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Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2015/07/27

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(9:踊るアイドルアニメと舞う吹奏楽部員)

録画を飽きずに繰り返し見てるのでまだ書くよ。

最終回解読を試みたときに、「三日月の舞」について少々触れた。この曲は劇中では堀川奈美恵という作曲家の作とされているが実は架空の人物で、実際には音楽担当の松田彬人氏による書き下ろしである。今回はこの曲にまつわるあれこれを考えてみたい。

TVアニメの劇中やOP/EDで、登場人物が一斉に精度の高いダンスを踊ったり楽器をかき鳴らして歌ったりする演出は、「ハルヒ」や「らき☆すた」、「けいおん!」といった一連の京アニ作品ではおなじみのものである。そのうち踊ることと歌うことは非常に目を惹くこともあって他社の作品でもひんぱんに用いられるようになり、それ自体が作品の核になる現在のアイドルアニメ(アイマスとかラブライブ!とかWUG!とかアイカツとかそのへん、あまり見てないけど)の隆盛に繋がったと理解している。

「ユーフォ」は高校の吹奏楽部員のドラマである。つまり基本的に演奏はするが踊らないし歌わない(踊りはサンフェスの謎ステップがあるけど今回は脇へ置く)。OP/EDでメインの4キャラはコロコロと転げ回っているけど、特に揃いのダンスを踊ってるようでもない。第4話の練習シーンでソルフェージュしたときに歌声は聞けるけど、あのシーンだけでこのアニメには歌があると断言するのは乱暴に過ぎる。では京アニは今回、「踊る」ことと「歌う」ことを放棄して「演奏する」ことだけに特化し、アイドルアニメの対極を目指したのかという疑問が生ずるのだが、「三日月の舞」とその演奏シーン(特に最終回)に着目すれば、決してそうではないことが分かる。

「三日月の舞」は聴けば聴くほど不思議な曲に思えてくる。曲調は明るく素直で時に勇ましく、特に難しいコードも使われていないようなんだが、拍子とテンポが目まぐるしく変わるので、DTMでシーケンスされたサウンドに慣れた耳にはひどく新鮮である。また、タイトル通りに音の粒がひらひらと舞い散る感じもまた、昨今の音圧競争に晒されたポップミュージックの重力から解き放たれたような軽やかさを持つ。ともかくこの曲自体によって、「踊る、舞う」といったアイドルアニメ的ボディランゲージの一要素が音楽でメタ的に表現されていると言っていいだろう。その目的のために、原作小説での自由曲や他の定番曲を使わず松田氏へ書き下ろしを依頼したのではないかとすら思う。

また、この曲を演奏しているシーン、特に最終回Bパートで顕著なのだが、そのほぼ全てで演奏者の身体が揺れ動くことに注目してほしい。楽器演奏がほとんどできないワタシの目からすると、楽器演奏者は演奏中にいつも踊っているように見える。ギターでもフルートでもバイオリンでもドラムでも何でもそうなんだが、演奏に感情が乗り表現が艶やかになるにつれて、頭や手足、体幹がゆっくりと、ときには激しく動くさまが、いつも何かの舞を想起させる。これは演奏者や楽器によって差はあるが、そういったパフォーマンスと出てくる音をひっくるめて「演奏」と呼ぶべきものなのだろう。「ユーフォ」でもそれは余すところなく描写されており、滝先生と吹奏楽部員は、あのステージで間違いなく「躍っている」。

そして「歌」についてはどうか。これはもうそれぞれの楽器から出てくる音が人間の歌声の代わりになっているとしか言いようがない。合奏と合唱は一文字違い…は単なる言葉遊びだが、近い領域にあることは確かである。最初はバラバラだったのが最終回で見事に揃った音を「歌いあげる」、その過程を見てきた者の感情をひときわ揺さぶるのも、皆で創りあげた音の力があればこそである(なお余談だが最終回の演奏の録音品質はかなり高いので、良い再生環境で聴くと新たな発見があると思います)。

それにしてもである。合奏と同期した作画だけでは飽き足らずステージ全体を映す「引き」のカットにおいてさえ各演奏者のわずかな揺れ動きを描く「執拗な」その姿勢は、狂気の沙汰寸前の迫力に満ちている。他社のプロデューサーや監督、演出が見たら「こんなところに金と手間をかけてられるか」と呆れるんじゃないかと想像したりしている。

2015/07/21

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(8:演出的なものについてあらためて考える)

最終回放映終了から何週間も経ったにも関わらず録画を繰り返し見て、悩みまくった末にBlu-ray1巻と2巻を購入して、初回特典のあれこれを眺める毎日。まるで麗奈の演奏にアテられた久美子みたいだと自分で呆れるくらい、この作品にハマってしまった。あらためて書いておくが、録画して放ったらかしにしてあったのをまとめて見たのが5月下旬〜6月上旬なので、まあ何というかすっかり罠に落ちた気分である。

さて今回もいつものように自分でも捉えどころのない脳内に貯まってしまった妄想を吐き出していく。ネタは演出的なものについてつれづれと。ああ、一応断り書きしておくと、このブログはあらゆる記事がワタシの文章執筆トレーニングを兼ねたひとりごとのアウトプットに近く文責はワタシにありますが内容はほとんど出まかせ無責任ですので念のため(笑)。

では本題。この作品の原作小説を最初に読んだとき、高校の吹奏楽部というメインモチーフと作者の年齢、ライトノベル全盛の時代などを考えると、ずいぶんとオーソドックスで落ち着いた文章だなと思った。この作者の実力ならばいくらでもライトにできたはずなのに、意識してそうしなかったとすら思う。

アニメ版は原作小説の雰囲気を壊すことなく「盛るところを盛った」というのは、以前に書いた。これは別にこの作品に特有なものではなく、いわゆる「原作もの」には常につきまとう話である。小説はもちろんマンガ・ゲームetc.の原作をアニメ化するとき、制作側は描写されていないものを描き動いていないものを動かす必要がある。そうしないと単純に話が持たないからだ。3ヶ月≒1クール≒13話≒23 分×13=299分≒約5時間、この長さの映画が長編(それもかなりの長さ)、あるいはシリーズものとして分類されることを考えてほしい。

実際に「盛る」すなわち「原作の話の間を埋める」作業をしなければいけないアニメの制作側は、原作のロケーションや小道具、キャラクター、セリフ、演技、その他の全てに手を入れる権限を持つ。どんどん話を膨らませ、背景を織り込み、果ては主役の設定自体を変えることすら厭わない。これをどこまで許容するかは好みによりけりだろうが、やり過ぎると原作ファンから批判されることが多いのは確かである(例えば今やってる某ノートのドラマ等)。まあともかく、こういった仕事はたいていの場合、プロデューサーや演出、脚本などと呼ばれる方々が担当する。

「ユーフォ」は幸いなことに(?)、原作小説をかなり忠実にアニメ化しているように見える。しかし、原作小説から大きくはみ出した要素、例えば(以前指摘したが)一見モブキャラに思える吹奏楽部員ひとりひとりに設定が存在するとか、宇治市とその周辺の街並みをかなり具体的に用いているとか、もっと細かくネタバレ上等で言うと、音楽室に設置してあるNS-1000Mっぽいスピーカーとか3年の部員の連帯感とかあがた祭で久美子と麗奈が大吉山へ登る際の一連の妙に生々しいやりとりとか楽器を持ってって演奏するとかそもそもふたりのあいだに漂うただならぬ空気とか…は、はっきり言ってかなり盛っている。序盤に多く見られる緩くデフォルメされたコメディタッチの描写も、考えてみれば原作小説にはほとんど見られないものだ。

上記で羅列したもののうち特に最後の方、いわゆる「百合」と呼ばれる耽美的な雰囲気やほのぼのとした笑いは、原作小説のメインモチーフである「高校の吹奏楽部員の成長物語」へ「時代に合わせたライトな演出」として「過剰に」肉付けされている。作画や声優陣の演技、劇伴などアニメ的な構造物を抜いてここだけを見ると、実はかなり好みの分かれる強引な作りと言えるかもしれない。なにせ、根性もの+日常系(だいたい第7話まで)→耽美(第8話以降)→熱血もの(オーディション以降)という急カーブを1クール全13話のなかで見せられたわけなので。途中で視聴を止めた人は、原作小説が強くまとう成長物語ゆえの根性・熱血ものっぽさを察知してツラくなったのが理由のひとつのように思う(特に吹奏楽部出身者)。また、原作小説のあの端正な筆致からこのような「百合っぽさ」が描かれるとは予測しておらず、面食らった人がいるかもしれない。こういう変化球こそ、5時間の長編映画ではなくシリーズもののTVアニメを視聴する醍醐味ではあるのだが。

2015/07/14

枯れゆく実家

event_note
北海道へ帰省したもののワタシのちょっとしたミスで大きく体調を崩し、あれこれ考えていた予定をかなりキャンセルして実家で寝込むこと数日。布団の上で横になって目を閉じていると学生時代に戻ったような感覚に陥ってしまうのだが、階下の物音を聞いて我に返るのを繰り返す。

この家はもともと祖父母が国鉄を退職するのと同時に建てたものだ。それを父母の同居などに合わせ増改築を繰り返し50年近く何とか持たせてきた。住人は多いときで5〜6人だが現在は父母の2名、親族と近隣住民が総じて年老いたため日中に訪れる人は稀で、幹線道路からかなり離れた立地ということもあって、地方都市の郊外というよりは過疎化して疲弊した田舎と呼ぶにふさわしい風景の中にある。

父母は(ワタシが同居していたときもそうだったが)祖父母を1階に住まわせ長いこと2階に居を構えていた。現在ならば2世帯住宅化という発想もあっただろうが、妙に頑固で保守的な一族の血のためか、水回りもトイレも増築しないまま急な階段を昇り降りして生活空間を共有していた。

ずいぶん前に祖父母が亡くなった後も、父母の2階での生活は基本的に変わらなかった。主のいなくなったはずの1階に行くと、いかにもお人好しの祖父と年齢に似合わないキツい物言いをする祖母が今にも現れそうな気がした。父母は祖父母の居住空間を保存しておきたかったのか、それとも溢れかえるガラクタに手を付けるのがめんどくさかったのか、今でもよく分からない。祖父の国鉄入社時(=明治時代)の辞令書がどっさり出てきたときは、とりあえず取っておけと言っておいたが。

しかしここ数年で父母が立て続けに体調を崩し2階の昇り降りに不安が生じたため、生活空間を1階へ移すことになった。祖父が昔使っていた部屋を夫婦の寝室にし、生活必需品を祖母の寝室に収納するようにしたのだが、結果として1階の2LDKだけで父母の生活は完結してしまい、今までの生活空間だった2階は丸ごと放置されることになった。

ワタシが寝ているのはその2階、壁に染みやひび割れができ家具が歯抜けのようになって、特に誰が掃除するわけでもなく衣類や布団が中途半端に捨て置かれている1室である。部分的に見れば何十年前と一緒だが、全体的には古びた物置のように朽ちたという表現がぴったりで、まるで自分がタイムカプセルで何十年か飛び越えて誰もいない21世紀の未来にやってきてしまったような気分になる。

頭痛と睡眠不足のため目を閉じぼんやりしていると、階下から父母の会話が響いてくる。そういえば昔も祖父母が似たような声を上げていたなと微笑ましく思い、突然、当時の祖父母の年齢にもう父母が達していることに気づき慄然として目を開けると、カビくさい天井が見える。まるで鉄人のようだった父もさすがに衰えを隠せなくなり、母は人のよさそうな笑みを取り戻したものの背中の丸みは元に戻りそうにない。たまには顔を見せて元気づけてやろうと思い帰省したはずが不要な心配をかけることになったことに恐縮しながら、いわゆる後期高齢者の老いの現状が極めて身近かつ痛いほどリアルに認識できたのは、好き勝手に暮らしてきた自分の人生において大きな収穫だと思った。ワタシを育ててくれた家庭料理や家事と同じく、そう遠くないうちに、この愛すべき生活空間そのものも崩れて消え去るだろうという諦念とも呼ぶべき確信とともに。

2015/07/13

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(7:楽器作画の謎)

日本のアニメにコンピューターグラフィックス(CG)が導入されてもうずいぶん経つ。当初はセル画の単純な置き換えだったものが、現在ではCGならではのエフェクトを加えたり2Dと3Dを絶妙にブレンドしたりして、海外とはまた違った映像表現を目指しているのは我々が日々目にしている通り。

それにしてもである。

「響け!ユーフォニアム」の楽器作画の、異様とも言えるほどの乱れの無さは何度見直しても謎としか言いようがない。吹奏楽部全員を俯瞰するモブシーンが3Dでモデリングされて作画に用いられているのはOP中の「音楽室後方からカメラがグルッと回って久美子の瞳にズームインするシーン」で明らかなのだが、どの演奏者がズームされたときでも、担当の楽器に歪みらしい歪みが見られないのだ。また、絵描きの人、フィギュアやドールを弄ったことがある人ならお分かりと思うが、小道具を人物にしっかり持たせるのは意外と難しい。重さが感じられなかったり脇が締まらなかったり…描画や撮影よりセッティングに時間を食われるのは日常茶飯事である。「ユーフォ」の場合は、どの演奏者も楽器を自然に持っている。こういう当たり前の絵面を当たり前に描いてしまうのが京アニのおそろしいところなのだが。

一方、同じ無機物でも道を往く3DCGの自動車は背景の一部と割り切っているせいなのか、どれもやや違和感が残る(これは京アニ制作のアニメに共通する、ちょっとした欠点のひとつ)。また、背景の建物などはほとんどが3DCGではなく手書きのイラストを使用しているようで、このあたりは制作側の割り切りというかポリシーなのかもしれない。

話を戻す。「ユーフォ」で京アニがフル3DCG作画にトライしたという話は聞こえてきていないし、画面を見る限りそういう風にも思えない。しかし描かれる楽器のパースはほとんど常に正確だし、ちょっとした破綻すら見られない。これはどういうことだろう?考えられる作画手法としては、1)実はモブシーンで分かる通り人物含めて全てフル3DCGで作画してました、2)2Dで描いた人物と3DCGの楽器をその都度合わせて微調整しました、3)複雑な楽器も2Dで完璧に描ける超絶原画マンとアニメーターを育てました、くらいなのだが、現実的なのはどう考えても2)である。つまり、各演奏シーンで演奏者がアップになっているときの楽器は、3DCGでモデリングしたものをキャラのポーズやパースに合わせ2Dに変換して、2Dと3Dの違和感が生じないよう注意しながらひとコマずつ置いていってるものと推察される。

いくらデジタルで省力化が可能だとは言え、これは特撮の手法に近い途方も無い手間と言える。

いや、いくらなんでもそれではTVアニメという枠に納められないほど効率が悪すぎる。あれだけ頻出する演奏シーンで馬鹿正直に3DCGの楽器をグルグル回しながら絵を決めていくなんてやっているはずがない。アニメの制作現場に限らずコンピューターのイノベーションは日進月歩である。「ユーフォ」においても、ワタシが想像つかないような革新的な作画環境が開発されているのかもしれず、きっとそれのおかげに違いない。久美子がやさしく抱えるユーフォニアムのやわらかな曲線ときらびやかな光沢を眺めながら、その謎が明かされる日のことを考えたりしている。

2015/07/12

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(6:学年ごとの特色を読み解く)

さて今回はちょっと視点を変えて、画面からはあまり見えてこないところの考察をしてみようと思う。北宇治高校吹奏楽部の面々は学年ごとにどのような特色があるのだろう。

まず現3年(緑のスカーフ)。中心となるのは部長や香織先輩、他にも各パートリーダーを担当していたり、部長・香織先輩ととても仲が良かった葵ちゃんがいたりして(辞めちゃったけど)、総じて真面目を絵に描いたようなキャラが目立つ(パーカッションのナックル先輩は昔からああいうタイプだと思うので例外)。このようにちょっと堅物と思われかねない面々ばかりが揃ってしまったのは、1年前の部内衝突事件で板挟みに合い心を砕いて調整に奔走した経験を強く共有していることが大きいのだろう。それともちろん、あすか先輩という特別な人間が同級生としてそばにいるのも原因である。端麗な容姿と明晰な頭脳を持ちエキセントリックな言動を弄しつつひとりの演奏者としての理想を若くして体現しながら、それ以外のゴタゴタには一切タッチしようとしない超然とした潔さに影響を受けない高校生などいるはずがないからだ。彼女の存在によって、現3年は自分たちが思っているよりもずっと大人になっていると言ってもよい。それが現在の北宇治高校吹奏楽部の団結力の源になっているのだから、何がどう転ぶのか分からないというものである。

現2年(青いスカーフ)は1年生のときに一部が当時の3年と衝突して急進的な何名かが退部したという前歴を持つので、全体から見るとメンバーが少ない。残っているのは、マイペースな者・上級生の姿を見て急進派に着いていくのを止めた者(チューバの2人や夏樹先輩etc.)、特別な理由を持つもの(香織先輩を追っかけるのが目的のデカリボンちゃん)などであるが、他のパートも見ると2年はそれなりにいるので、同じ2年の間でも退部した急進派と距離を置いていた者は少なくないように思われ、そもそも急進派はそれほど多くなかったのかもしれない。ここで考えてみると、この数ヶ月で最も意識が変容し実力が伸びたのは「部活にそれほどこだわりを持たず、さしたる向上心も持っていなかった」現2年なのではないか?それでも人数の絶対的な不足は否めず、影に埋もれることが多いのは仕方のないところか。ただ個人的に気になるのは、セリフもロクに無いのに妙に目立つ2年がちらほら画面に映ること。2期への布石と言ってしまえばそれまでだが…。

現1年(赤いスカーフ)は結果として実力者がたくさん入部してきたと推察される。筆頭は麗奈と緑、久美子も当然上位にランクインするだろう。秀一も楽器を替えながらオーディションを突破するほどの腕前で、他にも府大会に出場した1年が何人も見られる。これが単なる人数不足の頭数合わせで選ばれたのではないことは、大会突破という実績を考えれば明らかである。主役グループが低音パートに属するので他の様子はあまり窺い知れないのだが、各エピソードを見る限り各パートでの仲間はずれやいじめといったものの空気はちょっとした陰口程度しか感じられず(明らかに衝突を起こしたのは麗奈とデカリボンちゃんのみ)、どこもチームとしてうまく回っているように見える。これは3年の間で強く共有されている「過ちを犯さない」というリーダーシップ的意識と、まあ滝先生への反発転じて信頼の証だろう。結果として1年は伸び伸びと実力を発揮できる機会を得たわけで、前年銅賞だった高校が金賞+関西大会進出という結果を手にする原動力になったのは半分くらい(は言い過ぎかもしれないけど)1年のフレッシュさが影響しているのだろう。

アニメでの物語は府大会突破で一旦終わりを迎えたが、このように背景を容易に想像できるほど、北宇治高校吹奏楽部の面々は誰もが生き生きとしている。部活の合間の日常で起こるちょっとした事件、緊張感みなぎる練習風景、大会その他での熱演…。原作小説の本編がまだ2/3も残っており、スピンアウトの短編集もある以上、彼女たち彼らの躍動する姿をまだまだ見守っていたいと考えてしまうのは、熱さめやらぬファンなら自然なことだと思う。

…やっぱり2期やってくださいお願いします京アニさん(サントラを聴き込みながら)



追記:話中で「30人ほどいた現2年が半分ほど辞めた」とのセリフを確認。繰り返してみると疑問点がだいたい先回りで回収されてる感じがして少し悔しい(笑)

2015/07/10

色あせて覆われる場所

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1週間ほど前に実家へ戻ってくる際、高速バスの車窓を何となく眺めていて、以前は気にならなかった違和感に気づく。風景の骨格は20数年前と変わらない。でも何か、どこかが違っている。数十分ほどバスに揺られながら考えて得た答は「建物が色あせ過ぎている」「緑が生い茂り過ぎている」の2つだった。

建物は生き物である。人に使われずメンテナンスを放棄されたものは日々の天候の変化に晒されてゆっくりと色あせ朽ちていく。鮮やかな屋根の塗装もきれいな壁の仕上げも、そういったものを維持する人間がいなければ次第にぼろぼろになっていく。数年から数十年スパンで見るとその差は歴然で、これは新陳代謝が激しくメンテナンスも行き届いている都市圏ではあまり見かけないものなんだろうなと漠然と思った。

春から夏にかけて一気に無遠慮に生い茂る緑は北海道ならではのものだ。それほど奴らの生命力は強い。問題はそれをメンテナンスする人が誰もいなくなったという事実である。数十年前は北海道開発局があって冬場を問わず道路周囲の環境整備を担っていたはずだった。それが合理化の名のもと解体されたため、北海道の郊外の道路は脇の雑草が伸び放題という荒れた現状になっている。

このように、札幌近郊の衛星都市へ向かう高速道路上から眺めただけでも、北海道の疲弊具合が手に取るように分かる。この変化を観光資源が増えたとポジティブに捉える向きもあろうが、自分がかつて住んでいた街がこれほどまでに人の不在を印象づける風景に変貌しているとは思わなかった。実家に戻るとTVで夕方のローカルニュースをやっていて、実家の街よりさらに田舎の場所で公共工事すら回せないほどの過疎による人材不足を伝えていた。そして実家の建物は、すっかり年老いて身動きが思うように取れなくなった父母だけが淡々と毎日を過ごすのと歩調を合わせるように、周囲の風景と同じように朽ちていっている。聞けば近所の方は何人も長期入院したり亡くなったりしたようで、町内会員がずいぶん減ったらしい。夜中になれば近所に人やクルマの気配はなく、蛙の鳴き声と天井を打つ雨音だけが響く。21世紀の繁栄した都市圏と複雑化したネットの内部を我々が築き上げた未来とすれば、それ以外のリアルな過疎地域というのは20世紀に置き忘れてしまった心残りみたいなものかもしれないと思った。おそらく今後10年以内に何らかの淘汰が公私ともに一気に進むだろうという不安とも言い切れない漠然とした予感を抱えつつ眠る。そして明日になればまた一歩、人は老い、風景は朽ちているのだ。

2015/07/09

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(5:最終回を徹底?解読)

先日、全13話をもって(一応の)完結を見たTVアニメ「響け!ユーフォニアム」だが、その最終回が異様な密度だったのでココロを落ち着かせるまで約1週間を要した。客観的に考えれば劇中では数ヶ月しか経っておらずイベント的にも単に府大会が終わったばかりなのだが、それをここまでのカタルシスをもって描き出す京都アニメーションの手腕には唸らされるばかりである。

さて今回は、その高密度な最終回をワタシの力でどこまで分解して言葉にできるかというのに挑戦したい(当然ネタバレ多数につき注意)。なお画面キャプチャは極力入れません。動いているのを直接見てほしいので。

アバン
  • 1枚絵のタイトルのみでOP抜き。この手法は物語が佳境に入っていることを示す、TVアニメでよく使われるもの。
  • 間を入れず久美子の起床から登校までの日常風景が描かれていくが、目覚まし時計を止める、髪の毛を輪ゴムで留めるなど、第1回その他で何度か使われたシチュエーションが繰り返し引用されていることに注意。そういえばサンフェスのときは寝坊気味だったよなあ(笑)。
  • なおこのシーンではカメラはほとんど固定で(=手ブレ表現が目立たず)、クセのあるレンズで解放気味に取ったような光学的各種エフェクトも控えめである。
Aパート:早朝の学校への集合と出発支度〜大会会場での準備
  • 三々五々集まる部員だが久美子と麗奈は相変わらずどつき合っている。部長は早朝の音出しを心配半分うれしさ半分で聴いている。パーカッションのナックル先輩というニックネームが説明抜きにいきなり飛び出すあたり人を食った脚本だが、回をていねいに追っていれば誰を指しているか、それと同時に、部の雰囲気がリラックスしていて良好であることが汲み取れる(ちなみに今回大きくクローズアップされたのはパーカッションのメンバーだと思う。Bパート冒頭のアイキャッチになったのは偶然かもしれないが)。
  • 淡々とした準備風景の中、滝先生は譜面入れに忍ばせた写真を見て「さて、行きましょうか」と呟く。写真の主は分からない(2期への布石その1)。
  • 出発前集合時の松本先生の鬼軍曹的な訓示と画面上から慌ててやってくる滝先生のシチュエーションは、サンフェスのときの繰り返し。滝先生の指は常に怪しげな印を結んでいるが、どんな意味があるんだろう?初回の神社のシーンでおみくじについてスラスラと話をしてみたり、いまだ謎の多い人物ではある。
  • 手作りのお守りを配るシーンで葉月が言うセリフ「ふたり、色違いでお揃いだから」、久美子と麗奈の関係をこれ以上なく的確に表現しているが、このアニメはそういった重要な言葉を会話の中へさりげなく仕込むので油断すると聞き流してしまう。
  • 部長のひとことから「北宇治ファイトー」のシーン、あすか先輩は目を伏せて皆の声を聞いた後「さあ、会場に私たちの三日月が舞うよ」と続ける。ここで三日月とは直接的には自由曲「三日月の舞」を指したものだが、月はこの物語の中で頻出するモチーフなので、彼女が言う「私たちの三日月」とは各キャラクターを通じてこのアニメーションが本当に表現したかったことの隠喩なのかなと思った。なお(この作品のために書き下ろされた)「三日月の舞」の作曲者が想定した三日月とはおそらくホルンのこと(滝先生いわく「ホルンがかっこいい曲」)、そしてもっと言うと各キャラクターの瞳の中にはしっかりと三日月が浮かんでいる。このへんはもうワタシのこじつけだけどね。
  • バスの中での久美子と緑の会話。緑はあの狭い通路をどうやってすり抜けたんだろう。身体が小さいから平気なのか。
  • 会場着〜準備。立華の梓ちゃんはその後の場面にもちょくちょく挟まってくるが結果はどうだったんだろう(2期への布石その2)。
  • 久美子に髪を結ぶのを手伝えという麗奈。振り返ってぺたりと座り込むシーンが足下だけ描かれているが、ここは見落としがちだけどちょっとすごいテクニックの作画だと思う。
  • 夏樹先輩すてき。
  • 音出しのシーンから手ブレ表現が急に多用され始める。これは不安と緊張の演出だろう。
  • オーボエ?のリードをいつも咥えている、2年の寡黙な蒼髪の彼女が妙に目立つけど何者なんだろう(おそらく2期への布石その3)。
  • ペットボトルの水面が彼女たち彼らの鼓動と演奏にシンクロするかのように細かく波打つ。このへんは演出のうまさ。なお説明するまでもなく、水はこの作品を通じた重要なモチーフのひとつ。
  • 滝先生は時々芝居がかって見えるが、ああいう浮いたセリフが許されるのはイケメンだから。もとい、よき指導者はよきモチベーターでもあるのでああいう物言いをいとわない。それに素直に応える北宇治高校吹奏楽部の面々もすっかり信頼を寄せているようである。
  • ステージ裏の通路。久美子と秀一のどつき合いだが久美子の表情やしぐさが年頃の娘さんっぽくていちいちかわいらしい。これは「女の子をかわいく描くのが好きで好きでたまらない」京アニの中の人のしわざかもしれない。
  • 「北宇治の皆さん、どうぞ」とステージへの扉を開ける女の子、たったこれだけのシーンで何枚使ってるんだよと思わずツッコんでしまった。普通はこんなところに労力かけないよなあ…。
Bパート:ステージ登壇〜演奏〜結果発表
  • 客席に座ったのは葵ちゃん?髪型が違うのでよく分からない。
  • あすか先輩と久美子の会話。「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」というセリフから「AIR」を連想したのはワタシだけだろうか。この作品では他にも「日常」をはじめ過去の京アニ作品から引用したと思わしき演出手法が見られるが、「ユーフォ」はもしかすると一種の集大成的作品を目指して作られたのかもしれない。そう言い切るには証拠が少なすぎるけど。
  • ステージ上の明かりが強くなって髪や楽器に露出オーバー気味のハイライトが乗る。この場面、暗いところから違和感なくスムーズに切り替わっているのはデジタルならではの技術じゃなかろうか。手書きまたはアナログ処理だと途方もない手間がかかりそう。
  • また、明かりが強くなると同時に観客席は真っ暗になり、そしてステージ上の強い照明によって空中のほこりが照らし出され、ぼんやりとした光のパーティクルとして映り込む。手ブレ表現や光学的各種エフェクトも相まって、画面の密度と情報量は一気に増加する。
  • 演奏開始。このあたり以降は実在の楽団の演奏中継みたいなカメラワークになっていて、いくつかの固定カメラで撮影した映像を後で編集したようなカット割りになっている。想像だが、作画参考用に撮影した実際の吹奏楽団の動きをかなり忠実にトレースしたんじゃなかろうか。引きの絵でさえ一切手を抜かないその努力は、執念とも呼ぶべきすさまじさである。
  • 課題曲前半から久美子のモノローグ、このへんはまだ押さえ気味で推移。
  • モノローグ終了から演奏後半にかけて、久美子の「絶対、全国に行く」という決意の言葉に呼応するかのように演奏が俄然熱を帯びる。アニメーションで描かれてるはずの各演奏者の気合いが伝わってくるなんて誰が想像した?シンバルを鳴らすパーカッションの1年、演奏に合わせ全身を揺らす部長…。ここの動きを見てるだけで胸がいっぱいになって泣きそうになる。
  • 自由曲。いままで散々聴いてきたはずなのだが、鮮烈なイントロが鳴るとあらためて気分が高揚する。この曲は前述した通りこのアニメのために書かれたオリジナルのようだが、自然に聴こえるわりには変拍子やテンポの変化が激しいので実はテクニカルで難しいのではないか。ともかく、スコアを出版したら全国で演奏されるようになるかもしれない。
  • ホルンの子の楽譜に大きく赤書きされた「全国」の文字、たかが数ヶ月でそこまで本気になったのかと感慨深いが、そう皆に思わせるほど滝先生の指導が卓越したものだったことが伺える。
  • パーカッションの1年の、ドラム連打中に頭が微動だにせず身体が細かく震える描写は、パーカッション奏者なら思わず膝を打ったことだろう。これは本物を見ていないと絶対に描けない、見たとしても相当のセンスがなければ描けない、「過剰で執拗で容赦のない」このアニメを象徴するかのような屈指の名シーンのひとつ。
  • 楽譜の落書きが増えてるけど解読が大変なのでパス(笑)。月とか火星とか書いてあるらしいけどね。
  • ステージ裏の立華の梓ちゃんが挟まったことで、久美子がダメ出しを食らった例のフレーズは放映されていない(2期への布石その4)。
  • 滝先生の指示に呼応して始まる麗奈のトランペットソロ。「大きな手」や「唇」といったものの「芝居」でエロティックな雰囲気がまとわりつく。それにしてもこの旋律は、ソロでも印象的だけど合奏になるとより際立つ。オーディションのエピソードを懐かしむような微笑みでそれを聴く香織先輩がいとおしい。余談だけど麗奈の運指は音に対して正確に描かれていると風の噂で聞いた(左手の力みまで描かれているのは驚きの一言だが)。それとファゴット?を吹いている長い髪のウェーブがきれいな3年、たおやかな表情が大人っぽくてすてきな感じ。木管・金管の人は肩が入るんだよなあ。
  • ステージ裏。感極まって言葉に詰まる葉月をそっと抱きしめる夏樹先輩。こういうところを言葉にするのは野暮というものだ。夏樹先輩すてき。
  • 熱演もピークを迎えて終わり。細かく触れていないが各パートの演奏シーンのアップはどれも見応え十分だった。指揮を終えた滝先生が汗ダラダラなのは当然といえば当然だが、汗は熱さを分かりやすく伝えるための演出装置でもあり、水は重要なモチーフでもあり…。
  • あいさつで起立して放心する久美子。1年前から「特別になるための」経験を重ねて同じステージに立った彼女は、今なにを思うんだろうとちょっと想像している。
  • 前述したオーボエ?の蒼髪の2年は、実はこの演奏シーンでは一度も映されていない。あれだけ思わせぶりに画面へ出しておいて何とも大胆な…(2期への布石その5)。
  • 結果発表のシーンは第1回冒頭の繰り返し。その結末は直接的な言葉ではなく、各キャラクターの表情とわずかな会話で語られる。面白いのは、何でも思わず口走るクセのある久美子がこういうときに限ってほとんど何も言わないこと。また、あすか先輩はこういうとき不思議と必ず俯くこと(2期への布石その6)。
  • 「そして、私たちの曲は続くのです」(2期への布石その7)。
…ふう。まだまだ書き切れてない気がするけど一旦止める。誰が言ったか「最終回だけで23分の短編映画として成立している」というのは全くその通りだと思う。また全体を通してみると、第1〜7回までが割と日常的な部活ものの雰囲気だったのが、第8回を折り返しとして最終回まで一気にテンションを高めて走り抜けたという印象である。と同時に、Twitterでも言ったことだが声優陣の熱演(特に久美子役)、全編を彩った劇伴(BGM)の出来のよさ…ストリングスとピアノとギターとシンセという吹奏楽では通常使われない楽器をチョイスするセンスの鋭さも含め…も大きく評価したい。

さて今作は原作小説で1巻にあたるエピソードをアニメ化したわけだが、果たして2期はあるんだろうか?小説は既に本編3巻+スピンアウト1巻が揃っているのであとはアニメ化すればいいだけなんだが…確率的にその可能性は5割くらいと予想する。上記で指摘した通り最終回だけ見ても次に繋がる伏線は多数張られているが、「ユーフォ」はストーリーといい絵づくりといいあまりにも玄人好みで、これが爆発的に売れるとは思えないからだ。仮に原作3巻までやるとしたら3期または2期+映画という構成になるだろうが、こればかりは企画側に然るべき予算がつくか否かで決まる。「動くアニメ」が好きな自分としては、京アニの手によって描かれる彼女たち彼らの未来をもう少し見てみたいという気持ちが強いので、その夢が実現することを願う。

ところでこのアニメを毎週楽しみにしていて放送が終わって放心状態になってるそこのあなた、騙されたと思って第1回から繰り返して何度も見てみるといい。もしかするとこの作品、そういう視聴方法も考慮して作られてるかもしれないと思えるくらい新鮮な驚きがあるはず。その意味で、「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」というあすか先輩の願いは、TVアニメという何度でもループ視聴可能なフォーマットによってメタ的に成就していると言える。



追記:楽器の記述の明らかな誤りなどをいくつか訂正。こういうところはホントに疎いので…。

追記その2:夏の新作アニメを見始めたが絵の密度がスカスカに見えて困っている。しばらく「ユーフォ」の反動が抜けないだろうなあ…。

追記その3:1年のパーカスちゃんの画像をどうしても載せたかったので追加し少々加筆訂正。

追記その4:オーボエの鎧塚みぞれちゃんのカットを追加し少々加筆訂正。