For short, " I. M. G. D. "
Established : 1997/12/07

Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2015/08/05

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(11:宇治へ行ってちょっと考えた)

劇中で麗奈が18きっぷでどこかへ行きたくなる衝動を語っていたが、似たような気分にあてられて、7月の終わりに京都府宇治市へ行ってきた。今回は、いわゆる「聖地巡礼」とも呼ばれるアニメ等の舞台となった土地での見聞とそのつれづれを、結局長くなってしまった連載のまとめとしてお送りしたい。なお撮って出しの写真はこちらのツイート群をご覧ください(iPhone 5Sのレンズが汚れたまま撮ったのもあるので最後の方ほど見苦しくて恐縮だが)。


いきなり白状すると、長いことアニメファンを自認してきたワタシが「聖地」へ赴くのは初めてだったりする。近年は特に「ガルパン」での大洗町が有名になったが、その気になれば行ける距離にある場所が多数あったにも関わらず、そこまでしようと思わなかったのが正直なところだった。

じゃあなぜ今になってということなんだが、「ユーフォ」における宇治市の背景描写があまりにも「執拗」なので、そのディテールを直接この目で確認したくなったのがひとつ、そして、このアニメがだいたい2015年4月から8月くらいという現実の時間軸に沿って進行していくので、その時期のうちにリアルの宇治へ行けば、劇中で描かれているものごとの理解が深まるのではないかという当てずっぽうな期待がもうひとつ。で、徒歩で移動するのに都合がよい晴天が予想でき、かつ、昼が長く写真を撮れる時間が多くなる季節、そして「屋外で活動してたらうっかり鼻血が出る暑さ」を体験できそうなタイミングを選んだら、梅雨明け後の7月下旬が狙い目という結論になった。原作小説も考慮して、あがた祭や花火大会といった地元のイベントに合わせる手も考えたのだけど。

旅程は、リソース節約のため首都圏から京都への長距離移動に夜行バスを使い、京都市内から宇治、宇治市内の移動はせっかくなので京阪電車の1日フリーきっぷを利用した。夜行バスに関しては道中で充分に眠れるなら快適という経験則に沿っているが、正直あまりオススメしない。逆に、上記の1日フリーきっぷは劇中の各ロケーションを見て回るなら必須だと思った。主人公の久美子をはじめとした登場人物が京阪電車を使う場面がたくさん出てくるので電車移動は合理的ではあるんだが、他の「聖地」がどうかはともかく宇治市内はクルマでは小回りが効かず自転車でもちょっと距離と高低差があって苦労しそうな気がする。あのへんを楽器持って自転車通学するなんて吹奏楽部員は相当な健脚揃いだよなあなんて後で何となく思ったりした。


現地へ着いてから思い出したのだが、宇治は本来、自然があふれ、歴史やお茶や鵜飼いといった観光資源に恵まれた街である。と同時に、宇治市は京阪都市圏のベッドタウンとして機能しているらしい。「ユーフォ」では前者にはほとんど脚光が当てられず、どちらかというと後者の、ありふれた日常生活空間としての宇治が描かれる。が、そのディテールが異様に細かいのは繰り返し述べてきた通り。その理由を考えたが、最終的には「京都アニメーションがある街だから」という他愛のないものに落ち着いた。街を歩いていても「アニメーションでまちおこし」的な看板が立ってるわけでもなく、道ゆく人たちがそれを意識しているわけでもなく、普通に地元産業のひとつとして京アニがある、そんなふうに感じた。そして、京アニの中の人が今まさに生活しているそのような街を自らが手がけるアニメの舞台に据えたら、そりゃあ解像度は上がりまくるけど見せたくないものは描かなかったりボカしたりするでしょ、とも思った。あの背景描写の細かさと被写界深度の浅さは演出手法のひとつではあるが、きっと一種のプライドのあらわれと照れ隠しでもあるのだろう。


さてそのディテールは、劇中その他の情報を参考にしながら宇治の街をくまなく歩くことで本当に多くの風景として発見できた。帰宅してから録画を見直して「ここ通った!」と気づく場所も多く、事前に下調べをあまりしなかったことが逆にクエストっぽい感覚を覚えさせてくれたことはうれしい誤算だった(大きな鳥が飛んでるだけでOPで見たと感激するレベル)。ただ、夏の盛りにいい歳こいたおっさんが汗だくで街をとぼとぼと放浪している構図はいかにも怪しく、そういう意味では地元民に偽装するか観光と割り切ってしっかり準備してピンポイントで行ったほうがよいようにも思う。とにかく「聖地」と呼ぶには日常的すぎる場所が劇中のロケーションとして広範囲に使われており、そこをわざわざ見に行くのは時間もかかるし地元の方々からすれば変としか言いようがないからである(まあ後者は作品の認知度が上がれば自然と解消するだろうが)。それと宇治は山坂が多くて歩くと想像以上に疲れるのは強調しておきたい。例えば大吉山は市街地からびっくりするくらい身近な場所にあるけど、いざ登ってみると長くて急なつづれ折りで足を取られそうになる。誰かさんみたいにハイヒール的な靴では確かに怪我しそうなのは間違いないと釘を刺しておこう。

街を巡る道中の昼下がり、半分ぼーっとしながら郊外を歩いていると、部活か何かから帰る途中らしい制服の高校生集団とすれ違った。現実とアニメが割とごっちゃになって現実の彼ら彼女たちがアニメに引っ張られて妙に子供っぽく見えたが、暑さと疲労で自分の体力もついに尽きたか、それとも夢見心地のままこの街に埋もれてしまうか、こういうとき久美子なら死んでしまってもいいと表現するかもな、などとぼんやり思った。

宇治にはまた行くことにする。見ていないところ、知りたいことがまだまだたくさんあるので。

2015/08/04

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(10:色彩設計について)

言いたいことはだいたい書いてしまったのでこのシリーズも終わりに近づいてきた。先日勢い余って宇治まで行ってあちこち歩き回ってきたけど、その感想は次回にまとめてそれで一段落としよう。さて今回は色彩設計、平たく言うと色づかいの話。

アニメ作品がなぜアニメと呼ばれるのかというのは作品にアニメ的な要素が含まれるからだが、そのひとつに独特あるいは突飛な色彩が挙げられるのは異論のないところだと思う。アニメ作品内では、特に髪と瞳で顕著だが、日本人というか人類ばなれした色をまとったキャラが闊歩している。一方、リアルでも髪を染めたりカラーコンタクトレンズを使えば明るいピンクや緑などにすることは可能であるが、じゃあそれで日常生活を送れるかというとなかなかに難しいのは、コスプレを楽しむ人たちの多くが地毛ではなくウィッグを常用している事実からも伺える(レイヤーさんは様々なキャラに扮するのでウィッグの方が都合がいいというのもありそうだけど)。まあ要するにアニメ的ファンタジーをそれと分からせる仕掛けのひとつとして、多くの作品で様々な色彩が意図的に用いられている。

その色彩だが、最近のアニメ制作では色彩設計といった名目の担当者が置かれることが当たり前になった。実際の作業風景を知らないので想像だけで言うしかないのだが、この仕事は昔から受け継がれている動画ごと・場面ごとの色指定作業に加えて、作品を通した色調の統一も行っているんじゃないかと想像している。各社ともデジタル作画に移行して久しいが、塗料の種類や調合比率にとらわれずRGB(場合によってはCMYKかも知れないが)でダイレクトに指定できるぶん、あらかじめ全体を見渡してその値を決めておかなくては作品がとっ散らかってしまうのは目に見えている。逆に言えば、色彩設計はデジタル環境だからこそ注目度・重要度が上がった職能と言えるかもしれない。なにごともチューニングは大切なのだ。

「ユーフォ」のスタッフに色彩設計は特にクレジットされていないと記憶しているが(おそらく美術さんが兼任している?)、いまさら指摘するまでもなく慎重に色を選んでいるのが分かる。まず髪の色だが、吹奏楽部員全員を一望できるカットというのが実は少ない(音楽室だと画角の関係で映らない生徒がいる)ので、ネタバレではあるが最終回のEDから引用してみた。黒が青と緑に、茶が赤と黄(金)方向に幅を持たせているのが分かるが、総じて地味で抑え気味な色調で統一されている。リアリティで言えばアニメと実写の中間から少しアニメ寄りくらいだろうか。まあピンクの髪のキャラは今後2期があったとしても出てこなさそうである。


そして瞳の塗りを見ると、キャラごとにそれぞれ明確かつ細かく、ビビッドな色づかいをいとわずに指定されている。場面ごとにあまり色が変わったりしないところをみると、瞳はヘアアクセサリや持っている小物などとともに演出装置というよりキャラの性格づけのための場所ということのようだ。吹奏楽部員その他の大量の登場人物全てに個別の指定を行うその「執拗さ」には驚き半分呆れ半分、指定する方も塗る方もよく混乱しないものである…このあたりは「アニメは工業製品である」というワタシの持論に繋がる話でもあるのだが、今回はこれ以上触れない。とにかく、「ユーフォ」を全体として眺めた場合、「アニメ的な色彩」は主にキャラの瞳で表現されていると考えてよい。

個人的には、この「全体的にはリアル志向で必然的に地味にせざるを得ないなかでキャラの個性をどうデザインするか」をほんのわずかな色指定で表現していく仕事ぶりに、実は強くシンパシーを感じている。言われなきゃ分からない職人技みたいなものと表現すれば分かってもらえるだろうか。こういうきめ細かさの積み重ねが作品の密度を高めているのは言うまでもないが、2015年のTVアニメ大量生産時代においてこの職人技の塊みたいな作品が実際にTVシリーズとして放映されるところまで行ってしまったという「事件」は、もっと知られて然るべきだとつくづく思う。