それを受けて我らが「DAIM」のボス・しまさんのツイートボカロ批評、VOCALO CRITIQUE発行サークル 白色手帖は年内を以て活動休止致します。 活動休止と今後の頒布予定について|白色手帖 https://t.co/GJNmndkW2W— ボカロ批評 (@Vocalo_Hihyo) 2015, 11月 8
ボカロ批評、VOCALO CRITIQUE発行サークル 白色手帖は年内を以て活動休止致します。 活動休止と今後の頒布予定について|白色手帖 https://t.co/csal5NPsG2— 中村屋与太郎 (@NakamuraYa_Y) 2015, 11月 8
中村屋与太郎氏率いる白色手帖は、「VOCALO CRITIQUE」とそれに続く「ボカロ批評」の発行によって、同人活動におけるボカロ批評界(って便宜的に呼ぶけど実体がどういうものかはここでは定義しない)のフロントランナーであり続けた。まずはそのバイタリティと功績に敬意を示したいと思う。もしかして、ボカロ関係の批評サークルってひとつだけになっちゃったのか。— しま@ボーマス33 ア22 (@shima_10shi) 2015, 11月 8
一方、しまさんが指摘する件だが、我々「DAIM」は元々ボカロだけではなくネット上の同人音楽を広く対象として個別にレビューするという方針を取っているため、厳密な意味ではボカロの批評(だけ)を目的にしたサークルではない。ボカロが同人音楽のなかでも比較的アクティブな話題であり、また、ボカロから同人音楽に入ったためボカロと親和性の高い(=ボカロ好きな)レビュアーが集まり、その結果としてボカロ曲を多く扱っているというのが、「DAIM」がボカロ寄りに見える理由である。
ともかく、同人活動におけるアクティブなボカロ系批評サークルは、我々「DAIM」がいるだけになってしまったようである(以前は「Vocapedia」や「Vocalo Imagine」といったユニークな本で賑わっていたものだが。VOCA'ONは元気だろうか)。とはいえ(すっかり何も書かなくなってしまったワタシが言うのも何だが)「DAIM」も開始当初のスタイルから変化してwebマガジン+不定期刊行の冊子という活動形態に落ち着いており、何より上記のように音楽以外の話題の受け皿とはならないため、白色手帖が広く扱ってきたような「ボカロ現象」的なものについて何か発表するためには、個人でなんとかする以外の道がなくなってしまったようにも見える。
「ボカロ現象」的なものへの言及というのは、例えばSFマガジンやユリイカで特集された記事や、また現在だと、ミクダヨー展や金沢21世紀美術館で展示されているGhost in the Cell:細胞の中の幽霊等について語ることを想像してもらうと分かりやすい。電子楽器の一種であるボカロによってアマチュアによる音楽作品が爆発的に発表され、同時に、電子楽器という枠からはみ出して映像や芸術、文学、もっと大きく文化や経済さまざまな方面に大きな影響を及ぼしたこと、それらについてまとめて発表するのが別に学者や専任の記者・ライターの特権ではないのは、白色手帖を筆頭としたこれまでの同人的ボカロ批評活動が示してきた通りである。一方、「DAIM」が当初ネットを主体に活動していたことからもお分かりのように、その論文めいた何かを必ず本という形態で頒布しなくてはいけないわけでもない。現状では、思い立ったときに然るべきサービスを使ってブログを書き公開してしまうのが最も手っ取り早いだろう。
では実際のところどうなのか。積極的に探したわけではないが、そういったボカロ批評系ブログはあまりバズらずニュースサイトの記事がTLに流れてくるケースの方がずっと多いように見える。この「思い立ったらすぐ書いて発表できる」にも関わらず「書かれた結果」を目にすることはあまり無い状況を逆に考えると、思い立つ人やそのモチベーションが減った、ということも言えてしまう(「すぐ思い立つけど書くことに対して何故かものすごく腰が重くて結局何も書かない人」というのは「DAIM」メンバーに限らずたくさん見たけど)。これは、ある側面では事実だと思う。あれだけ発行されていたメジャー出版社の各種雑誌がほとんど無くなってしまったのが、その傍証である。しかし、別の側面…我々おっさんではない、今まさに熱狂している層(その多くは小中学生らしいが)を見渡してみると、ボカロ小説が読まれ、絵が描かれ、キャラクターとして愛されている、らしい。その彼ら彼女たちの中には、ボカロに対する新しい価値観が育まれているはずなのだ。こういう現場を取材するとそれだけでひとつ記事ができそうだから誰かやりませんか。
閑話休題。ここまで書いてやっと、ボカロ批評界は今がある種の世代交代の時期なんじゃないかという結論とも妄想ともつかないところに達した。約8年にわたる「ボカロ現象」がひとまとまりの歴史として認知され、新しい切り口の批評がそろそろ出始めるころなんじゃなかろうか。それを納める容れものはきっといつか然るべきかたちで現れるだろう、と、白いページの後ろに書いてひとまず閉じることにする。
…中村屋さん、今度一杯やりましょう。