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6/05/2021

舞台に立つ意思への自己言及の先にある狂乱のようなもの:「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」レビュー(ネタバレあり?)

ブシロードが手がけるコンテンツは、根気よく継続しようとする姿勢と、その一方で作品の終わりを描いて一段落させることも厭わない潔さでもって、おおむね好感を持っていた。

少女☆歌劇 レヴュースタァライトはそのひとつで、ミュージカル(≒歌劇)アニメとゲームがほぼ同時に進行する同社お得意のクロスメディア展開で(昔はマルチメディアと言ってた記憶があるけど)、かなりコアなファン層を獲得していたと記憶している。

ワタシはアニメ以外での展開を知らないので恐縮だが、TVアニメとその総集編「ロンド・ロンド・ロンド」でそのファン層すらふるいにかけ(内容を"分かっている"のは劇中のキリンくらいなものだろう)、そして今回、おそらくアニメのグランドフィナーレとしての完全新作、「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が公開される運びとなったわけである。結果、どうなったか。

マジかよ。

おそらく後年に語り継がれるであろう、アニメ映画の怪作が生まれたと断言してしまおう。

以下、ネタバレ…も何もないと思うのだが…を含めて例によって思うところを徒然に。この作品に関しては見る前に読んでいただいても構わないと思うけど、お好きにしてください。






そもそもの話として、アニメとしての「レヴュースタァライト」はTVシリーズと「ロンド・ロンド・ロンド」で一応の決着がついていたはずである。断言できないのはその難解さゆえで、歌劇のスタァを目指すため舞台上で歌いながら決闘を繰り広げる少女たちのその戦いの目的は一体なんなのよという疑問に始まり、劇中歌の多様なモチーフ、キリンという傍観者と大場ななというトリックスターの存在などもあって、それらが果たして"舞台少女"たちの学園生活なのかそれとも丸ごと舞台上の芝居なのか、境界線があいまいになっていた(なお、この点については「ゲキドル」というさらに先鋭的な実装例が出てきたので、詳細は今度そちらで書くつもり)。

「シン・エヴァンゲリオン」が約四半世紀にわたって展開されたアニメシリーズ全ての総括だとしたら、今回の「劇場版レヴュースタァライト」はその対極にあるだろう。本作はシナリオも舞台もほとんどデタラメである。描かれるのはTVシリーズと「ロンド・ロンド・ロンド」の結末のその先で"舞台少女"たちが何を思い何を願うのか、骨格はほぼそれだけである。

そこへモチーフの過剰に過ぎる投入と、彼女たち9人が入り乱れる「レビュー」によって、難解さを超え理解不能なところまで来てしまっている。

今まで以上の謎、今まで以上の難解さ。それらが説明されずに放り出されるこの感覚。

それを「いかにもレヴュースタァライトらしい」と呼ぶほどワタシはお人好しではない。しかし、ボールに当たるかどうか最初から全く気にせずバットをフルスイングしてきた姿勢は高く評価したい。



TVアニメの初回、衣装の縫製カットの緻密な描写と意味不明さで度肝を抜かれた方も多いことだろう。今作ではあのカットが使われてなかったことが象徴的だと思う。その代わり、地下鉄、電飾トラック、任侠道など突拍子もない「舞台装置」が続出する。少女たちが立つ以上は華やかであるはずの舞台へ異物的に置かれるこれらの装置と、シリーズ通じて良い出来の劇中歌や劇伴の組み合わせが何か特殊な相乗効果を生むのだろうか、見ているうちにまるで「マッドマックス怒りのデス・ロード」みたいな妙な興奮を覚えてしまった。

彼女たちが「終わりの先」で望むものはそのようなハイテンションを得られる場所に居続けること、すなわち、どのような世界観であれ舞台の上に立つこと以外には考えられないのである。たとえそれが狂気に包まれているとしても。我々という観客は、その行く末をただ眺め続けるだけである。



舞台少女を讃えよ!
分かります!
分かります!
分かります!

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