そして見終わった直後の感想が、ワタシにとってこの映画の全てで、これ以上は話すことがありません。
そんなわけで見ましたけど…コメディの触れ込みなのにほとんど笑うことができず、その代わり、奥歯を食いしばって嗚咽を抑えながらずーっと泣きっ放しでした » 侍タイムスリッパー | 公式サイト https://t.co/9Tkuki5BTu
— (パ) (@im9d) September 16, 2024
…これだけだとブログ記事を書く理由にならんので、きちんとレビューの体裁を整えて(何事も作法は大切)、なぜこの映画が2024年の個人的ベストに近いと考えているのかを述べる。
さて本題。この映画のタイトルやキャッチコピーが物語のだいたい全てを語ってしまっているのはご愛嬌。でかい映画会社やメジャーなTV局・出版社などが企画と宣伝に関わっていたら、例えば「ガチな侍がタイムスリップして現代に来ちゃった件」等々、逆にありふれたタイトルにされてしまったかもしれないし、そもそも開始数分で「侍がひょんな弾みでだいたい2000年代前半の日本に来てしまう」という仕掛けが分かってしまうので、そこに本作の主題が無いのは自明である。
そもそもの話、いわゆる「タイムスリップもの」はネタとしてとてもありふれていて、ざっと思いつくだけでも「ターミネーター」シリーズや「フィラデルフィア・エクスペリメント」(ってよりによってそれかよというツッコミはさておき)、そして、「別の世界からの闖入者が騒動を巻き起こす」ネタは「クロコダイル・ダンディー」「ブッシュマン(現在はコイサンマンでしたっけ)」(っていちいち古いの持ってくるなやというツッコミはさておき)など、枚挙に遑がない。
このありふれた仕掛けを使いながら、「侍タイムスリッパー」が描こうとしたものは何か。
コメディ仕立てで、舞台が往年の時代劇の撮影現場であることから、これは時代劇というものへの愛すべきオマージュだと捉える方が大半だと思うし、上映中は実際に笑い声がよく聞こえてきたので、そのように楽しまれるのは一向に構わない。
ただ、「現代へタイムスリップしてしまう武士が幕末の会津藩士である」と判明した瞬間に、少なくともワタシは「やべえのが来た」と感じて、実際にその通りだったので、笑いと号泣の比率が 1:99 みたいなことになってしまった。
ワタシは歴史に疎いが、2年半ほど福島に住んでいたり後でちょっとだけ勉強したりしたので、「幕末の会津藩」と聞いたら身構えざるを得ない。このあたり、例えば「ゴールデンカムイ」の土方歳三がなんで函館で死んだはずなのに生きてて北海道の独立を画策するのかという話にも繋がってくるので、当然、ワタシ以上に詳しい方がいらっしゃるだろうし、そのような方は今すぐこれを読むのを止めて映画館へダッシュしてくださいお願いします。
少々脱線した。割と冒頭に、皆は笑っていたけどワタシは嗚咽を堪えるのに必死だった場面がある。それはこんな内容だった。
現代の日本へタイムスリップしてきた幕末の会津藩士が、彷徨った末に寺の住職夫婦のところに世話になった際、出された握り飯を見つめて「このような旨い握り飯を食ったことはない、まるで冬の磐梯山の白さのようだ」的なことを述べる。
また、現代日本に慣れてきた主人公がしばらくして、生まれて初めてショートケーキを食べた場面は、このようなものだった。
主人公がケーキの旨さに感動しつつ「これは特別で貴重なものではないか」と住職夫婦に聞いたら近所のどこでも買えるという返事が返ってきて、「日の本の国(ひのもとのくに)は本当にいい国になったのですなあ」としみじみと呟く。
そして紆余曲折あって時代劇の斬られ役としてこつこつ努力するうち、不意に、幕末の会津藩が辿った歴史、それは運命と言い換えてもよいが、を知る場面。
…ここはぜひ劇場でご覧になってください。思い出しながら泣けてくるので。
上記の場面が象徴する、「十分に高度な技術を持ちながら、その時代の変化によって生かす機会が次第に失われていき、歴史という時代の変化に抗えず消えていくしかなかった人たちの生き様を描く」、それこそが「侍タイムスリッパー」の主題ではないかと考える。
タイムスリップしてきた武士が現代で身を立てるため時代劇の斬られ役になるのは先に述べたが、時代劇そのものが一般には顧みられなくなってずいぶん経つ。2024年の今だと真田広之氏の「SHOGUN」がエミー賞を総ナメにしたというニュースが聞こえてきたが、それ以外はせいぜいNHKの大河ドラマが残っている程度で、カジュアルな娯楽作品としての時代劇は、ジャンルごと消えつつあると言っていい。
また、剣を用いた格闘術の腕を磨いた武士も、相手を斬り殺して問題解決するという時代を過ぎればその野蛮な技術は無用となり、一部の武芸が伝承されている以外、武士という肩書きは現在では何の役にも立たない。
このように、「時代劇」と「武士」の両方が、ともに時代の変化に取り残され消えていくものというのは共通している。そこにワタシ自身の現在の境遇を重ね合わせてしまったのは自分の個人的な思い入れに過ぎないけれども、もし同じように感じた方がいらっしゃるなら、この映画は現代に対する強いメッセージを発することに成功していると言えよう。
どの時代であれ、技術は常に進歩する。それは不可逆的なもので、何か革新的なものごとが起こったら後戻りはできない。ワタシは一応ITエンジニアの端くれだけども、現在の技術開発のスピードでは、近いうちに食っていけなくなるという危機感は大きくなる一方である。その一方で、この古びた知識や技術をまだまだ活かせる現場があって、それを求めてくれるなら「握り飯ひとつで」働く覚悟である(というのはカッコつけすぎで、もらうもんはしっかりもらわんと生活できんけど)
それ以上に、時代があまりにもドラスティックに変わり続けているのを自覚せねばならない。気がつけばいつの間にか、平成ですら「何か懐かしいもの」になってしまうほどの時間と消費の速さ、それに慣れきってしまっていること自体に、どこかで小休止して冷静にならなければならんという、漠然とした危機感を同じように持ってしまって、でも結局は何もできない無力さを思い知って愕然としたりしている。
このように、時間も技術も不可逆的に進んでしまい己の手では止めようがないなら、いったいどうするか。そして、過去の己との決着をどうすべきなのか。
「侍タイムスリッパー」の主役である幕末の会津藩士は、剣の冴えは十分だがそろそろ初老に差し掛からんとする年齢である。その彼が現代日本に身を置いたとき、このような重大な問いに直面する。結果、
その命がけで習得した卓越した技術を見せよ。
その技の冴えで見る者すべてを魅了せよ。
こういう時代があったことを未来へ伝えよ。
彼が下したこの覚悟、この決断こそが、時代や技術を超越して、現代の我々の胸を揺さぶるのである。
ワタシがこの映画を見てから1週間ほどで、話題はさらに広まっているようである。かつての時代劇がそうであったように、「侍タイムスリッパー」が国民的な娯楽作品として末長く愛されることを夢見て、そして何より、できるだけ早く会津…福島での凱旋上映が実現することを願う。そのときには何か旗を作って、ぶんぶん振り回しながらお祝いに駆けつけたくなる、そんな"シャシン"である。
今が、その時であるのだ。