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2021/11/02

めんどくさいアニメおじさんが宝塚シティハンターを見て圧倒された話

表題の通りです。グゥの音も出ないとはまさにこのこと。

これだけを書くならTwitterで間に合ってしまうので、宝塚歌劇の雪組公演 『CITY HUNTER』『Fire Fever!』(以下宝塚CHと呼称)の何のどこにワタシは圧倒されたのかについて、思うところを徒然と書き残してみることにする。なお当方は宝塚歌劇どころか歌劇・演劇・舞台等そのものに全くのど素人で観劇経験は生まれてこのかた数回なので、間抜けなことや誤り、ファンの皆さんに失礼なことを書いてしまうかもしれません。あらかじめお詫びします。




Twitterで宝塚CHの話題が妙に増えてきたと感じていた10月某日、「宝塚CHを見に行かないか」というDMが届いた。こういう「自分からは触れる機会がほとんどない無いジャンルの有識者から届く」お誘いは絶好のチャンスなので、ありがたくお受けしてスケジュールを調整し、日比谷の宝塚劇場へ向かうことにした。

その宝塚劇場、何の事はない、何度か通ったTOHOシネマズ日比谷のビルにあって、というより、その建物のメインは宝塚劇場だったけど今まで全く気づかずにいたという体たらく。もちろん今回は映画ではなく生の歌劇を見るので、隣の宝塚劇場エントランスに向かったんだが…

何か独特な空気がエントランス前から漂ってきて、その時点でもう気圧されてしまった。
宝塚歌劇を取り巻く独特な文化はど素人のワタシでも伝え聞いて知ったつもりではいたけど、百聞は一見にしかずというのは正にこれというか、うかつに近寄れない、普通の映画やコンサートへ行くのとは別の大きな力学が作用してるのが感じられて、じろじろ見てはいけないという一種の自制心が働いた。そう、ワタシはあくまでも一見さんのど素人なのだ、それを忘れないようにしなくては。何度もその言葉を暗唱して、ほぼ女性ばかりの皆さんに混じってエントランスをくぐった。

はじめて入った宝塚劇場はエントランス内から劇場内部まで、それ自体がひとつの舞台のようだった。
ワタシは建築をほんのちょっと勉強した程度なので偉そうなことは言えないが、目の前にある赤じゅうたん敷きの大きな階段、ぐるっと回り込むエスカレーター、そして布を纏わせて古代ギリシャあたりのそれっぽい様式を再現した柱が「お客様をお迎えする装置」として極めて印象的で…日本には新旧の映画館があって、その元を辿れば大小の舞台を備えた劇場に辿り着くわけだけど、伝統とはこういうふうに空間として表現されるのかと目を瞠った。

さて開演前、おもむろに座席に腰をかけて良い席を確保していただけたことに感謝しながらステージを眺めて…え?近い?オーケストラピットがある?せり出しというのか分からんけどオーケストラピットより手前にアーチ状のステージがさらにある?という、目の前に広がる舞台の仕掛けで興奮というより混乱したまま開演を迎えた。
最初の演目は(実はこれだけの公演だと思ってた)『CITY HUNTER』。もちろんあのマンガが原作で、というよりマンガ全体をモチーフにして90分くらいの舞台に落とし込んだ形になるんだろうか、気がついたら終わってた。話が整理されていて分かりやすいというのもあるんだが、場面転換が流れるようで、セットや緞帳、吊り看板、その他諸々の舞台装置が芝居と息を合わせるように次々と切れ目なく切り替わっていって、映画にカット割りという概念があるのは元々こういうのを舞台の上で行なっていたからなのかと認識を改めた。

そして音楽。このご時世ゆえオーケストラピットでの生演奏を再開させたのは最近だと後で調べた。指揮者(もしかしたら何かの楽器演奏も兼ねていた?)の腕がときどき上に跳ねるのが見える。銃声などの効果音も出しているので全てが生の音ではないけれど、聴こえてくるのはステージで歌い踊る皆さんの声と生演奏が一体となった音楽の塊。この響きの良さも専用劇場ならではなのかもと思った。

もちろんワタシが書くのもおこがましいほど、舞台の上に立つ皆さんはどの方も光り輝いていて…主役の方はもちろん、ちょっとした通行人役の方々でさえ、手足に細やかな神経が通っているのが分かる。宝塚の学校が超難関であるのは世間の常識だけども、それを突破したということは選ばれた人なんだなといいうのを痛感させられもした。それと個人的に、あの時代のファッションをきちんと解釈した衣装をデザインして作った方々に、大喝采を送りたい。

唯一失敗したと思ったのは、オペラグラスを持っていかなかったこと。これだけの豊かな体験がその場限りの1回きりである(同じ演目でも完全に再現できない)以上、気になる人の顔をひとりでも多く覚えたい、許される限りの様々な角度で一瞬一瞬を目に焼きつけておきたい、このメガネにズームレンズがついていればと、何度後悔したことか。なので、こういった公演に限らず今後ライブパフォーマンスを見るときは、カバンの中にオペラグラスを忍ばせておこう。使わないならそれで済むわけだし。



ちょっと話が逸れた。35分間の休憩時間と聞いて最初は長過ぎなのではと思ったが、『CITY HUNTER』の熱量で舞い上がった気分をクールダウンさせるには、それくらいの時間が必要だと全て見終わった後で思い知った。余談だがトイレに行って宝塚ならではのかっこいいピクトグラムに目がいって写真を撮ったら、偶然にも神谷明御大が写り込んでたのはラッキーの一言です。


さて再び着席。目の前の風景が既に違っている。
後半の演目は『Fire Fever!』。オリジナルの歌劇というより、その要素を分解して歌と踊りをぶっ続けで観客に浴びせかけると表現したほうが適切だろうか。歌詞や展開があるので何となくストーリーは伝わってくるけど、舞台全体から伝わってくる情報量がとにかく多大なうえに、『CITY HUNTER』ではいなせな兄ちゃんだったり真面目だけど短気なパートナーの女性だったりいかつい元傭兵だったり街の占い師だったり腰の曲がったご近所の老婆だったりした人が、本来の姿…眉目秀麗な女性の衣装をまとって、最初から終わりまで歌って踊って駆け回る姿に、そして、舞台の上に立っている約70名の皆さんが、あれだけ激しい運動をして一糸乱れぬどころか息を切らしてるそぶりさえ見えないのに、ただただ呆気にとられた。ワタシの目からすると、極まった舞台俳優はトップアスリートと見分けがつかない。どこまで努力したらこんな境地に至れるのか、これを1日2回やって身体のメンテナンスが間に合うのか、つい要らぬ心配をしてしまったが、舞台からはひたすら「今日このときを心に刻みつけて思う存分楽しんでいってくださいね」という呼びかけが、歌と踊りという強力なボディランゲージとして聴こえてくる。あの巨大な階段と羽根飾りの衣装をつけた方々が現れ、皆さんが舞台の袖いっぱいに広がって一気にフィナーレ。

"Fever"、つまり熱病のような歌劇がこうして幕を閉じた。



演劇やコンサート、それに類する舞台芸術は、その場限りの1回きりの体験であって、同じ演目でも完全に同一なものは再現できないことは先に書いた。「ライブ」と総称されるそれは、舞台に立つ皆さんと、多数のスタッフの方々、そして観客の皆さんが生きて、その手足その目や耳や口で演じ感じるからこそ成立する。それは数週間前の幕張で得た感慨と通底していて、こんな状況を皆で等しく味わった今だからこそ、格別の意味がある。そこに宝塚百年の伝統を積み重ねたとき、今まで聞きかじった知識だけで満足していた自分を恥じ入るばかりである。



何ごとも実際に見て聞いて味わってみないと分からない。百聞は一見にしかず。この言葉の意味を噛み締めながら、あのきらびやかな舞台を何度でも思い出す。そして、分からないことがあれば、また行って確かめる。あの舞台があって、演じる誰かがいて、ワタシが生きている限り、それはいつでも可能なことなのだから。



というわけで宝塚CHはど素人のオタクにも優しい舞台でした。叶うなら今度はオーソドックスで伝統的な演目を見てみたいです。独特の魅力というより美しさでコーティングされた魔力を、もう少し濃く味わってみたいので。
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