最終回放映終了から何週間も経ったにも関わらず録画を繰り返し見て、悩みまくった末にBlu-ray1巻と2巻を購入して、初回特典のあれこれを眺める毎日。まるで麗奈の演奏にアテられた久美子みたいだと自分で呆れるくらい、この作品にハマってしまった。あらためて書いておくが、録画して放ったらかしにしてあったのをまとめて見たのが5月下旬〜6月上旬なので、まあ何というかすっかり罠に落ちた気分である。
さて今回もいつものように自分でも捉えどころのない脳内に貯まってしまった妄想を吐き出していく。ネタは演出的なものについてつれづれと。ああ、一応断り書きしておくと、このブログはあらゆる記事がワタシの文章執筆トレーニングを兼ねたひとりごとのアウトプットに近く文責はワタシにありますが内容はほとんど出まかせ無責任ですので念のため(笑)。
では本題。この作品の原作小説を最初に読んだとき、高校の吹奏楽部というメインモチーフと作者の年齢、ライトノベル全盛の時代などを考えると、ずいぶんとオーソドックスで落ち着いた文章だなと思った。この作者の実力ならばいくらでもライトにできたはずなのに、意識してそうしなかったとすら思う。
アニメ版は原作小説の雰囲気を壊すことなく「盛るところを盛った」というのは、以前に書いた。これは別にこの作品に特有なものではなく、いわゆる「原作もの」には常につきまとう話である。小説はもちろんマンガ・ゲームetc.の原作をアニメ化するとき、制作側は描写されていないものを描き動いていないものを動かす必要がある。そうしないと単純に話が持たないからだ。3ヶ月≒1クール≒13話≒23 分×13=299分≒約5時間、この長さの映画が長編(それもかなりの長さ)、あるいはシリーズものとして分類されることを考えてほしい。
実際に「盛る」すなわち「原作の話の間を埋める」作業をしなければいけないアニメの制作側は、原作のロケーションや小道具、キャラクター、セリフ、演技、その他の全てに手を入れる権限を持つ。どんどん話を膨らませ、背景を織り込み、果ては主役の設定自体を変えることすら厭わない。これをどこまで許容するかは好みによりけりだろうが、やり過ぎると原作ファンから批判されることが多いのは確かである(例えば今やってる某ノートのドラマ等)。まあともかく、こういった仕事はたいていの場合、プロデューサーや演出、脚本などと呼ばれる方々が担当する。
「ユーフォ」は幸いなことに(?)、原作小説をかなり忠実にアニメ化しているように見える。しかし、原作小説から大きくはみ出した要素、例えば(以前指摘したが)一見モブキャラに思える吹奏楽部員ひとりひとりに設定が存在するとか、
宇治市とその周辺の街並みをかなり具体的に用いているとか、もっと細かくネタバレ上等で言うと、音楽室に設置してある
NS-1000Mっぽいスピーカーとか3年の部員の連帯感とかあがた祭で久美子と麗奈が大吉山へ登る際の一連の妙に生々しいやりとりとか楽器を持ってって演奏するとかそもそもふたりのあいだに漂うただならぬ空気とか…は、はっきり言ってかなり盛っている。序盤に多く見られる緩くデフォルメされたコメディタッチの描写も、考えてみれば原作小説にはほとんど見られないものだ。
上記で羅列したもののうち特に最後の方、いわゆる「百合」と呼ばれる耽美的な雰囲気やほのぼのとした笑いは、原作小説のメインモチーフである「高校の吹奏楽部員の成長物語」へ「時代に合わせたライトな演出」として「過剰に」肉付けされている。作画や声優陣の演技、劇伴などアニメ的な構造物を抜いてここだけを見ると、実はかなり好みの分かれる強引な作りと言えるかもしれない。なにせ、根性もの+日常系(だいたい第7話まで)→耽美(第8話以降)→熱血もの(オーディション以降)という急カーブを1クール全13話のなかで見せられたわけなので。途中で視聴を止めた人は、原作小説が強くまとう成長物語ゆえの根性・熱血ものっぽさを察知してツラくなったのが理由のひとつのように思う(特に吹奏楽部出身者)。また、原作小説のあの端正な筆致からこのような「百合っぽさ」が描かれるとは予測しておらず、面食らった人がいるかもしれない。こういう変化球こそ、5時間の長編映画ではなくシリーズもののTVアニメを視聴する醍醐味ではあるのだが。