For short, " I. M. G. D. "
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2010/07/27

完成させるか、発展させるか

昨日から今朝にかけて発せられたこの発言と、それにまつわる喧々諤々のツイートを一通り眺めて、CGMの概念につながる重大な命題を含む問題だということに思い至った。

ボーカロイド楽曲を中心とした文化は、それに触発されたイラストレーターやPV制作者など様々なユーザー自身の手によって広がり、共有され、発展してきた。これをCGMという。この担い手には、もちろん歌い手も含まれる。ではCGMが目指すところは何であろうか?問題の引き金となった発言を引用すると「ボカロ曲は人が歌って初めて完成」するということだが、CGMは、作品を「完成」させることを目的に行われていることなのだろうか?ここに大きな認識の差があるように思う。「〇〇してみた」というCGMの連なりは、例えば連歌のように、一体感を保ちつつ、作品を理解し展開させ変化させることが重要なところなのではないか?「最初にもたらされたコンテンツをリスペクトしつつ発展させる」という心構えが必要なのではないか?

いったん完成した絵に作者自身が後で手を入れることは、よくあることである。それは成長した作者の感覚がそうさせているからである。だが誰かが描いている絵に他人が途中で勝手に筆を入れて「これで完成した!」と宣言したら、それこそ袋叩きに合うだろう。逆に、最初から一緒に絵を描いていけば、ひとりで描いていたときには予想すらできなかった、もっと面白い絵が産み出されるしれない。CGMとは、そういうことである。
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