれずRGB(場合によってはCMYKかも知れないが)でダイレクトに指定できるぶん、あらかじめ全体を見渡してその値を決めておかなくては作品がとっ散らかってしまうのは目に見えている。逆に言えば、色彩設計はデジタル環境だからこそ注目度・重要度が上がった職能と言えるかもしれない。なにごともチューニングは大切なのだ。

「ユーフォ」のスタッフに色彩設計は特にクレジットされていないと記憶しているが(おそらく美術さんが兼任している?)、いまさら指摘するまでもなく慎重に色を選んでいるのが分かる。まず髪の色だが、吹奏楽部員全員を一望できるカットというのが実は少ない(音楽室だと画角の関係で映らない生徒がいる)ので、ネタバレではあるが最終回のEDから引用してみた。黒が青と緑に、茶が赤と黄(金)方向に幅を持たせているのが分かるが、総じて地味で抑え気味な色調で統一されている。リアリティで言えばアニメと実写の中間から少しアニメ寄りくらいだろうか。まあピンクの髪のキャラは今後2期があったとしても出てこなさそうである。


そして瞳の塗りを見ると、キャラごとにそれぞれ明確かつ細かく、ビビッドな色づかいをいとわずに指定されている。場面ごとにあまり色が変わったりしないところをみると、瞳はヘアアクセサリや持っている小物などとともに演出装置というよりキャラの性格づけのための場所ということのようだ。吹奏楽部員その他の大量の登場人物全てに個別の指定を行うその「執拗さ」には驚き半分呆れ半分、指定する方も塗る方もよく混乱しないものである…このあたりは「アニメは工業製品である」というワタシの持論に繋がる話でもあるのだが、今回はこれ以上触れない。とにかく、「ユーフォ」を全体として眺めた場合、「アニメ的な色彩」は主にキャラの瞳で表現されていると考えてよい。

個人的には、この「全体的にはリアル志向で必然的に地味にせざるを得ないなかでキャラの個性をどうデザインするか」をほんのわずかな色指定で表現していく仕事ぶりに、実は強くシンパシーを感じている。言われなきゃ分からない職人技みたいなものと表現すれば分かってもらえるだろうか。こういうきめ細かさの積み重ねが作品の密度を高めているのは言うまでもないが、2015年のTVアニメ大量生産時代においてこの職人技の塊みたいな作品が実際にTVシリーズとして放映されるところまで行ってしまったという「事件」は、もっと知られて然るべきだとつくづく思う。

2015/07/27

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(9:踊るアイドルアニメと舞う吹奏楽部員)

録画を飽きずに繰り返し見てるのでまだ書くよ。

最終回解読を試みたときに、「三日月の舞」について少々触れた。この曲は劇中では堀川奈美恵という作曲家の作とされているが実は架空の人物で、実際には音楽担当の松田彬人氏による書き下ろしである。今回はこの曲にまつわるあれこれを考えてみたい。

TVアニメの劇中やOP/EDで、登場人物が一斉に精度の高いダンスを踊ったり楽器をかき鳴らして歌ったりする演出は、「ハルヒ」や「らき☆すた」、「けいおん!」といった一連の京アニ作品ではおなじみのものである。そのうち踊ることと歌うことは非常に目を惹くこともあって他社の作品でもひんぱんに用いられるようになり、それ自体が作品の核になる現在のアイドルアニメ(アイマスとかラブライブ!とかWUG!とかアイカツとかそのへん、あまり見てないけど)の隆盛に繋がったと理解している。

「ユーフォ」は高校の吹奏楽部員のドラマである。つまり基本的に演奏はするが踊らないし歌わない(踊りはサンフェスの謎ステップがあるけど今回は脇へ置く)。OP/EDでメインの4キャラはコロコロと転げ回っているけど、特に揃いのダンスを踊ってるようでもない。第4話の練習シーンでソルフェージュしたときに歌声は聞けるけど、あのシーンだけでこのアニメには歌があると断言するのは乱暴に過ぎる。では京アニは今回、「踊る」ことと「歌う」ことを放棄して「演奏する」ことだけに特化し、アイドルアニメの対極を目指したのかという疑問が生ずるのだが、「三日月の舞」とその演奏シーン(特に最終回)に着目すれば、決してそうではないことが分かる。

「三日月の舞」は聴けば聴くほど不思議な曲に思えてくる。曲調は明るく素直で時に勇ましく、特に難しいコードも使われていないようなんだが、拍子とテンポが目まぐるしく変わるので、DTMでシーケンスされたサウンドに慣れた耳にはひどく新鮮である。また、タイトル通りに音の粒がひらひらと舞い散る感じもまた、昨今の音圧競争に晒されたポップミュージックの重力から解き放たれたような軽やかさを持つ。ともかくこの曲自体によって、「踊る、舞う」といったアイドルアニメ的ボディランゲージの一要素が音楽でメタ的に表現されていると言っていいだろう。その目的のために、原作小説での自由曲や他の定番曲を使わず松田氏へ書き下ろしを依頼したのではないかとすら思う。

また、この曲を演奏しているシーン、特に最終回Bパートで顕著なのだが、そのほぼ全てで演奏者の身体が揺れ動くことに注目してほしい。楽器演奏がほとんどできないワタシの目からすると、楽器演奏者は演奏中にいつも踊っているように見える。ギターでもフルートでもバイオリンでもドラムでも何でもそうなんだが、演奏に感情が乗り表現が艶やかになるにつれて、頭や手足、体幹がゆっくりと、ときには激しく動くさまが、いつも何かの舞を想起させる。これは演奏者や楽器によって差はあるが、そういったパフォーマンスと出てくる音をひっくるめて「演奏」と呼ぶべきものなのだろう。「ユーフォ」でもそれは余すところなく描写されており、滝先生と吹奏楽部員は、あのステージで間違いなく「躍っている」。

そして「歌」についてはどうか。これはもうそれぞれの楽器から出てくる音が人間の歌声の代わりになっているとしか言いようがない。合奏と合唱は一文字違い…は単なる言葉遊びだが、近い領域にあることは確かである。最初はバラバラだったのが最終回で見事に揃った音を「歌いあげる」、その過程を見てきた者の感情をひときわ揺さぶるのも、皆で創りあげた音の力があればこそである(なお余談だが最終回の演奏の録音品質はかなり高いので、良い再生環境で聴くと新たな発見があると思います)。

それにしてもである。合奏と同期した作画だけでは飽き足らずステージ全体を映す「引き」のカットにおいてさえ各演奏者のわずかな揺れ動きを描く「執拗な」その姿勢は、狂気の沙汰寸前の迫力に満ちている。他社のプロデューサーや監督、演出が見たら「こんなところに金と手間をかけてられるか」と呆れるんじゃないかと想像したりしている。

2015/07/21

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(8:演出的なものについてあらためて考える)

最終回放映終了から何週間も経ったにも関わらず録画を繰り返し見て、悩みまくった末にBlu-ray1巻と2巻を購入して、初回特典のあれこれを眺める毎日。まるで麗奈の演奏にアテられた久美子みたいだと自分で呆れるくらい、この作品にハマってしまった。あらためて書いておくが、録画して放ったらかしにしてあったのをまとめて見たのが5月下旬〜6月上旬なので、まあ何というかすっかり罠に落ちた気分である。

さて今回もいつものように自分でも捉えどころのない脳内に貯まってしまった妄想を吐き出していく。ネタは演出的なものについてつれづれと。ああ、一応断り書きしておくと、このブログはあらゆる記事がワタシの文章執筆トレーニングを兼ねたひとりごとのアウトプットに近く文責はワタシにありますが内容はほとんど出まかせ無責任ですので念のため(笑)。

では本題。この作品の原作小説を最初に読んだとき、高校の吹奏楽部というメインモチーフと作者の年齢、ライトノベル全盛の時代などを考えると、ずいぶんとオーソドックスで落ち着いた文章だなと思った。この作者の実力ならばいくらでもライトにできたはずなのに、意識してそうしなかったとすら思う。

アニメ版は原作小説の雰囲気を壊すことなく「盛るところを盛った」というのは、以前に書いた。これは別にこの作品に特有なものではなく、いわゆる「原作もの」には常につきまとう話である。小説はもちろんマンガ・ゲームetc.の原作をアニメ化するとき、制作側は描写されていないものを描き動いていないものを動かす必要がある。そうしないと単純に話が持たないからだ。3ヶ月≒1クール≒13話≒23 分×13=299分≒約5時間、この長さの映画が長編(それもかなりの長さ)、あるいはシリーズものとして分類されることを考えてほしい。

実際に「盛る」すなわち「原作の話の間を埋める」作業をしなければいけないアニメの制作側は、原作のロケーションや小道具、キャラクター、セリフ、演技、その他の全てに手を入れる権限を持つ。どんどん話を膨らませ、背景を織り込み、果ては主役の設定自体を変えることすら厭わない。これをどこまで許容するかは好みによりけりだろうが、やり過ぎると原作ファンから批判されることが多いのは確かである(例えば今やってる某ノートのドラマ等)。まあともかく、こういった仕事はたいていの場合、プロデューサーや演出、脚本などと呼ばれる方々が担当する。

「ユーフォ」は幸いなことに(?)、原作小説をかなり忠実にアニメ化しているように見える。しかし、原作小説から大きくはみ出した要素、例えば(以前指摘したが)一見モブキャラに思える吹奏楽部員ひとりひとりに設定が存在するとか、宇治市とその周辺の街並みをかなり具体的に用いているとか、もっと細かくネタバレ上等で言うと、音楽室に設置してあるNS-1000Mっぽいスピーカーとか3年の部員の連帯感とかあがた祭で久美子と麗奈が大吉山へ登る際の一連の妙に生々しいやりとりとか楽器を持ってって演奏するとかそもそもふたりのあいだに漂うただならぬ空気とか…は、はっきり言ってかなり盛っている。序盤に多く見られる緩くデフォルメされたコメディタッチの描写も、考えてみれば原作小説にはほとんど見られないものだ。

上記で羅列したもののうち特に最後の方、いわゆる「百合」と呼ばれる耽美的な雰囲気やほのぼのとした笑いは、原作小説のメインモチーフである「高校の吹奏楽部員の成長物語」へ「時代に合わせたライトな演出」として「過剰に」肉付けされている。作画や声優陣の演技、劇伴などアニメ的な構造物を抜いてここだけを見ると、実はかなり好みの分かれる強引な作りと言えるかもしれない。なにせ、根性もの+日常系(だいたい第7話まで)→耽美(第8話以降)→熱血もの(オーディション以降)という急カーブを1クール全13話のなかで見せられたわけなので。途中で視聴を止めた人は、原作小説が強くまとう成長物語ゆえの根性・熱血ものっぽさを察知してツラくなったのが理由のひとつのように思う(特に吹奏楽部出身者)。また、原作小説のあの端正な筆致からこのような「百合っぽさ」が描かれるとは予測しておらず、面食らった人がいるかもしれない。こういう変化球こそ、5時間の長編映画ではなくシリーズもののTVアニメを視聴する醍醐味ではあるのだが。

2015/07/14

枯れゆく実家

event_note
北海道へ帰省したもののワタシのちょっとしたミスで大きく体調を崩し、あれこれ考えていた予定をかなりキャンセルして実家で寝込むこと数日。布団の上で横になって目を閉じていると学生時代に戻ったような感覚に陥ってしまうのだが、階下の物音を聞いて我に返るのを繰り返す。

この家はもともと祖父母が国鉄を退職するのと同時に建てたものだ。それを父母の同居などに合わせ増改築を繰り返し50年近く何とか持たせてきた。住人は多いときで5〜6人だが現在は父母の2名、親族と近隣住民が総じて年老いたため日中に訪れる人は稀で、幹線道路からかなり離れた立地ということもあって、地方都市の郊外というよりは過疎化して疲弊した田舎と呼ぶにふさわしい風景の中にある。

父母は(ワタシが同居していたときもそうだったが)祖父母を1階に住まわせ長いこと2階に居を構えていた。現在ならば2世帯住宅化という発想もあっただろうが、妙に頑固で保守的な一族の血のためか、水回りもトイレも増築しないまま急な階段を昇り降りして生活空間を共有していた。

ずいぶん前に祖父母が亡くなった後も、父母の2階での生活は基本的に変わらなかった。主のいなくなったはずの1階に行くと、いかにもお人好しの祖父と年齢に似合わないキツい物言いをする祖母が今にも現れそうな気がした。父母は祖父母の居住空間を保存しておきたかったのか、それとも溢れかえるガラクタに手を付けるのがめんどくさかったのか、今でもよく分からない。祖父の国鉄入社時(=明治時代)の辞令書がどっさり出てきたときは、とりあえず取っておけと言っておいたが。

しかしここ数年で父母が立て続けに体調を崩し2階の昇り降りに不安が生じたため、生活空間を1階へ移すことになった。祖父が昔使っていた部屋を夫婦の寝室にし、生活必需品を祖母の寝室に収納するようにしたのだが、結果として1階の2LDKだけで父母の生活は完結してしまい、今までの生活空間だった2階は丸ごと放置されることになった。

ワタシが寝ているのはその2階、壁に染みやひび割れができ家具が歯抜けのようになって、特に誰が掃除するわけでもなく衣類や布団が中途半端に捨て置かれている1室である。部分的に見れば何十年前と一緒だが、全体的には古びた物置のように朽ちたという表現がぴったりで、まるで自分がタイムカプセルで何十年か飛び越えて誰もいない21世紀の未来にやってきてしまったような気分になる。

頭痛と睡眠不足のため目を閉じぼんやりしていると、階下から父母の会話が響いてくる。そういえば昔も祖父母が似たような声を上げていたなと微笑ましく思い、突然、当時の祖父母の年齢にもう父母が達していることに気づき慄然として目を開けると、カビくさい天井が見える。まるで鉄人のようだった父もさすがに衰えを隠せなくなり、母は人のよさそうな笑みを取り戻したものの背中の丸みは元に戻りそうにない。たまには顔を見せて元気づけてやろうと思い帰省したはずが不要な心配をかけることになったことに恐縮しながら、いわゆる後期高齢者の老いの現状が極めて身近かつ痛いほどリアルに認識できたのは、好き勝手に暮らしてきた自分の人生において大きな収穫だと思った。ワタシを育ててくれた家庭料理や家事と同じく、そう遠くないうちに、この愛すべき生活空間そのものも崩れて消え去るだろうという諦念とも呼ぶべき確信とともに。

2015/07/13

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(7:楽器作画の謎)

日本のアニメにコンピューターグラフィックス(CG)が導入されてもうずいぶん経つ。当初はセル画の単純な置き換えだったものが、現在ではCGならではのエフェクトを加えたり2Dと3Dを絶妙にブレンドしたりして、海外とはまた違った映像表現を目指しているのは我々が日々目にしている通り。

それにしてもである。

「響け!ユーフォニアム」の楽器作画の、異様とも言えるほどの乱れの無さは何度見直しても謎としか言いようがない。吹奏楽部全員を俯瞰するモブシーンが3Dでモデリングされて作画に用いられているのはOP中の「音楽室後方からカメラがグルッと回って久美子の瞳にズームインするシーン」で明らかなのだが、どの演奏者がズームされたときでも、担当の楽器に歪みらしい歪みが見られないのだ。また、絵描きの人、フィギュアやドールを弄ったことがある人ならお分かりと思うが、小道具を人物にしっかり持たせるのは意外と難しい。重さが感じられなかったり脇が締まらなかったり…描画や撮影よりセッティングに時間を食われるのは日常茶飯事である。「ユーフォ」の場合は、どの演奏者も楽器を自然に持っている。こういう当たり前の絵面を当たり前に描いてしまうのが京アニのおそろしいところなのだが。

一方、同じ無機物でも道を往く3DCGの自動車は背景の一部と割り切っているせいなのか、どれもやや違和感が残る(これは京アニ制作のアニメに共通する、ちょっとした欠点のひとつ)。また、背景の建物などはほとんどが3DCGではなく手書きのイラストを使用しているようで、このあたりは制作側の割り切りというかポリシーなのかもしれない。

話を戻す。「ユーフォ」で京アニがフル3DCG作画にトライしたという話は聞こえてきていないし、画面を見る限りそういう風にも思えない。しかし描かれる楽器のパースはほとんど常に正確だし、ちょっとした破綻すら見られない。これはどういうことだろう?考えられる作画手法としては、1)実はモブシーンで分かる通り人物含めて全てフル3DCGで作画してました、2)2Dで描いた人物と3DCGの楽器をその都度合わせて微調整しました、3)複雑な楽器も2Dで完璧に描ける超絶原画マンとアニメーターを育てました、くらいなのだが、現実的なのはどう考えても2)である。つまり、各演奏シーンで演奏者がアップになっているときの楽器は、3DCGでモデリングしたものをキャラのポーズやパースに合わせ2Dに変換して、2Dと3Dの違和感が生じないよう注意しながらひとコマずつ置いていってるものと推察される。

いくらデジタルで省力化が可能だとは言え、これは特撮の手法に近い途方も無い手間と言える。

いや、いくらなんでもそれではTVアニメという枠に納められないほど効率が悪すぎる。あれだけ頻出する演奏シーンで馬鹿正直に3DCGの楽器をグルグル回しながら絵を決めていくなんてやっているはずがない。アニメの制作現場に限らずコンピューターのイノベーションは日進月歩である。「ユーフォ」においても、ワタシが想像つかないような革新的な作画環境が開発されているのかもしれず、きっとそれのおかげに違いない。久美子がやさしく抱えるユーフォニアムのやわらかな曲線ときらびやかな光沢を眺めながら、その謎が明かされる日のことを考えたりしている。

2015/07/12

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(6:学年ごとの特色を読み解く)

さて今回はちょっと視点を変えて、画面からはあまり見えてこないところの考察をしてみようと思う。北宇治高校吹奏楽部の面々は学年ごとにどのような特色があるのだろう。

まず現3年(緑のスカーフ)。中心となるのは部長や香織先輩、他にも各パートリーダーを担当していたり、部長・香織先輩ととても仲が良かった葵ちゃんがいたりして(辞めちゃったけど)、総じて真面目を絵に描いたようなキャラが目立つ(パーカッションのナックル先輩は昔からああいうタイプだと思うので例外)。このようにちょっと堅物と思われかねない面々ばかりが揃ってしまったのは、1年前の部内衝突事件で板挟みに合い心を砕いて調整に奔走した経験を強く共有していることが大きいのだろう。それともちろん、あすか先輩という特別な人間が同級生としてそばにいるのも原因である。端麗な容姿と明晰な頭脳を持ちエキセントリックな言動を弄しつつひとりの演奏者としての理想を若くして体現しながら、それ以外のゴタゴタには一切タッチしようとしない超然とした潔さに影響を受けない高校生などいるはずがないからだ。彼女の存在によって、現3年は自分たちが思っているよりもずっと大人になっていると言ってもよい。それが現在の北宇治高校吹奏楽部の団結力の源になっているのだから、何がどう転ぶのか分からないというものである。

現2年(青いスカーフ)は1年生のときに一部が当時の3年と衝突して急進的な何名かが退部したという前歴を持つので、全体から見るとメンバーが少ない。残っているのは、マイペースな者・上級生の姿を見て急進派に着いていくのを止めた者(チューバの2人や夏樹先輩etc.)、特別な理由を持つもの(香織先輩を追っかけるのが目的のデカリボンちゃん)などであるが、他のパートも見ると2年はそれなりにいるので、同じ2年の間でも退部した急進派と距離を置いていた者は少なくないように思われ、そもそも急進派はそれほど多くなかったのかもしれない。ここで考えてみると、この数ヶ月で最も意識が変容し実力が伸びたのは「部活にそれほどこだわりを持たず、さしたる向上心も持っていなかった」現2年なのではないか?それでも人数の絶対的な不足は否めず、影に埋もれることが多いのは仕方のないところか。ただ個人的に気になるのは、セリフもロクに無いのに妙に目立つ2年がちらほら画面に映ること。2期への布石と言ってしまえばそれまでだが…。

現1年(赤いスカーフ)は結果として実力者がたくさん入部してきたと推察される。筆頭は麗奈と緑、久美子も当然上位にランクインするだろう。秀一も楽器を替えながらオーディションを突破するほどの腕前で、他にも府大会に出場した1年が何人も見られる。これが単なる人数不足の頭数合わせで選ばれたのではないことは、大会突破という実績を考えれば明らかである。主役グループが低音パートに属するので他の様子はあまり窺い知れないのだが、各エピソードを見る限り各パートでの仲間はずれやいじめといったものの空気はちょっとした陰口程度しか感じられず(明らかに衝突を起こしたのは麗奈とデカリボンちゃんのみ)、どこもチームとしてうまく回っているように見える。これは3年の間で強く共有されている「過ちを犯さない」というリーダーシップ的意識と、まあ滝先生への反発転じて信頼の証だろう。結果として1年は伸び伸びと実力を発揮できる機会を得たわけで、前年銅賞だった高校が金賞+関西大会進出という結果を手にする原動力になったのは半分くらい(は言い過ぎかもしれないけど)1年のフレッシュさが影響しているのだろう。

アニメでの物語は府大会突破で一旦終わりを迎えたが、このように背景を容易に想像できるほど、北宇治高校吹奏楽部の面々は誰もが生き生きとしている。部活の合間の日常で起こるちょっとした事件、緊張感みなぎる練習風景、大会その他での熱演…。原作小説の本編がまだ2/3も残っており、スピンアウトの短編集もある以上、彼女たち彼らの躍動する姿をまだまだ見守っていたいと考えてしまうのは、熱さめやらぬファンなら自然なことだと思う。

…やっぱり2期やってくださいお願いします京アニさん(サントラを聴き込みながら)



追記:話中で「30人ほどいた現2年が半分ほど辞めた」とのセリフを確認。繰り返してみると疑問点がだいたい先回りで回収されてる感じがして少し悔しい(笑)

2015/07/10

色あせて覆われる場所

event_note
1週間ほど前に実家へ戻ってくる際、高速バスの車窓を何となく眺めていて、以前は気にならなかった違和感に気づく。風景の骨格は20数年前と変わらない。でも何か、どこかが違っている。数十分ほどバスに揺られながら考えて得た答は「建物が色あせ過ぎている」「緑が生い茂り過ぎている」の2つだった。

建物は生き物である。人に使われずメンテナンスを放棄されたものは日々の天候の変化に晒されてゆっくりと色あせ朽ちていく。鮮やかな屋根の塗装もきれいな壁の仕上げも、そういったものを維持する人間がいなければ次第にぼろぼろになっていく。数年から数十年スパンで見るとその差は歴然で、これは新陳代謝が激しくメンテナンスも行き届いている都市圏ではあまり見かけないものなんだろうなと漠然と思った。

春から夏にかけて一気に無遠慮に生い茂る緑は北海道ならではのものだ。それほど奴らの生命力は強い。問題はそれをメンテナンスする人が誰もいなくなったという事実である。数十年前は北海道開発局があって冬場を問わず道路周囲の環境整備を担っていたはずだった。それが合理化の名のもと解体されたため、北海道の郊外の道路は脇の雑草が伸び放題という荒れた現状になっている。

このように、札幌近郊の衛星都市へ向かう高速道路上から眺めただけでも、北海道の疲弊具合が手に取るように分かる。この変化を観光資源が増えたとポジティブに捉える向きもあろうが、自分がかつて住んでいた街がこれほどまでに人の不在を印象づける風景に変貌しているとは思わなかった。実家に戻るとTVで夕方のローカルニュースをやっていて、実家の街よりさらに田舎の場所で公共工事すら回せないほどの過疎による人材不足を伝えていた。そして実家の建物は、すっかり年老いて身動きが思うように取れなくなった父母だけが淡々と毎日を過ごすのと歩調を合わせるように、周囲の風景と同じように朽ちていっている。聞けば近所の方は何人も長期入院したり亡くなったりしたようで、町内会員がずいぶん減ったらしい。夜中になれば近所に人やクルマの気配はなく、蛙の鳴き声と天井を打つ雨音だけが響く。21世紀の繁栄した都市圏と複雑化したネットの内部を我々が築き上げた未来とすれば、それ以外のリアルな過疎地域というのは20世紀に置き忘れてしまった心残りみたいなものかもしれないと思った。おそらく今後10年以内に何らかの淘汰が公私ともに一気に進むだろうという不安とも言い切れない漠然とした予感を抱えつつ眠る。そして明日になればまた一歩、人は老い、風景は朽ちているのだ。

2015/07/09

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(5:最終回を徹底?解読)

先日、全13話をもって(一応の)完結を見たTVアニメ「響け!ユーフォニアム」だが、その最終回が異様な密度だったのでココロを落ち着かせるまで約1週間を要した。客観的に考えれば劇中では数ヶ月しか経っておらずイベント的にも単に府大会が終わったばかりなのだが、それをここまでのカタルシスをもって描き出す京都アニメーションの手腕には唸らされるばかりである。

さて今回は、その高密度な最終回をワタシの力でどこまで分解して言葉にできるかというのに挑戦したい(当然ネタバレ多数につき注意)。なお画面キャプチャは極力入れません。動いているのを直接見てほしいので。

アバン
  • 1枚絵のタイトルのみでOP抜き。この手法は物語が佳境に入っていることを示す、TVアニメでよく使われるもの。
  • 間を入れず久美子の起床から登校までの日常風景が描かれていくが、目覚まし時計を止める、髪の毛を輪ゴムで留めるなど、第1回その他で何度か使われたシチュエーションが繰り返し引用されていることに注意。そういえばサンフェスのときは寝坊気味だったよなあ(笑)。
  • なおこのシーンではカメラはほとんど固定で(=手ブレ表現が目立たず)、クセのあるレンズで解放気味に取ったような光学的各種エフェクトも控えめである。
Aパート:早朝の学校への集合と出発支度〜大会会場での準備
  • 三々五々集まる部員だが久美子と麗奈は相変わらずどつき合っている。部長は早朝の音出しを心配半分うれしさ半分で聴いている。パーカッションのナックル先輩というニックネームが説明抜きにいきなり飛び出すあたり人を食った脚本だが、回をていねいに追っていれば誰を指しているか、それと同時に、部の雰囲気がリラックスしていて良好であることが汲み取れる(ちなみに今回大きくクローズアップされたのはパーカッションのメンバーだと思う。Bパート冒頭のアイキャッチになったのは偶然かもしれないが)。
  • 淡々とした準備風景の中、滝先生は譜面入れに忍ばせた写真を見て「さて、行きましょうか」と呟く。写真の主は分からない(2期への布石その1)。
  • 出発前集合時の松本先生の鬼軍曹的な訓示と画面上から慌ててやってくる滝先生のシチュエーションは、サンフェスのときの繰り返し。滝先生の指は常に怪しげな印を結んでいるが、どんな意味があるんだろう?初回の神社のシーンでおみくじについてスラスラと話をしてみたり、いまだ謎の多い人物ではある。
  • 手作りのお守りを配るシーンで葉月が言うセリフ「ふたり、色違いでお揃いだから」、久美子と麗奈の関係をこれ以上なく的確に表現しているが、このアニメはそういった重要な言葉を会話の中へさりげなく仕込むので油断すると聞き流してしまう。
  • 部長のひとことから「北宇治ファイトー」のシーン、あすか先輩は目を伏せて皆の声を聞いた後「さあ、会場に私たちの三日月が舞うよ」と続ける。ここで三日月とは直接的には自由曲「三日月の舞」を指したものだが、月はこの物語の中で頻出するモチーフなので、彼女が言う「私たちの三日月」とは各キャラクターを通じてこのアニメーションが本当に表現したかったことの隠喩なのかなと思った。なお(この作品のために書き下ろされた)「三日月の舞」の作曲者が想定した三日月とはおそらくホルンのこと(滝先生いわく「ホルンがかっこいい曲」)、そしてもっと言うと各キャラクターの瞳の中にはしっかりと三日月が浮かんでいる。このへんはもうワタシのこじつけだけどね。
  • バスの中での久美子と緑の会話。緑はあの狭い通路をどうやってすり抜けたんだろう。身体が小さいから平気なのか。
  • 会場着〜準備。立華の梓ちゃんはその後の場面にもちょくちょく挟まってくるが結果はどうだったんだろう(2期への布石その2)。
  • 久美子に髪を結ぶのを手伝えという麗奈。振り返ってぺたりと座り込むシーンが足下だけ描かれているが、ここは見落としがちだけどちょっとすごいテクニックの作画だと思う。
  • 夏樹先輩すてき。
  • 音出しのシーンから手ブレ表現が急に多用され始める。これは不安と緊張の演出だろう。
  • オーボエ?のリードをいつも咥えている、2年の寡黙な蒼髪の彼女が妙に目立つけど何者なんだろう(おそらく2期への布石その3)。
  • ペットボトルの水面が彼女たち彼らの鼓動と演奏にシンクロするかのように細かく波打つ。このへんは演出のうまさ。なお説明するまでもなく、水はこの作品を通じた重要なモチーフのひとつ。
  • 滝先生は時々芝居がかって見えるが、ああいう浮いたセリフが許されるのはイケメンだから。もとい、よき指導者はよきモチベーターでもあるのでああいう物言いをいとわない。それに素直に応える北宇治高校吹奏楽部の面々もすっかり信頼を寄せているようである。
  • ステージ裏の通路。久美子と秀一のどつき合いだが久美子の表情やしぐさが年頃の娘さんっぽくていちいちかわいらしい。これは「女の子をかわいく描くのが好きで好きでたまらない」京アニの中の人のしわざかもしれない。
  • 「北宇治の皆さん、どうぞ」とステージへの扉を開ける女の子、たったこれだけのシーンで何枚使ってるんだよと思わずツッコんでしまった。普通はこんなところに労力かけないよなあ…。
Bパート:ステージ登壇〜演奏〜結果発表
  • 客席に座ったのは葵ちゃん?髪型が違うのでよく分からない。
  • あすか先輩と久美子の会話。「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」というセリフから「AIR」を連想したのはワタシだけだろうか。この作品では他にも「日常」をはじめ過去の京アニ作品から引用したと思わしき演出手法が見られるが、「ユーフォ」はもしかすると一種の集大成的作品を目指して作られたのかもしれない。そう言い切るには証拠が少なすぎるけど。
  • ステージ上の明かりが強くなって髪や楽器に露出オーバー気味のハイライトが乗る。この場面、暗いところから違和感なくスムーズに切り替わっているのはデジタルならではの技術じゃなかろうか。手書きまたはアナログ処理だと途方もない手間がかかりそう。
  • また、明かりが強くなると同時に観客席は真っ暗になり、そしてステージ上の強い照明によって空中のほこりが照らし出され、ぼんやりとした光のパーティクルとして映り込む。手ブレ表現や光学的各種エフェクトも相まって、画面の密度と情報量は一気に増加する。
  • 演奏開始。このあたり以降は実在の楽団の演奏中継みたいなカメラワークになっていて、いくつかの固定カメラで撮影した映像を後で編集したようなカット割りになっている。想像だが、作画参考用に撮影した実際の吹奏楽団の動きをかなり忠実にトレースしたんじゃなかろうか。引きの絵でさえ一切手を抜かないその努力は、執念とも呼ぶべきすさまじさである。
  • 課題曲前半から久美子のモノローグ、このへんはまだ押さえ気味で推移。
  • モノローグ終了から演奏後半にかけて、久美子の「絶対、全国に行く」という決意の言葉に呼応するかのように演奏が俄然熱を帯びる。アニメーションで描かれてるはずの各演奏者の気合いが伝わってくるなんて誰が想像した?シンバルを鳴らすパーカッションの1年、演奏に合わせ全身を揺らす部長…。ここの動きを見てるだけで胸がいっぱいになって泣きそうになる。
  • 自由曲。いままで散々聴いてきたはずなのだが、鮮烈なイントロが鳴るとあらためて気分が高揚する。この曲は前述した通りこのアニメのために書かれたオリジナルのようだが、自然に聴こえるわりには変拍子やテンポの変化が激しいので実はテクニカルで難しいのではないか。ともかく、スコアを出版したら全国で演奏されるようになるかもしれない。
  • ホルンの子の楽譜に大きく赤書きされた「全国」の文字、たかが数ヶ月でそこまで本気になったのかと感慨深いが、そう皆に思わせるほど滝先生の指導が卓越したものだったことが伺える。
  • パーカッションの1年の、ドラム連打中に頭が微動だにせず身体が細かく震える描写は、パーカッション奏者なら思わず膝を打ったことだろう。これは本物を見ていないと絶対に描けない、見たとしても相当のセンスがなければ描けない、「過剰で執拗で容赦のない」このアニメを象徴するかのような屈指の名シーンのひとつ。
  • 楽譜の落書きが増えてるけど解読が大変なのでパス(笑)。月とか火星とか書いてあるらしいけどね。
  • ステージ裏の立華の梓ちゃんが挟まったことで、久美子がダメ出しを食らった例のフレーズは放映されていない(2期への布石その4)。
  • 滝先生の指示に呼応して始まる麗奈のトランペットソロ。「大きな手」や「唇」といったものの「芝居」でエロティックな雰囲気がまとわりつく。それにしてもこの旋律は、ソロでも印象的だけど合奏になるとより際立つ。オーディションのエピソードを懐かしむような微笑みでそれを聴く香織先輩がいとおしい。余談だけど麗奈の運指は音に対して正確に描かれていると風の噂で聞いた(左手の力みまで描かれているのは驚きの一言だが)。それとファゴット?を吹いている長い髪のウェーブがきれいな3年、たおやかな表情が大人っぽくてすてきな感じ。木管・金管の人は肩が入るんだよなあ。
  • ステージ裏。感極まって言葉に詰まる葉月をそっと抱きしめる夏樹先輩。こういうところを言葉にするのは野暮というものだ。夏樹先輩すてき。
  • 熱演もピークを迎えて終わり。細かく触れていないが各パートの演奏シーンのアップはどれも見応え十分だった。指揮を終えた滝先生が汗ダラダラなのは当然といえば当然だが、汗は熱さを分かりやすく伝えるための演出装置でもあり、水は重要なモチーフでもあり…。
  • あいさつで起立して放心する久美子。1年前から「特別になるための」経験を重ねて同じステージに立った彼女は、今なにを思うんだろうとちょっと想像している。
  • 前述したオーボエ?の蒼髪の2年は、実はこの演奏シーンでは一度も映されていない。あれだけ思わせぶりに画面へ出しておいて何とも大胆な…(2期への布石その5)。
  • 結果発表のシーンは第1回冒頭の繰り返し。その結末は直接的な言葉ではなく、各キャラクターの表情とわずかな会話で語られる。面白いのは、何でも思わず口走るクセのある久美子がこういうときに限ってほとんど何も言わないこと。また、あすか先輩はこういうとき不思議と必ず俯くこと(2期への布石その6)。
  • 「そして、私たちの曲は続くのです」(2期への布石その7)。
…ふう。まだまだ書き切れてない気がするけど一旦止める。誰が言ったか「最終回だけで23分の短編映画として成立している」というのは全くその通りだと思う。また全体を通してみると、第1〜7回までが割と日常的な部活ものの雰囲気だったのが、第8回を折り返しとして最終回まで一気にテンションを高めて走り抜けたという印象である。と同時に、Twitterでも言ったことだが声優陣の熱演(特に久美子役)、全編を彩った劇伴(BGM)の出来のよさ…ストリングスとピアノとギターとシンセという吹奏楽では通常使われない楽器をチョイスするセンスの鋭さも含め…も大きく評価したい。

さて今作は原作小説で1巻にあたるエピソードをアニメ化したわけだが、果たして2期はあるんだろうか?小説は既に本編3巻+スピンアウト1巻が揃っているのであとはアニメ化すればいいだけなんだが…確率的にその可能性は5割くらいと予想する。上記で指摘した通り最終回だけ見ても次に繋がる伏線は多数張られているが、「ユーフォ」はストーリーといい絵づくりといいあまりにも玄人好みで、これが爆発的に売れるとは思えないからだ。仮に原作3巻までやるとしたら3期または2期+映画という構成になるだろうが、こればかりは企画側に然るべき予算がつくか否かで決まる。「動くアニメ」が好きな自分としては、京アニの手によって描かれる彼女たち彼らの未来をもう少し見てみたいという気持ちが強いので、その夢が実現することを願う。

ところでこのアニメを毎週楽しみにしていて放送が終わって放心状態になってるそこのあなた、騙されたと思って第1回から繰り返して何度も見てみるといい。もしかするとこの作品、そういう視聴方法も考慮して作られてるかもしれないと思えるくらい新鮮な驚きがあるはず。その意味で、「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」というあすか先輩の願いは、TVアニメという何度でもループ視聴可能なフォーマットによってメタ的に成就していると言える。



追記:楽器の記述の明らかな誤りなどをいくつか訂正。こういうところはホントに疎いので…。

追記その2:夏の新作アニメを見始めたが絵の密度がスカスカに見えて困っている。しばらく「ユーフォ」の反動が抜けないだろうなあ…。

追記その3:1年のパーカスちゃんの画像をどうしても載せたかったので追加し少々加筆訂正。

追記その4:オーボエの鎧塚みぞれちゃんのカットを追加し少々加筆訂正。

2015/06/22

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(4:アニメにおける芝居とその意味)

アニメ本編がもう残り少ないみたいだから急いで本題。ワタシはアニメを「絵さえ動いていれば、またはしっかりとレイアウトされた絵さえ用意されれば、ストーリーもキャラも声優その他も割とどうでもいい」と考えながら見ている偏ったタイプである。ここで「動く絵」とは文字通り動画(主に動画担当者が作画した部分)、「しっかりとレイアウトされた絵」とは「監督や演出の意図が込められた構図や絵づくり」になるだろうか。「響け!ユーフォニアム」はワタシのようなタイプが喜んで食いつくシーンばかりなんだが、全編を通して振り返ると長くなり過ぎるので、物語の大きなターニングポイントとなった第8話以降を中心に軽く抜き出してみた。

【第8話:分かりやすい対比】









【第8〜11話:久美子と麗奈の殴り合い(?)】









確か押井守監督が述べていたのだが、アニメは基本的に作家が意図したものだけが映像になる。そこに撮影時の偶然や役者のアドリブは存在しない。いかに人間の形をしていようと、その演技はあらかじめそのように設計されたものだ。例えばさりげなく足を組むのも同じ場所に座るのも手のひらで胸を押さえるのも膝を叩くのも。これを熟練のアニメ監督たちはアニメにおける「芝居」と呼んでいる(と記憶している)。ワタシが言うところの「動く絵」と「しっかりとレイアウトされた絵」は、おおむね「芝居」という言葉に集約される。

「響け!ユーフォニアム」では、特に手足を使った「芝居」が「過剰なほどに」目立つ(髪の毛と瞳のハイライトもかなりのものだが手足ほどではない)。その意味を読み取るだけで大変な苦労を要するような仕事量を、京都アニメーションは叩き込んでいる。声優のセリフで語られない本当の意図を知りたければ、リモコン片手に通しで10回見直すくらいの覚悟が必要な、そんな作品である。

さて、人物配置、ロケーション、キャラクターデザイン、言葉づかい、フォーカスと手ブレ、芝居について眺めてきたが、冷静になって振り返ってみると、これらは実は一種の苦肉の策だったのではないかと思い始めている。第8話(の特にBパート)が傑作というのはおそらく異論のないところだと思うのだが、1クール(全12〜13話)の後半に目玉を持ってくるのは短期決戦のTVアニメでは不利が多過ぎる。逆に言えば、このアニメのストーリーは序盤の盛り上がりに欠けるのだ。原作小説も同じように現実の時系列に沿っているため仕方ないとは言え、それを補うために「盛るところを盛りつつ場合によってはばっさり切り捨てながら」持てる技術を惜しみなく投入したのではないか。それでも、最初の数話を見て視聴を止めてしまう視聴者をどれだけ引き止められたかは不明だが。それほどアニメの「芝居」は、大量の作品によって目の肥えてしまった我々にとって当たり前過ぎて気にされないのが現状なのだから。

散漫になってしまって申し訳ないが最後に。このアニメを見ながら漠然と思い出した映画を挙げておく。「1999年の夏休み」「台風クラブ」「ぼくらの七日間戦争」。古いのばかりで恐縮だが、それぞれ当時は相当話題をさらった作品なので思い出したときにでも見てみるといいかも。実はワタシも未見なのが何ともだが。ここでは「1999年の夏休み」の予告編を引用して終わりとする。長いことつきあっていただきありがとうございました(…というか書き慣れないもの書いて疲れた…)。



追記:連載はここで終わりにするつもりだったけど語りたいことが多すぎて結局まだ続きます

2015/06/21

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(3:ボケた映像と手ブレ表現)

書きたいことがだいたい揃ったので連載はここで一旦終わりかな。いきなりだけど滝先生は「特別である」「美人である」枠だけど、目に見えて「執拗で」「容赦のない」特別なポジションを与えられている。顧問だから仕方ないね。

さて今回は撮影技法から見た演出の話。まずこちらのブログを見てほしい。
響け!ユーフォニアムは他のアニメ、京都アニメーションの過去の作品と比較しても偏執的なほどピントの被写界深度が浅いと述べた。フォーカスが合っている部分と合ってない部分の差が激しい。
被写界深度はカメラ用語で一眼レフを触っている人ならばすぐに理解できるものだが、一言で表現すれば「被写体のピントが合う奥行きの深さ」になる。レンズの絞りを解放気味にして撮れば被写界深度は浅く、逆に絞って撮れば被写界深度は深くなる。これに光量ISOシャッタースピードその他のパラメーターが複雑に作用するので写真撮影は何かと難しいわけだが、ここではこれ以上触れない。

この作品の「解放気味に撮って被写体周りがボケまくってる」絵づくりは、リアリティよりも被写体のキャラや心情を反映させようとしたものだという先のブログの主張(で合ってるよね)にはワタシも同意する。もっと言ってしまうと、「そのシーン、その瞬間の主役は誰か」を「絵のなかでピントが合っている者」として「執拗に」意識させようとしているようにさえ思う。下に引用したのは第10話の1シーン、久美子の呼びかけに対して麗奈が鬱憤を爆発させる直前の場面である。同じ構図の中でフォーカスが久美子から麗奈へ一瞬で移動しているところに注意してほしい(画角が変なのはこちらの編集の都合ですすみません…)。



実写作品でこれをやろうとすると実は大変な技術を要するはずなのだが、最近のデジタル機材とポストプロダクションソフトウェアの発達から考えるとそうでもないのだろうか。ともかく、演出のツールとしてフォーカスを意図的に操作しているのは明白である。他にもユニークな使われ方をしているところがたくさんあるので、興味のある人は探してみてほしい。

カメラの演出といえばもうひとつ、フレームの手ブレ表現も多用されている。有名な例で言えば永谷園のお茶漬けのCMだろうか。


これはハンディカム…今ならアクションカムかな…で撮って(いるということにして)「ライブ感」を表現する手法として20年以上前に「発明」されたものと記憶しているが、歴史があるだけに少々使い古された感がある。実際このアニメでも多用されているが、個人的にはその効果に疑問を持っている。フォーカスが「画面内の主役は誰か」を示すのに対して、手ブレがそのシーンの何を表現しているのか読み取れないことが少なくないのだ。逆に言えば、手ブレ表現に意味を持たせようとするなら、もう少し使用を控えた方が良い効果を得られるように思う。

最後にキャラクターの手足の芝居と連想される映画の話をして締めようと思ったが、長くなってしまったので機会を改めることにする。うまく終わるといいなあ…

2015/06/20

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(2.5:2つのPVにみるスタッフの理解度)

今回はちょっと脱線して、実際の動画を見ながら少々思うところを。

京都アニメーションの公式YouTubeチャンネルに、アニメPV第1弾・第2弾が公開されているが、比べてみると発見がいろいろとある。





第1弾は2015/01/22 、第2弾は2015/03/22に公開されているが、この2ヶ月間における制作サイドの意識の変化が透けてみえる。

第1弾では、およそ現在のイメージとは遠い、(どこぞのアニメっぽいw)ハードタッチのジャズが耳に残るが、結局のところ「楽器を持って何だか楽しそうにしている女の子たちの姿」という、どこかで見た景色しか描かれていない。おそらくは「けいおん!」の成功体験も影響したであろうこのアニメ化企画において、まずはそれをトレースしていこうと考えるのは自然なことだと思う(なおPV第1弾のシークエンスの一部は現OPに「転用」されているが、麗奈は生真面目で寡黙な性格を反映した動きに変更されていることに注意)。

第2弾は放映直前ということもあり本編のシーンをふんだんに引用して制作されており、現在のイメージとほぼ同一になっている。これは素直に制作サイドの理解が深まったと見るべきであろう。ここで理解とは、原作小説やシナリオ、ロケーションやキャラクター設定に加えて、スタッフ間の意識や方向性の共有なども含まれる。つまり、このアニメに関わるスタッフは、2ヶ月を掛けて(実際の制作期間を考えればもっと短時間のうちに)「足並みを揃えた」というわけである。

この作品は「けいおん!」ではない、別の音楽と青春を描くものだと。

なお、アニメの制作現場では本編に先行して作られることが多いと言われるOP/EDだが、この作品でも同様なように思う。それは、上記のPVの真ん中にOP/EDを置いて考えてみると「PV第1.5弾」として実感できるだろう。

脱線したが映像をどうしても見せたかったので書いてみた。次はまた文章だらけに戻ります。

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(2;ロケーションと身体と言葉のリアリティ)

アニメ「響け!ユーフォニアム」について語る記事の2回目は、ロケーションと身体と言葉について。前回に引き続き「過剰」「執拗」「容赦のなさ」というキーワードを挟みながら三題噺みたいなところに落ち着かせようと考えているけど、どこへ着地するか少々不安ではある。

ではさっそくロケーションから。アニメの制作現場ではずいぶん前から、TV・映画を問わず、実際の土地を綿密に取材して背景等の作画に生かす、いわゆるロケハンが多用されるようになった。押井守の「パトレイバー」「攻殻機動隊」では複数の場所を取材し混ぜることで全体的には匿名的な東京・アジアを描き出していたが、現在のアニメでは特定の街・場所・建築物等を画面に出すことをいとわなくなっている。京都アニメーションでは「らき☆すた」が有名だが、他の作品でもかなり徹底したロケハン主義を貫いている。

「響け!ユーフォニアム」の舞台は、原作小説通り京都府宇治市である。久美子たちが使う電車、通学路の交差点、川べりのベンチ、学校の建物(のモデル)、県(あがた)神社、大吉(だいきち)山などは実在するものそのままが描かれていると言ってよい。むしろ宇治市であることを分からせるために印象的な場所をあえて選んで背景に用いているようにすら思う。「聖地巡礼」にはいかにもおあつらえ向きだが、まるで映画を撮影しているような縛りの強さ(=過剰さと執拗さ)には若干戸惑う部分もある。それでも破綻を感じないのは、リアル側に振ったキャラクターデザインの影響もあるだろう。

さてそのキャラデザ、前回でも軽く触れたようにかなり細かい。主人公の久美子は高1の女の子にしては体格が良く(明らかに身長が上なのはあすか先輩だけ)、その一方で髪はボサボサ、プロポーションも見るべきところは少なく…要するに本来は「何かきっかけがあると目立っちゃうけど基本的には深く考えてなくてボケてるっぽい」キャラとして読み取れる。他を細かく見ていくとキリがないので止めるが、それぞれのキャラデザには彼ら彼女たちの性格や立ち位置が分かるような仕掛けが施されていると考えてよい。

そのようにして設定された各キャラは劇中において「容赦なく」並列される。久美子・葉月・緑が集まるシーンでは緑は頭の上半分だけ見切れたりする。チューバ担当の2年・梨子先輩は他の女子生徒よりも中肉中背…というより明らかに肥満気味に描かれる。とりとめなく会話するモブキャラの女子生徒たちのバストの大きさは丈が短めのセーラー服という衣装設定も影響してはっきりと比較できてしまう。映画のように写実的に描こうとすればするほど、各キャラにとっては残酷な「現実」が突きつけられる。アニメでデフォルメされているぶん、よりシビアと言うべきだろうか。

ここで不思議な事実が浮かび上がる。ロケーションとキャラの身体を写実的に振って映画的に配置しているにも関わらず、皆の話す言葉がなぜか標準語で統一されているという点である。原作小説では久美子以外のほとんどのキャラが関西弁を話す。これをNHKが実写ドラマ化したらほぼ確実に関西弁中心のシナリオを用意するだろう。なぜアニメでは「リアルな宇治市の高校生たち」が標準語で話す必要があるのだろう?答は「アニメ映画ではなくTVアニメであろうとする演出の意図によるもの」だと考える。仮にアニメ映画なら許されるであろう関西弁を、より広範囲に(場合によっては海外でも)放映されるTVアニメというフォーマットのために、京都アニメーションは「容赦なく」切り捨てたのだ。スタジオがある地元の言葉であるにも関わらず。他にも声優の演技力の問題などいろいろあるだろうが、京都を拠点にするひとつの地元企業としてこの判断はなかなかできることではないように思う。「広がり」への自信のあらわれと言い換えてもいいかもしれない。

今回はここまで。何とか軟着陸できたかな。次回は撮影技法と手足の芝居の話あたりができたらいいなと思います。

2015/06/19

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(1:キャラクターの配置)

アニメ批評的な文章を書くかどうか迷っていたが結局書くことにした。

現在放映中のアニメ「響け!ユーフォニアム」を録画しておいた8話まで一気に見たところで「こりゃあ面白い」となって、原作小説を一気に通読して現在は毎週の放映を楽しみにしながら待っているところ。と言っても1クールならもうすぐ終わってしまうのだけど。

このアニメはいろいろと語りたくなる要素が満載なのだが、今回から不定期で、記事のタイトルに挙げた「過剰」「執拗」「容赦のなさ」というキーワードを適宜使いながら、思いついたことを書き連ねていこうと思う。初回は「キャラクターに与えられた役割」について。なお画面キャプチャを入れたいところなんだがnasneから撮るのが面倒っぽいので断念、従って色気のない文章の羅列になることをあらかじめお断りしておく。

OPラストの全員整列シルエットやBパート冒頭のアイキャッチでお分かりの通り、北宇治高校吹奏楽部のメンバーは各々にキャラクター設定(顔つき体つきはもちろん、名前、学年、担当楽器、仲の良い友人etc.)が細かく行われていると考えてよいだろう(=モブにしては「過剰」な扱い)。そのなかで、一種の特権を与えられているキャラクターが存在する。列挙すると以下の通り:
  • 特別である:久美子、麗奈、あすか先輩、(緑輝)
  • 道化である:久美子、葉月、緑輝、あすか先輩
  • 美人である:麗奈、香織先輩、あすか先輩
「特別である」とは麗奈のセリフからの引用だが、ここでは「楽器演奏において他よりもアドバンテージを持つ者」という解釈で用いる。久美子は小学校からユーフォニアム一筋なのでキャリアは他の部員より頭ひとつ抜けている(が本人はそのことに対して無自覚)。麗奈は恵まれた家庭環境に加えて本人の意思と才能によって一層の高みを目指している。あすか先輩は練習の虫で何よりもユーフォニアムを愛している。この3人はあの「大してやる気の無かった」部員の中では上から数えて何番目の上手さのはずなのだ。ここで問題になるのは緑輝…もう緑でいいや…の存在なのだが、あの背の小ささでコントラバスを弾きこなす腕前とキラキラネームへのコンプレックスでプラスマイナスゼロだろうか。まあとりあえず彼女は横へ置く。

「道化である」とは「漫画・アニメ的表現を許容する者」という意味である。京都アニメーションがジブリではない、つまりTVアニメを作っているのであってアニメ映画のTV版を作っているわけではないのは、例えば彼女たちの「ヒョウタンツギ」みたいなふくれっ面を見れば分かる。道化である彼女たちは物語をくるくると回して前に進める役割を担う。久美子・葉月・緑のトリオは言ってしまえば水戸黄門と助さん角さんみたいなものだ。あすか先輩は「変人」という設定からその役割が巡ってきてしまったのかもしれないし、何を考えているか窺い知れない「仮面」のメタファーなのかもしれない。

「美人である」とは文字通り。好むと好まざるに関わらず、こういうキャラクターがいなければアニメは盛り上がらない。麗奈は同性の久美子をして惚けさせるほどの美少女として描かれる。香織先輩は下級生に取り巻きができる上品でしっかり者で芯が強くて優しい女の子。あすか先輩は頭脳もプロポーションも非の打ち所がない美女だが変わり者という残念美人のカテゴリー…(=容赦のなさ)。

さてここで振り返ってみる。3つの要素を全て兼ね備えているのはあすか先輩のみであるが、彼女を主役に据えると話が「ハルヒ」になってしまうのは容易に想像がつく。ゆえに彼女は自ら中心を去る(=部長に推薦されていながら辞退して副部長に納まる)。そして、主役の座は久美子と、その照射としての麗奈に譲られる。
あすか先輩(特別・道化・美人)→久美子(特別・道化)+麗奈(特別・美人)
当初、久美子は自分が「特別」であることには無自覚なように思えたのだが、そこに中学からの友人であった麗奈の存在が強くコミットしてくることで彼女の内面は大きく変わろうとしているように見える(特に8話において)。つまりこれからは、主人公兼語り部たる久美子の成長を通して、「より特別になる」吹奏楽部員たちの姿が描かれることになるはずだ。その過程の苦しみや葛藤も描いているために(9〜11話)、いわゆるキャラ萌えアニメとは一線を画した重厚なドラマ性を有しているのだが。ここはおそらく「けいおん!」とも違うところだろう(実は「けいおん!」をしっかり見てないんで間違ってたらごめんw)

少々とりとめのない話になったが今回はここまで。なお原作小説とアニメは各エピソードの扱いがかなり違っていたりするので、ファンの方はできれば両方見ることをオススメします。

2015/05/31

匂いと記憶

event_note
クルマとバイクを散々乗り回してきた現在からは想像もつかないと思うが、ガキのときのワタシは実は乗り物にとても弱かった。車酔いの原因はよく三半規管をシェイクされるためと言われるが自分の場合はちょっと違っていて、ビニール張りの自家用車の内装、汽車やバスのディーゼルエンジンの排気ガス、古い客車で使われていたコールタール塗りの床などの匂いがトリガーで、それを嗅いだとたん吐き気に襲われて目的地に到着するまでひたすら我慢するしかなかった。この乗り物酔いグセは自分でバイクに乗り始める時期あたりを境にピタリと止むんだが、匂いと体験を繋ぐ記憶がいつの間にか上書きされたのだと今は思っている。

ワタシは裸眼視力以外の五感は他の人よりも敏感な方だと思っている。神経質と言い換えてもいいかも知れない。そして特徴的な刺激を受けた場合、それが体験や記憶と強くリンクして、ふとしたタイミングでそのシチュエーションをリアルに思い出すことがある。こういうのをフラッシュバックと言うんだろうか?ともかく、ワタシが受けてきた五感の刺激は、かなりの割合でワタシの経験してきた時間や場所、それから出会った人たちと繋がっている。

先日イオンモールへ出向いた際、フロアに足を踏み入れてワタシの五感へ最初に飛び込んできたのは高い天井でも売り場にあふれる商品でもなく、「イオンモールの匂い」であった。その匂いはまた、知人の家庭にお邪魔した際、部屋いっぱいにあふれる甘い香りの正体でもあった。日本全国各地の標準的な家族の営みの場がこの匂いで満たされているのかと思い、かなり強烈な目眩を覚えたのを白状しておく。

また別の日になるが妙齢の女性と会食する機会があって、年齢が親子ほども離れているせいか互いにかなりフランクな話題を持ち出して盛り上がったのだが、その女性が身にまとう花のような香りもまた強烈にインプットされた。何かしらの香水の類ではなさそうだったので失礼を承知で聞いてみたところ、やはり特に自覚も無く何も使ってないという答だったので、あれは彼女が過ごす家庭に染み付いた匂いと彼女自身の動物的なフェロモンとかそういうものに自分が反応したのだと思う。とはいうものの他の女性と会話していて常に感じるものではなかったので、彼女独特のオーラに近いと言うべきものかも知れない。

イオンモールからもたらされる一般家庭の匂い、女性が放つ芳しい香り、そのどちらも現在のワタシの生活からは遠いところにある。つまり自分が現在のペースで生活する限り、記憶の上書きができないことを意味する。ここでは内容を明らかにできないが、それぞれの記憶がとても大きな意味を持っているために、無臭空間で過ごす現在のワタシの毎日はそれらを思い出しては途方に暮れることの繰り返しである。

自分の部屋の淀んだ空気を入れ替えるために窓を開け放つ。そろそろ虫が入ってくる頃だと思い蚊取線香に火をつける。あの独特の匂いが部屋を満たす。今年も夏がやってくることを思い出す。

2015/05/16

5/15付で退職しました

event_note
昨日ちょっとツイートした通り、5/15日付をもって約13年在籍した某企業を退職した。ここの読者とはほとんど直接関わりのない職種であるのでお世話になりました的な話はしないが、在籍期間の割には不思議と感慨が湧いてこないのは少々理由がある。

勘の鋭い方はここしばらくワタシが妙な生活を送っていることに気づいていたかと思う。数年前と実はこの2年あまり心身ともに謎の不調に苛まれ自宅療養を余儀なくされていたが、最終的には主治医より「現在の職場環境では完治不可能」というジャッジが下され、その指示に従って事務的に会社を辞めることになったのである。転職は何度も経験しているがこういう自己都合でも会社都合でも無いケースはハジメテなので、現職に復帰するつもりで心身の不調と闘ってきたワタシとしてはいささか唐突な感じがするのだが、確かに復帰したとしても三度目の穴に落ちるなあという獏とした不安は否定できないので、そのまま指示に従うことにした。

会社の方は想像通り、極めて事務的かつ冷淡であった。この数年の経緯を考えると、体よく厄介払いをしたかったらしい。ワタシは入れ替わりの激しいあの会社にあって、いつの間にかミスマッチな存在になっていたようだ。組織が大きくなるにつれて入社したときのフレンドリーさが消え、動脈硬化を起こしたなかでうまく立ち回ることが出来ずひとり取り残されてしまったようなものだろうか…まあいい。

退職手続の合間に同僚と話ができたのだが、その会社も大きな変革のタイミングを迎えているようで、ダイナミックな人事異動や業務システムの大刷新など驚くことが少なくなかった。今にして思えば、上場のジョの字も出ていなかったのんびりした小さなオフィスから新宿の一等地に本社を構えるところまで成長した企業に在籍して、その一部始終を観察できたのは幸運であった。逆に不運といえばスキルらしいスキル、実績らしい実績を得られなかったことだろうか。年齢を考えると痛すぎるが、自己のキャリアパスを何も考えてなかったので自業自得と割り切るしかない。このへんを考え始めると色々と腹が立つのでもう少し暴れたくなるのだが面倒なので止める。もう関わりはない会社なのでね。

さて正真正銘、久しぶりの無職になったわけだが、さっさとハローワークに登録して次の仕事を見つけるなり、思い切って住環境を変えるなりしたい。秋冬は活動が鈍るので、できるだけ早いうちに適切な選択をしようと思っている。プライベートでは課題が山積なので。趣味の話はその後になると思う。イベントなどは基本的には行けないし同人活動そのものは現状と同じく縮小したままの予定。

そんな訳で落ち着くまで潜行します。Twitterはたまに気まぐれで浮上するのは今まで通り。



…次は何して稼ごうか。年齢的にそろそろ選択肢も少なくなってきたけどどこかいいとこないかしら。

2015/05/03

提案:ボカロPや動画制作者は新作告知ツイートをサムネ絵つきにしよう

昨日ちょっと考え事をしていたところにちょうど良いサンプルが来たのでまとめておく。

ボカロPや動画制作者が新作を告知ツイートする目的は視聴導線の形成が第一だと思うのだが、Twitterが標準化した画像・動画アップロード機能、それから公式web・モバイルアプリでTL内に自動エンベッド表示されるYouTube・SoundCloud等を活用して、「その作品のサムネイル画像」を一種のレコードジャケット的なノリで大きく表示すべきだと思う。逆に言えば、ニコ動(や他のコンテンツサービス)のURLだけを貼って新作ですとツイートしても、もはや数が多すぎて導線形成すらおぼつかない時代なのではないか(公式webだとニコ動は小さいサムネ絵が表示されたりするっぽいのだがTwitterの仕様がコロコロ変わるので何とも言えない)。

冒頭に言った良いサンプルとしてMitchie Mさんのツイートを以下に示す。


上はニコ動のURLのみ、下はTwitterへアップロードしたサムネ画像つきである。できれば公式web・モバイルアプリとサードパーティ製モバイルアプリで、それぞれの見栄えを確認してほしい。

LINEのスタンプは言うに及ばず、Twitterでも会話の合間に画像を挟むという行為が一般化して久しい。たった140字の文字コミュニケーションにすらそういうモノが入り込んできてしまうのが良いのかどうか判断は避けるが、そういった画像や動画の山が次々と流れていくようになったTwitterのTL上で、文字情報だけに頼ったアピールはいかにも弱く感じる。せっかく力を入れた作品なのだからプロモーションもしっかりしようよというのは昔から言われてきたことだが、ことTwitterに関してはリッチコンテンツも表示できるようになった環境に対応した方法を採った方が効果的だと思うよ、と、そんな話。これ採用する人が増えてくれると個人的にうれしいなあ。今ごろ気づいたんかお前wwwと笑われてもいい。

白髪と体温と食欲と

event_note
ずらっと並べたが要は老化と体調不安に伴う身体の変化が最近顕著だということ。

まず白髪。自分の父は30代半ばの時点で既に半分以上が白髪で現在は真っ白なんだが自分はなぜか特に目立たずここまで来た。ところが最近鏡を見ると前髪や側頭部に白いものがチラチラと見られるようになったので、あと数年もすればそれなりのグレーになるかもしれない。そしてなによりヒゲが半分くらい白くなってきていて芦毛の馬みたいでさすがに笑う。せっかくなので伸ばしていることが増えたが思いのほか好評なので自分でもびっくりしている。

次に体温。とにかく調節が思うに任せず苦労している。冬はひたすら冷えて最近の日差しも涼しく思う…端的に身体の代謝機能が落ちてて体内脂肪を燃焼したりするカロリー消費をしていない感じ。まあここ数年の不調の理由がそういう性質のものなので騙し騙し様子を見るしかないのだが。

そして食欲。代謝機能にも関係していると思うのだが処方薬の副作用も原因としてあるらしく、何を食べても満腹感がなくひたすら食い続けたくなるときもあれば、1日に食パン1枚も食いたくないときもあったりして、とにかく義務的に決まった量の食事を毎日3回食って間食をできるだけ控えるようにしている。特に食欲が爆発しているときはポテトチップスとチョコレートを袋まるごと食べてしまいたくなるので、その欲望を何とか抑えないとプラスマイナス10kgの範囲で太ったり痩せたりを再経験することになりそうなので怖い。ついでにアルコールはすっかり弱くなったがあまり喜びたくないのも本音ではある。

まあいろいろあって今月は懸案のまま放置されていたいくつかの事項を片付けないといけなくなったので、上記のうちいくつかは嫌でも解決に向かうと思う。病は気からと言うけど個人の置かれた状況や環境による影響もやはり無視できないんだろうな。

…などと他人事のようにぼんやり考えている。

2015/04/27

デジカメの画像フォーマットで悩む→解決

さて先日入手したLUMIX DMC-TZ60、コンパクトデジカメとして一通りの機能が揃っていてなかなか便利なんだが、中にはこれホントに必要なのかと思わされる無駄に上級なものが含まれてたりする。そのひとつがRAWフォーマット対応。特にデジタル一眼レフを使った経験がある方ならすぐお分かりいただけるだろうが、RAW形式データとは簡単に言えば「生データ」。カメラ内部の受光素子で受けた信号をカメラ内部でjpegなど他の画像フォーマットに変換する前のデータで、PC等でのフォトレタッチ(というより「現像」と言った方が馴染みがいい)することを前提としているものである。要はプロ・ハイアマチュア向けに素材を丸ごと取り出せますよ、というのに近い。

で、自分はEOS時代にも(半分見栄とハッタリで)RAWデータ+jpeg設定で撮影していたので今回も同じ設定にしてテスト撮影(肉と猫w)したんだが、いざMacに取り込む段になってiPhotoが「このフォーマットには対応していない」との警告を吐き出して、せっかくのRAWデータが活かせないことが判明した。実際、撮影時にSDカードへの書き込み時間が長くなって連写がもたつくなどデメリットもあったので、このカメラではjpegのみで撮影することに決めた。

ちなみに画角設定もいろいろと決められるというこのカメラ、自分は4:3で使うことにした。3:2ならiPadの画面比率と一致するので見やすくなるんだが、カメラの画素を全部使わない撮影というのも微妙に居心地がよくないので…まあ3:2にしたければあとでトリミングすればいいだけの話だしね。

2015/04/23

EOSを売却

前回の続き。こういうのは思い切りが大切なのでEOS Kiss X50ボディとアナログEOS時代から引き継いだレンズ3本を中古カメラ屋で引き取ってもらった。本体とレンズ2本はほぼ相場通りの価格だったんだが、残った1本の望遠ズームレンズに曇りが見られるということでその店では売らず別の店へ持ち込み、同様に曇りの指摘を受けたものの引き取り価格が数倍だったので悩まずに手放した。

カメラのメンテナンスはホコリと湿気との戦いである。使った日は帰ってきたら本体とレンズを一通りクリーニングして防湿庫に保管して、ほどほどに使い込んだらメーカーへオーバーホールに出す、というのが精密光学機器を扱う当たり前のマナー…なんだが、低価格フルオートコンパクト&写ルンですがカメラ業界の常識を塗り替えて日用品的に扱ってもよい的な空気を受容してしまって、ワタシもずるずるとそれに従ってロクなメンテもせず使い倒してきた(そういう扱いはなっとらんというクレームをカメラ趣味の友人から受けたことがある)。なので正直まともに査定されるとは思っておらずちょっぴり得したかもという気になっている。トータルで考えれば明らかに赤字なんだがね。

それにしてもカメラも写真も使うのは好きだがカメラという機材や撮れた写真そのものにあまり愛着を持っていないのは僥倖というべきだろうか。いわゆるレンズ沼に引き込まれることも無く、手元にある適当な機材でそれっぽいスナップを撮れれば満足できる。これはワタシの性格ではあまり考えられないパターンなので、どこかで自制心が働いてるんだと思う。だってカメラやレンズの価格も皆さんのカメラ愛もすごいんだもの…

2015/04/18

デジタルカメラを新調

いきなり本題。デジタルカメラは単三乾電池で動くことにこだわって長いことミノルタDiMAGE X20を使ってたんだが、2011年のロサンゼルス旅行でさすがに限界を感じて、その年の暮れにアナログ時代のレンズ資産を生かすべくキヤノンEOS Kiss X50(以降EOSと表記)を購入した。そこから約4年とちょっと、デジタルカメラでの撮影がスマートフォンの普及によってカジュアルに楽しまれるようになるのと対照的に、重厚長大なデジタル一眼レフは以前よりも気合いが要らない道具になったように思う。確かに、撮影するモチーフやシチュエーションを予測し、レンズを選び、各種パラメータを設定してベストな1枚を得る喜びは大きいのだが、デジタル技術の進歩は恐ろしく速く、それらアナログ時代に必須だったスキルをかなり大幅に補ってくれるようになった。オートバイで例えるなら、現在売られているリッタークラスのスーパースポーツバイクが数年前のMotoGPやWSBレーサー並みの性能を備えつつコンピュータ制御のおかげで誰でもとりあえず乗りこなせるようになっているようなものだろうか。皆さんが使っているスマートフォン内蔵のカメラはさしづめ400ccクラスの、ミラーレス一眼レフは750cc〜リッタークラスのネイキッドかな。おそらく両方とも、普通に使うぶんには8割方のユーザーから不満が出ないくらい、きれいに写ると思う。


そんなわけで、ワタシのデジタルカメラライフはメインがEOS+数本のレンズ、サブがiPhoneという体制がしばらく続いていたんだが、気がつくとEOSの稼働時間が減る一方になってしまった。当初はサブのつもりで撮り始めたiPhoneのカメラが思いのほかよく写り(しかも3→4→5→5sで画質が着実に進化)、さらにポケットからサッと取り出してすぐ撮影できる手軽さも加わって、デジタル技術で大幅にサポートされて使いやすくなってるはずのEOSを準備するのがそもそもめんどくさくなってしまうことが多々発生したのだ。結局、普段使いのカメラはiPhoneで、望遠レンズが必要と予想される場合などで(仕方なく)EOSを引っ張りだす、というパターンでこの4年ほど過ごしてきた。


ここで振り返ってみると、EOSと手持ちのレンズ一式を準備して出かけても、撮影に一度も使わず帰ってくるケースが割と多いことに気づいた。iPhoneのカメラが優れているのとEOSを準備するのがめんどくさく感じることが多かったのは前述した通りだが、デカいカメラを振り回すのが何となく憚られるというか、場の雰囲気に似合わないように思えてEOSを取り出せなくなかったことも結構あった。会食やパーティなどでは特にそう。他に比べて大型で真っ黒なボディにレンズがドーンとついているカメラは、同好の士が集まる撮影モチーフを撮るときか、イベントの取材くらいしか居場所が無い感じ。いくら手軽になったとはいえ、ミラーレスでないデジタル一眼レフカメラはやはりプロフェッショナルな道具のひとつなのだ。


じゃあiPhoneだけでいいじゃないかと言い切れないのは、それだけでは対応できない被写体が存在するから。そこで、基本に立ち返って自分が主に何を撮影しているかを考えた結果、EOSの代わりに持ち歩く「サブ」カメラとしてパナソニックDMC-TZ60を購入した(ベーコンPさんありがとうございます。圧倒的感謝…)。レンズが交換できないことを除けばエントリークラスのミラーレス一眼レフと遜色ない性能と機能を持ち、GPSやWi-Fiまで内蔵するので旅先の記録やスマートフォン・タブレット等への転送なども余裕でこなす。まだ手に入れたばかりで全ての機能を使いこなせてはいないが、強力なズーム&マクロ&オートフォーカス&手ぶれ補正機能は、エントリークラスの一眼レフよりボディが軽く小さいぶん強力かつスピーディに働く印象を持った。今日は天気が良かったので朝から撮影テストと散歩とロケハンを兼ねて谷中→羽田空港国際線旅客ターミナル→川崎と気ままに移動しては適当に撮影して歩いたが、想像以上によく撮れるというのが率直な印象。ここに貼った写真はMacで少々レタッチした後に縮小したものなので、ひとつの作例として見てほしい。でも…このクオリティの写真をiPhoneにサクッと転送してツイートするのってクセになるかも…飯テロ用の実弾をたっぷり用意しないと。

2015/04/14

「初音ミクを殺すための101の方法」を読んだ

「お兄ちゃんどいて!初音ミク殺せない!」というタイトルにしようとしたけど自重。先日webで発表された表題の批評について、個人的にまとめながら感想をつらつらと述べる。こういうのは「ボカロ批評」関係者などの領域だと思うんだが、ネタは鮮度が命ということで。

まず、この長い文章を引用しながらざっくりと整理してみようと思う。自分自身が理解可能なように文章を適宜改変しているが、当然、文意はできるだけ保持するよう努めている。

2015/04/11

オーディオ=オカルト論にあえて反論してみる

99.9%勝ち目のない戦いになるのは承知で書いてみる。

少し怪しげなオーディオ周辺機器が発表されるたび、ほぼ効能の認められない「オカルト」であると断ずる論調が大勢を占めてずいぶん経つ。元オーディオファンとして納得できることがほとんどだけど、その批判を全面的に肯定できるものでもないし全員一緒じゃつまらないので、あえて反論してみる。

その1:以前に楽器店へ連れて行ってもらって、まるでミニ四駆みたいな細かな改造パーツの多さに目を丸くしたことがある。演奏者の好みに合わせる目的もあるだろうしオーソドックスな楽器ならちょっとした部品の交換やセッティングの変更で音が変わることがあることは理解できる。であれば、楽器の一部であるDTM環境にもそのノウハウが適用されて然るべきである。具体的には、同一のDAWでもPCメーカー、CPU、マザーボード、メモリ量、ドライブの種類と容量、電源ユニットの容量etc.によって音が変わると考える作曲者が居てもおかしくないはずなのだ。その思考をリスナー側にひっくり返せば、デジタルオーディオ向けアクセサリの数々がなぜ存在するかの理由になると思うのだがどうだろう。

その2:ユニクロ等の機能性下着でも食料品売り場に並ぶ醤油の数々でも何でもいいが、それらを購入するときに二重盲検法で売り文句の有効性を確認するだろうか?また、それをやってないことをことさらに批判するだろうか?世の中に流通するほぼ全ての商品には差別化の名のもとに何らかの機能や効能が付加されている。それらは厚労省その他の案件でなくよほど悪どいものでなければ大してチェックされず販売されているのが実情である。二重盲検法等の科学的な試験の未実施を理由にオーディオアクセサリだけを批判するのは、そういうものを同様に行って然るべき他の商品の存在を考えれば極めてアンフェアな態度ではないか?

その3:プラセボ効果はすっかり有名な言葉になったが、内容をかいつまんで言うと「偽の薬を投与したら体調が改善した」実験が元である。これは薬だけではない。イミテーションの宝飾品も複製の絵画も、それが生活空間に存在するだけで何となく豊かな気分になったりするものである(余談だがワタシの部屋にはミッドセンチュリー時代にデザインされた名作椅子のレプリカがある)。オカルトめいたオーディオアクセサリーも似たようなものと考えられないだろうか。然るべき投資をして所有して設置するだけで何か気分が良くなる、そういった面も十分に機能の一部だと思うのだ。逆にそれを否定するなら、オーディオオカルトを唱える方の生活空間はひどく味気ないものなんだろうと想像する。たぶんフィギュアのひとつも置いてない実験施設か囚人部屋みたいなんじゃなかろうか。

…すごいこじつけっぽい。とにかく昨今のオーディオすなわち全てオカルトという短絡思考だけは避けたいというのが個人的な思い。共感者はどんどん減ってるけどな。それでもみんなヘッドホン・イヤホンだけはとりあえず変えるのがすごく不思議ではある。アナログ段はパーツ変更の影響を受けやすいのを差っ引いてもさ。

2015/04/10

音楽を聴く楽しみを取り戻す方法を考えている

音楽についてここ最近は特にボーカロイド関連について書き綴ってきたが、今回はそれとは関係なくリスニング全般の話。

既に何度か触れた通り、体調を崩してしばらくしてから音楽を積極的に聴く習慣が止まってしまった。正確には流れている音楽が音楽に聴こえず、生活音の一部に混じってしまって感情を揺さぶらなくなった。

このあいだ西伊豆にドライブへ行ったときもiPodにお気に入りの曲を詰めてずっとかけ続けていたんだが、以前のようにアドレナリン全開ウヒョーみたいなテンションではなくて、遠くでAMラジオが鳴ってるのを何となく耳にして時々昔を思い出しては「おっ」と呟く程度。一般的な音楽リスナーならむしろこのくらいが普通なんだろうが、学生時代はドライブと音楽が生活の一部であったし、クルマに以前ほど乗らなくなった最近でもニコ動でボカロ曲の新作を毎日チェックしては当たりを見つけたと言ってギャーギャー大騒ぎしてた自分自身がまるでウソみたいである。「ボカロに飽きたんじゃねえの」と言われることもあるが、例えばアニソンなど他の一般的な、あるいは昔から好きだったアーティストの音楽も積極的に聴く気にならないので、ボカロへの飽食感という次元の問題ではない。また先日書いた通り、現在は数々の処方薬を服用しながら体調回復に努めている身なので、もしかすると副作用によって音楽に対する感性が鈍くなってしまったのかもと考えたこともあるが、定期的に薬を飲むようになったのはこの症状に陥るよりずっと前なのでその仮説は否定される。

まあ結論を言ってしまえば、目眩に似た感じを自覚して、音楽だけではなくネットから大量に浴びせられる情報をほとんど受け付けなくなったのが症状再発・悪化のきっかけなんだが。そうなった具体的な日付も理由も伏せるが、あれを何とかしないとたぶんダメなんだろうな。こればかりは主治医も処方薬も役に立たず、どこかで再戦して勝たないといけない。いや一矢報いる程度でも構わないな、勝ったところで何の得もないし何事もやり過ぎは身体に毒だから。

そんなわけでたまに聴くボカロ曲や不意に思い出す昔のアイドルポップスやアニソン、そして久しぶりに行ったボカロ系クラブイベントなどによって、時々繋がる脳内と身体の音楽回路の線を少しずつ太くして、楽しかった感覚を取り戻すのを意識的にやっている。たまにTwitterでつぶやいたりここに書いたりする話題が古くさくてクドいのは、自分にとって楽しい音楽って何だったっけという自問から逆算して作品を思い出してるからである。決してレトロスペクティブなだけではなく。

2015/04/09

最近のアニソンがリッチだが劇伴も注目されてほしい

いや別に楽曲レベルが高くてうんぬんという分析的な細かい話をしたいわけではない。

昨今の第n次アニメブーム、特に良質な深夜アニメの隆盛によってアニソン(=OP/EDと劇中挿入歌、キャラソン含む)の数は1クールにつきもしかしたら合計3桁近くに届く勢いとなっており、しかも各々がパッと聴きでもよく出来ているのにそのうち数曲は必ず強力なフックを持った良曲が飛び出してくるのがまず驚き。最近はMONACAの仕事ぶりが目立つが、ネットレーベル/ボカロ系アーティストも活躍されているのが喜ばしいところ。

(何度でも強調するけど「鏡には〜」からの舐め回すような長回しのカットが絶品!)


(これはBPMを半分にして小林幸子か石川さゆりあたりに歌ってもらったら完璧になると思う)
これに劇伴(=物語に付随したBGM)がつくのだから、インストも守備範囲としている音楽ファンには毎クールたまらないものがあるだろう。

数年前にアニメをがっちり視聴する趣味から離れてしまっているので強いことは言えないんだが、実はTVシリーズの枠内で音楽的にリッチなことをやってしまった例は枚挙に暇がない。近年のOP/EDで記憶に残っているのはシャフトと組み始めた頃の新房昭之監督作品で、例えば「月詠」のOPと「ぱにぽにだっしゅ!」のOP/EDは最近の電波ソングあるいは萌えアニメ系のアッパーなアニソンの源流と言ってもいいかもしれない。思いつきだけど。

(これを見た後にDimitri From Parisを知った、お恥ずかしい限り)


(「ぱにぽにだっしゅ!」は新房監督×シャフトの原点っぽいノリなので超オススメ)
ただ、OP/EDと劇伴の両方とも振り切れちゃってる例というのはあまり思い浮かばない。「エヴァ」のフルオーケストラめいた壮大な劇伴は鷺巣詩郎によるものだが、あれはまあ過去の映画やTVシリーズの特撮もののオマージュだったんだろうと今になって思う。「カウボーイビバップ」はOP以外は案外コンサバだし、あの「エウレカセブン」でさえ全編テクノというわけにはいかなかったわけだし。「攻殻機動隊」はどうだったっけ。「まどマギ」はかなり演劇的だったけど全体で見たらOPが浮いてた記憶があるが演出の一部と言われたらそれまでだしなあ。

しかし何でも例外というのがある。「サムライチャンプルー」は今でも時々無性に見たくなってサントラを引っ張り出しては聴いてる作品。例えば真夏のクソ暑い夜にビールなどあおりつつグデングデンに酔っぱらいながら見て途中で寝落ちしちゃうのがこれほど似合う作品もなかろう。発表時期を考えるとゼロ年代のオタク vs サブカル論戦に引っ張りだされそうな雰囲気もするが、結果的には内容が良い意味でいい加減かつハイカルチャー過ぎてどちらからも敬遠された気配すらある。その点ではとても幸せで不幸な作品だと思う。

(この作品の音楽的なキーマンであるNujabes氏は2010年に亡くなったそうである。合掌)
話は戻って最近の深夜アニメ量産体制が作画に加えて劇伴の制作もどれくらい間に合ってるのか、少々心配ではある。アニメ視聴趣味のリハビリが進まず細かく視聴していないためにおそらく見落としがたくさんあるのを百も承知で言うが、企画側の趣味全開で作曲にじっくり時間をかけた、変なものキメてイッちゃってる感じのデロンデロンな音楽が劇中でひたすら流れてる新作シリーズを久しぶりに見たい。あとでこっそり教えてくれちゃってもいいのよ

そういう意味でも「ニンジャスレイヤー フロムアニメイシヨン」にはものすごく期待している。最初からアタマがフルスロットルでイカレてブッ飛んでるくらいの劇伴にしてほしい。いや別に作画とか崩壊してもこれだったら気にならんから。

処方薬の話

event_note
別に怪しいドラッグの類は取り上げない。それと薬の種類と量を具体的かつ得意げにペラペラ話す奴は個人的に信用できないというポリシーがあると前置きしておく。

自分は睡眠障害ではないかと疑って定期通院を始めてから10年近く経つ。入院検査の後に睡眠導入剤と鎮静系の薬を処方してもらって1年ほど経った後、抑うつ症状が強くなったということで処方が丸ごとひっくり返って薬量が倍増し、さらに様々な種類の薬を数ヶ月単位で取っ替え引っ替えすることになって1年ほどでほぼ快方に向かった。

そこから数年経って今度は自律神経がやられたらしく日替わりで体調とメンタルが安定しなくなり、カウンセリングを受けながらそのときの症状に合わせて処方を変えてもらって、ついでに民間療法的なものもあれこれ試して現在に至るが完治にはまだ遠い状況である。

便利な世の中になって処方薬のリストからネットで効用と副作用、服用時の注意などは全て分かるんだが、ワタシ個人はできるだけそれを見ないようにしている。特に副作用と服用時の注意を気にしていると何も飲めなくなるような危険なことが普通に書いてあるので、病気を治しているのか薬物中毒に片足を突っ込んでるのか分からなくなってしまうからだ。一時期それ自体にウンザリして主治医の指示を無視して薬を飲まなくなったことがあるが、言うまでもなくこういうド素人の判断は往々にして危険な結果を招くので絶対にマネをしてはいけない。実際にその期間は病状が改善するどころか悪化したのは確かであるし。

ともかくここ数年は様々な処方薬を一般の方々よりは間違いなく多量に毎日服用している身だが、勝手な断薬は論外として他にもめんどくさいことが多くて困る。処方が変わって新しい薬を飲むときは少し緊張する。特に新しい睡眠導入剤は前後不覚になってコケたり夜間にトイレの場所が分からず部屋の中をさまよったりした経験があるので慎重になる。またアルコールや他の一般的な風邪薬・頭痛薬等を同時に飲むのも本来は避けた方がよいはずなんだが、酒を飲みたい気分の日はあるし飲み会に出る機会も(以前より減らしたとは言え)あるし、どんなに気をつけていても風邪は引くし頭痛も起こるので、そういうときは数日後に干からびた姿が発見されたらそれまでと覚悟を決めてそれぞれの薬を鼻をつまんで飲むことはある。

上記のような生活を今まで続けてきてぶっちゃけ大量の処方薬だけで中毒になるんじゃないかと思うこともあるが、医師の処方に従って症状に合わせて減薬していけば後遺症はそれほど出ないらしい。処方薬を変えた際の極端な言動の変化も以前ほどではなくなったので、身体が薬に慣れたということはあるのかもしれないが。経験的に言っても神経系やメンタル系の薬物治療は安定さえしてしまえば処方薬の量は減らせるわけで、他の慢性疾患の治療…定期的な入院や手術を含む…を考えれば副作用も目立たず確実にマシな部類に入る。実際、こんな文章を書けるほど自分自身の状態に自覚的になれてきたのが快方に向かっている証拠だと思う。少なくともこの数年間は精神的にも身体的にもそんな気になれなかった。目の前の錠剤の山を見てもずいぶん落ち着いたもんである。

余談ながら他の病気、特に生命に関わる重篤な疾患で先進医療の外科・放射線・薬物等による治療を拒否して俗に言う民間療法を選択する方がいらっしゃるようだが、それは(ワタシが一時期勝手に断薬したように)個人の判断なので外野からとやかく言う性質のものではないと考えている。スティーブ・ジョブズに早期の手術を受けさせることが誰もできなかったように、最終的には本人の意思によるものなので誰も責められないであろう。仮に選んだ療法が詐欺的であったとしても、余命が少々短くなるだけである。ただし、これだけは自分自身の経験として言っておく。現代医学の水準を馬鹿にしてはいけない。少しでも長く生き残りたければ数年前に常識と言われていたようなモノの見方は捨て去って、実績があり信頼もできる医師の所見を素直に聞くべきである。それともうひとつ。健康診断・人間ドックは定期的に受けること。早世した方を悼むなら、あなたにはその義務があると考えてよい。自覚症状がない状態が最も恐ろしいのだから。

2015/04/08

ローガンデビュー?

event_note
先日のこと。外出先で何気なくiPhoneを眺めたらいつもの距離だと文字がはっきり見えないのに気づく。とりあえずメガネを外してみると普通に読める。顔からiPhoneを遠ざけると文字のピントが合う。そういえばこのところ部屋ではメガネを外して過ごしていることが多かったなと考えて、ついに来たかと思い至った。

年齢を重ねるごとに手元にピントが合わなくなってモノがよく見えなくなることを俗に老眼と言う。視力が良すぎて近場のものが見づらい遠視とは違い加齢による衰えなので、近視や乱視でも老眼になるケースは多く、そのための2重焦点レンズも一般的に販売されている。

ワタシはかなり強い近視+左右で不揃いの乱視なので特にクルマ・バイクの運転を考慮して少し強めの度数のメガネをかけていたが、最近はメガネを外して過ごす時間が多いのに加えて部屋を片付けた際に出てきた古くて度数の弱いメガネを日常用として使うようになったのも影響したのかもしれない。幸いにして簡単なPC作業はiPhoneとiPadで代用できるのですぐに困ることはないが、このままだといずれ新聞や雑誌やモニタなどを顔から遠ざけて読むようになって、遂には2重焦点レンズのお世話にならんといけなくなるだろう。レーシック的外科療法は一時期考えたけどやはりイマイチ信用できず…。

ともあれまだリカバリー可能な範囲に感じるので、ブルーベリーなどつまみながら目の周囲をマッサージして蒸しタオルなどあてて眼精疲労を取って様子を見ることにする。

デジアイ老眼予防版って出してくれないかしら。