この労作…酒井氏のライフワークと呼んで差し支えないであろう、硫黄島(日本では現在「いおうとう」と呼ぶのが正式らしい)への長年の想いというか執念の結晶を語る前に、この本に出会うまでの話を軽くしておきたい。
まず発端は数年前だったか、偶然、酒井氏の硫黄島に関するツイートが目に留まった。クリントイーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を何度か見たくらいの程度しか知識が無かったワタシだが、酒井氏が日々発するツイートは短いながらも何か鋭いものを感じて、次第に興味を惹かれるようになった。
そのうち酒井氏が北海道で新聞記者をやっていることを知った(ご本人は上記のライフワークに取り組むスタンスとして「旧聞記者」を自称しているが、「硫黄島上陸」の読後だと言い得て妙だとつくづく思う)。北海道で新聞記者と言われれば当然、北海道新聞所属だろうというのは察しがついたが、「あの道新の紙面」からは明らかに一線を画した、「戦争のリアル」に向き合う姿勢が、とにかく異質・異分子的に思えた。このことが今考えると酒井氏の活動に注意を向ける決定打だったように感じる。
「戦争のリアル」とは何か。
現在ウクライナがロシアに侵略戦争を仕掛けられていて、その様子は日々我々があらゆるメディアで目にしている通りだが、「硫黄島上陸」には、そういったメディアで伝えられる元になるもの…誰かが体験した、その目で見て耳で聞いて現地を歩いて公文書や参考文献の山にあたって確かめた事実、が記されていた。
硫黄島で玉砕しながら行方知れず現地のどこかに埋まっている1万人の兵士たちの遺骨が、現地でいまだ置き去りにされているのはなぜか。
「硫黄島上陸」には、これまで謎やミステリーとされていた部分に明確な論拠が与えられ、事実と呼んで差し支えない情報が書かれている。南の島が運命に弄ばれ、結果として1万人の遺骨が風化しつつあるのが硫黄島であることが理解できる。つまりこれもまた、過去の日本、ワタシの父母が体験した数十年前の「戦争のリアル」の姿の一部であると断言してよいだろう。
さてこの「硫黄島上陸」だが、論文でもなければ時系列的に事実のみを追いかけたルポルタージュでもない、やや不思議な感触のノンフィクションである。その理由は、なぜ酒井氏が硫黄島に関する取材(そのほとんどは本来の仕事とは関係のない時間で行われた)に半生を賭しているのか、また、関係の深い方々へのインタビューなど、様々な内容を盛り込んでいるからだが、何といっても冒頭から始まりその後も何度か挟まる「遺骨収集団の一員として実際に硫黄島へ行き土を掘った」体験を記した章が臨場感にあふれ、まるで映画のシナリオを読んでいるように思わせるほどだからである。
そのなかで浮き彫りになるのは、酒井氏が関わりインタビューする方々との巡り合わせの妙というか運命的な力のようなものである。もちろん新聞記者という本業と同様、事前に情報を集め十分な準備をしたうえで体当たり的に場へ望むといったことは当然行っているとして、それでも例えば「硫黄島玉砕の数ヶ月前に引き揚げた学徒兵」の方が亡くなる直前にインタビューができたこと自体が、あの戦争から何十年も経っていうことを考えれば、貴重以上の価値と言わざるを得ないだろう。「硫黄島上陸」には、この学徒兵の方をはじめ、あの島との因縁を抱えた、酒井氏と志を同じくし精力的に活動されていた道内在住の方(残念ながら数年前に亡くなられたそうである)、また、政治家から在野の研究者まで、様々な方々が現れる。そういった皆さんの不断の想いと努力に光を当てたことも、この本の価値を高めている。
さて「硫黄島上陸」はやや不思議な感触のノンフィクションであると書いたが、中盤になると「映画のシナリオのような臨場感」から「歴史ミステリーを読んでいるような」急展開を見せる(もちろんこれは本書のテーマに沿うもので奇を衒ったものではなく、あくまでワタシがそういう印象を受けたということ)。そこには端的に「他の外国とは違い日本国内のしかも東京都の島なのに遺骨収集が遅々として進まないのは何故か」という疑問と、山のような公文書を紐解いた末に辿り着いたその回答…政府の答弁を引き出したわけではないから現時点では正解ではないが…が書かれている。
占領下の日本で硫黄島はアメリカの戦略的な拠点として大規模に整備され、そのなかには当然、核兵器に関わるものが存在していた。
日本に硫黄島が返還された後も、冷戦下では軍地拠点としての価値があるため、アメリカとの曖昧な約束のもと遺骨収集より軍事利用が優先された。
硫黄島は現在自衛隊が管理しているが、さまざまな思惑があり、また、戦後数十年を経て我々の記憶と遺骨そのものが風化しつつある現状、収集が迅速化される見込みは薄い。
東京駐在から道内への異動直前、酒井氏は硫黄島の遺骨収集団として何度目かの上陸を果たし、そのあとすぐ天皇陛下へ硫黄島にまつわるご質問をなされたところで、この本は終わる。だがワタシ含めこの本の読者は、酒井氏がこのまま筆を置くことはなく、再び硫黄島へ向かい土を掘り、当時を知る誰かに会い、新たな資料を発見するであろうことを確信する。なぜならそこに骨がある限り、硫黄島での戦争は終わっておらず、それが我々の「戦争のリアル」だからである。
たった数年前に亡くなってしまった学徒兵の方のインタビューには、引き上げる最後の日の様子が記されていた。極限に近い状況を強いられながら島に残り最終的にはほとんどが玉砕した仲間の兵隊たちが、学徒兵の方を見送るときに最後までみんな揃って笑顔だった、と。「なぜか頭蓋骨がない」遺骨の元を辿れば、時代が違えど我々と同じように生きていた普通の人たちであったこと、それもまた「戦争のリアル」そのものである。
(とある遺骨収集団の方が現地で明るく振る舞う理由をリスペクトしてこの曲を捧げます)