For short, " I. M. G. D. "
Established : 1997/12/07

Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2016/10/01

DAIMお蔵出し:委員長 / “台湾人が中国語で「いーあるふぁんくらぶ」を歌ってみた”

  1. ダメダメここでは あなたも“你好”!
    晩夏の狂騒に明け暮れていた或る日、以下のツイートが目に留まった。

    「いーある〜」は未聴だったので早速聴いてハマって、さらに「歌ってみた」を調べて巡りあったのがこちら。その理由は、やはりTwitterで見た『これは中華圏で翻訳された「歌ってみた」が、たくさんある』という情報を確認したかったからである。
    ワタシは原曲を、日本と中華圏との関係を、女の子のありふれた好奇心を通じて描いたものと解釈している。遠くて近く、近くて遠い。たぶん我々は、ずっと昔からそのように過ごしてきたのだ。
    だんだん君と 同じ言葉が 使えるね 
    うぉーあいにー 言えるかな
    委員長さんの「歌ってみた」は、そんな両者の距離を一気に縮めてくれたようで、ちょっぴり泣いてしまった。香港・台湾ツアーは、必ず成功すると確信している。
    だんだん君の 伝えたい気持ちが わかってく
    うぉーあいにー 言わせてよ
    うぉーあいにー 言えるかな
    ********************
    ■song:委員長
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    ■music,words&play:みきとP
    ■illust:ヨリ
    ■movie:りゅうせー
    ■enginner:友達募集P
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    Info

DAIMお蔵出し:鼻そうめんP / “YOUTHFUL DAYS’ GRAFFITI”

  1. 先日も謎のヒットを飛ばしたアニメーター兼イラストレーター兼コンポーザーである氏の作品から、おっさん的な好みでこれを紹介しつつ、氏がいわゆる総合Pではないことを指摘したい。
    この曲のほぼ完成した状態を、ピアプロで聴ける。

    だが何かが足りない。もちろん歌詞である。これに限らず、氏はほとんどの作品で歌詞を外注しているので、総合P=楽曲や動画の全てを手がける制作者とは言えない。
    さて、歌詞の不在で不足するものとは何か。電気グルーヴが「Shangri-La」を発表した際、石野卓球氏が「ラブソングがないと駄目だ」と発言した記憶がある(がソース不明)。両者ともガチな電子音楽家で多彩な表現力を持つのに、場合によっては欠落してしまう要素があるらしいのだ。
    推測だが、氏は十分にそれを理解している。できないことを潔く切り捨てることも、表現者には必要なのでR。
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    ■music&illust:鼻そうめんP
    ■lyrics:友場洋
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    Info

DAIMお蔵出し:名無しさん / “生演奏 ちんこ音頭 Jazz Ver.”

  1. 某巨大匿名掲示板が混沌に包まれていた時代の話。あるスレッドでは諍いが絶えず、別のスレッドでは慣れ合いが続き、そして現在におけるCGMの萌芽が多数見られた。この曲は、そのなかでもスピード感と完成度において頂点のひとつと呼ぶに相応しいものと、今でも考えている。
    初見の方はポータルを、発祥と推移はこちらを参照されたし(というか、リムネットのサイトが現存すること自体が奇跡に近い)。ここでは、スレ立て→作詞→作曲と歌ってみた(!)→AAによる踊ってみろ(!)→二次創作と動画の派生→お祭り化、というCGMのダイナミズムが、約10年前に成立していたことを強調しておく。極論すれば、ニコ動やボカロ、ピアプロ、pixiv等はその流れを加速しただけで、やってることは昔と大差ないのだ。
    さて今回は個人的に大好きなJazz Ver.をピックアップ。他にも魅力的な作品がたくさんあるので、掘ってみると楽しいですよ。
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    ■lyrics:ちんこ音頭(初代スレ)の >>43->>52
    ■arrange:不明
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    Info

DAIMお蔵出し:daniwell / “WHISPER MOMOKO”

  1.  daniwell氏が藤本萌々子嬢提供の音声素材を用いて作成したFlashサイト。見た通りにアンビエントミュージック&インタラクティブアートと呼ぶと、たちまち怖い人たちがヒャッハーと叫びながら集まってくるのでちょっと待ってほしい。
     現代美術はハードルが高く安易に語れるものではないのは明らかだが、調べると批評やコンテクストなどの単語が辛うじて読み取れた。さて無謀を承知かつ付け焼き刃の知識でみると、これは現代美術的な形態を取りながら、批評やコンテクスト的なものからかなり離れた場所にいるように思える。芸術やコンセプトによる表現欲求以前の、例えるなら職人さんが手すさびに作りだす、外から見ると何だかスゴいけど本人は全然そのつもりがないという何か、の心地よさを感じるのだ。
     ところでお二人を結びつけたNyan Catは現時点で8千万再生を超えているけど、いずれ137億に到達してしまうだろうね。ああ怖い怖い。
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    ■music&Flash:daniwell
    ■voice:藤本萌々子
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    Info


DAIMお蔵出し:ゴジマジP / “おちゃめ機能”

  1.  重音テトの代表曲のひとつであるこの作品は、2010年04月01日投稿のオリジナル(作者は匿名扱い)から始まり、作者であるラ…ゴジマジPの連続投稿(八頭身モナー:2010年05月10日、線画その1:2010年05月11日、その2:2010年05月12日)で祭が勃発して多数の作品が派生し(カラー化:2010年05月15日、歌ってみた:2010年05月20日、踊ってみた:2010年05月30日など)、現在に至る(MMD版:2012年04月01日など)。
     一連の流れを見るとニコニコ動画における表現の連鎖の典型例だが、作者自身が投稿した3作品に注目してみると、オフボーカル版の作りがとてもシンプルであるのが分かる。このことは逆に、氏の紡いだメロディがリッチであることの証明になろう。
     同時に歌詞にも注目したい。氏の書く詞に頻出するパ行の繰り返しだが、ここでは「夢から覚めないで」というフレーズの間にたった3文字のピピピを置くことで、彼女のキャラクターと風景をシンプルに描写している。
     このシンプル/リッチ/シンプルという緩急が、ポップな厚みを創り出している。祭のトリガーは、3連続投稿された動画の楽しさだけではないのだ。
     なお個人的には、UTAU SONIC 2011でのアクトが強く印象に残っている。中の人が歌い切ったんだよこれを。
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    ■music&lyrics,: ゴジマジP
    ■irrust:千愛
    ■movie:キッカ
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    Info

DAIMお蔵出し:t.Komine(うたたP) / 鳥居羊 / “こちら、幸福安心委員会です。”

  1.  元ネタの古典TRPGはさておき。
     作品内で繰り返される「義務なんです」というフレーズから、ジムナスティック=体操=YMOを連想してみる。
     初期YMOが共産主義的独裁をキーイメージとして打ち出し、散開ライブで「プロパガンダ」を展開したのはご存知の通りである。
     プロパガンダとは政治的な宣伝行為で、サーチライトの強烈な光、演説や音楽を拡声器や巨大スピーカーで増幅した音響などで構成される大規模な舞台装置、また、ユニフォームを着た群衆による行進やマスゲームといった律動等を伴う。
     これによって個人を否定する同調圧力が生じるが、この力は「いじめる側の論理」とほぼ同義である。ときには個人の死すら厭わない残酷な世界が待っていることを、肝に銘じるべきであろう。
     もちろんこの作品は、このようなディストピアのパロディなのだが、妖しい肢体と人を見下した声を持つ幻の存在によって、我々は煽動されてしまうかもしれない。
     それほどに危険なのだ。
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    ■music:t.Komine (うたたP)
    ■lyrics:鳥居羊
    ■illust:wogura
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    Info


2016/09/24

これから「響け!ユーフォニアム」を追いかけるべき3つの理由

冗談を口にしたら本当に書きたくなったのでつらつらと。長くなると未見の皆さんへのネタバレになるので、できるだけ端的にという気持ちで。

2015年春に放送されたTV版「響け!ユーフォニアム」(以下1期)は、その確かな評価によって「劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校へようこそ〜」(以下劇場版)が制作され、さらにこの10月から「響け!ユーフォニアム2」(以下2期)のTV放送が始まる。昨今のTVアニメでは珍しくない間を空けての続編だが、先日、先行上映会へ参加できる機会に恵まれて、2期1話(1時間スペシャル!)を丸の内ピカデリーで見た。

これは事件だと思った。

上映が終了したあとの呆然とした感覚を、数週間経った今でも忘れることができない。長いことアニメ好きをやってきて、こんなふうに思ったのはほとんど記憶にない。放送後はおそらく大騒ぎになるだろうと確信している。

その2期1話をとにかく1人でも多く「目撃」してほしいというお節介なアピールを前提として、「ユーフォ」を見るか迷っている人のために、今からでも追いかけるべき理由を以下に3つ述べる。
  1. 京都アニメーションと日本アニメの転換点に位置づけられそうな作品であること

    京アニは作画の安定性とトータルの品質で名をあげたアニメ制作集団である。ゲーム・マンガ・小説が原作の作品を立て続けにヒットさせたのち、自社レーベルのラノベ文庫を原作としたアニメをしばらく制作していたが、「甘城ブリリアントパーク」で再び他者の原作に戻ってきた。その後に制作したのが、宝島社が出した武田綾乃氏の小説が原作の「ユーフォ」1期と、(「無彩限のファントム・ワールド」を挟んで)講談社が出した大今良時氏のマンガを原作とした映画「聲の形」である。

    原作を自社で賄うことを止めて、例えば以前のカドカワのような(京アニからすれば)大きな会社の小説やマンガを今あえてアニメ化する理由は何だろう。推測の域を出ないが、これは作画や品質だけでは視聴者がついてこなくなっている現状を打破するための選択ではないかと思っている。と同時に、高齢化するアニメーター等の職人の後継者が不足している(らしい)こと、さらには中国などの海外資本が日本のアニメ制作職人を高く買っている(らしい)現状も、制作側の危機感に繋がっているだろう。

    定評のある作画や品質に加えて、時には既に話題を呼んだ大きくダイナミックな原作をアニメ化して作家性も前面に打ち出し、今後はそれで勝負する。自分は「ユーフォ」と「聲の形」を、京アニの転換点というか決意のようなものと受け取っている。そして、こういった現代の日本アニメ技術の精緻と言うべき作品を、今後は京アニですら作るのが難しくなるかもしれない。だから今、「ユーフォ」を見逃す手はない。

  2. 極めて上質な「音楽映画」であること

    「ユーフォ」は、架空の学校である北宇治高校の吹奏楽部全員が主役であると思っている(主人公の黄前久美子は、特に1期では語り部兼その代表として描かれていると解釈)。彼女たち彼らの演奏は、最初は下手くそだけど指導者の手腕によって次第に実力を身につけていくのだが、「ユーフォ」では、その過程が実際の音として描写されていて、クライマックスの演奏シーンは異様に力の入った作画も相まって大きなカタルシスを呼ぶ。まさにアニメで描かれた熱演である。

    京アニにとって「音楽」は特別なものである。作品リストを眺めていただければ、誰でも納得するであろう。社会現象化した「けいおん!」以来の、真正面から音楽を描く「ユーフォ」は、方向性はまるで反対ながら、同様の上質な音楽体験を提供してくれる。主にシリーズ演出の山田尚子氏のしわざによる劇中曲の「意表を突いた」選曲はもちろんだが、特に「架空の吹奏楽曲」である「三日月の舞」は物語の「象徴」で、個人的には「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー メインテーマ」に匹敵する「映画音楽」における名曲だと思っている。

    同時に、物語を彩る松田彬人氏の手による劇伴が素晴らしい。特に1期では、通常の吹奏楽では使われない楽器を巧みに配置して、劇中の吹奏楽の演奏と差別化しながら叙情的な心象風景を描き出すことに成功している。物語を通して何度も反復される旋律のそれぞれが何を意味しているか、語り出せばそれで記事がひとつ書けてしまうだろう。

    余談だが、劇場版だけを見ていた音楽のヘビーリスナーである某氏に1期のサウンドトラックを聴かせたところ、1曲目が始まってすぐに良いと呟いて食いついてきたのはさすがに笑ってしまった。また、立川のシネマシティでの劇場版「極上音響上映」は、コンサートともライブともクラブとも部屋のオーディオともヘッドホンとも全く違う、このまま死んでも構わないと思うほど極めて鮮烈で圧倒的な音楽体験であったことを付記しておく。


  3. 「永遠の夏」への回答であること

    先ほど挙げた「ビューティフル・ドリーマー」では、「永遠に繰り返す日常」という、オタクコンテンツへの呪いとも言うべき重大なモチーフが提示された。「何度もやってくる文化祭の前日」「廃墟とコンビニと自宅で謳歌し続ける夏のバカンス」「脱出できない悪夢の連続」という描写がその後に与えた影響は計り知れず、また、当時のオタクたちの価値観を大きく変えてしまった。なかには自分のようにその後の生き方がネジ曲がってしまった者も多く…まあいい。現在でも様々に形を変えながら引用されるそんなモチーフが、2015年度の宇治を舞台にしたこのアニメでも、ほんのわずかに顔を覗かせる。


    「ユーフォ」は夏の物語だと、個人的に思っている。実際にそれを体験したくて、去年と今年の暑い時期をわざわざ狙って宇治へ行ってきたほどに。しかし京アニ本社がある現実の宇治では当然だが季節が巡りゆく。それが「ユーフォ」の劇中でも描かれるのは、既に公開されている2期のPVでほぼ確定してしまっているのである。


    「ユーフォ」の物語を駆動する推進力はあくまでも主人公の黄前久美子をはじめとした北宇治高校吹奏楽部の成長であり、それは不可逆的なものである。ゆえに、オタクの呪縛だった「永遠の夏」は終わる。重い枷をほどいて次へ行くために、夏を終わらせるために、オタクは「ユーフォ」の行く末を見届けるべきである。
…やっぱり長くなってしまった。とにかく2期1話がとんでもないので、1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を全部見ておいてほしい気持ちでいっぱいなんである。ちょうどニコ動で1期の一挙放送があるようだし、せっかくの機会なので少々お時間を割いていただくのも悪くないだろうと考える次第である。



備えよう。



(1期とDVD/ブルーレイ7巻収録の番外編と劇場版を見終わったら下のPVを見よう)

「聲」とは何か 〜 映画「聲の形」レビュー追記(ネタバレあり?)

映画「聲の形」公開初日に見に行って大きな衝撃を受けた状態でヒーヒー言いながら何とかまとめた前回の記事では覚悟と材料が足りなくてどうしても触れることができなかった話が、のどの奥に魚の骨が刺さったような違和感として残ってしまっているので、それをこれからとりとめなく吐き出していく。ネタバレは前回より少ないはずだけど、未見の方は映画を見てから読むことをオススメしますと念のため前置き。

本題。公開初日、上映後の舞台挨拶で、山田尚子監督が最後にこう仰った。ワタシの聞き間違いでなければ正しいと思う。

「この映画は音にこだわって作りました」

さすがに耳を疑った。確かに良い音響、良い音楽、良い演技なのは充分に伝わるが、聴覚障害者が出てくる物語で「音にこだわる」とはいったいどういう意味なのか。これは、先日のレビュー執筆時ではとうとう答が見つからず、自分みたいな人間に突きつけられた問いなのかと感じながら、あれこれ思索を巡らせてきた。

この作品で、どのようにしても逃げられない「音」は、早見沙織さんが演じる硝子の「聲」(「声」の旧字体)である。劇中ではわずかにしか発せられないその「聲」を演じるために、早見さんは聴覚に障害を持つ皆さんと「対話」しながら役づくりに励まれたというような話を見かけた(記憶がある)が、現在の声優の演技力はここまで到達しているのか、と、この映画を見ながら思った(同席した友人はあまり納得していなかったようだが、これは個人差だろう)。

似たような経験を、実は去年もしている。

山田監督がシリーズ演出としてクレジットされているTV版「響け!ユーフォニアム」1期の第12話「わたしのユーフォニアム」のクライマックスで、黒沢ともよさんが演じる主人公の黄前久美子が悔し涙を散らして宇治橋を駆けるシーン、「うまくなりたい」と叫んでから秀一との掛け合いのあとに久美子が膝から崩れ落ちつつ声を振り絞った、

「私のほうが…」

という、あの一言である。高校生の女の子の感情が爆発して言葉にならないさまを、ありのままに再現した、あの演技である。


黒沢ともよさんが実はとんでもない傑物であると知ったのは番組放映からかなり後なのだが、それは今回の本題ではないので触れない。とにかく、現在の声優の演技がここまで到達できる事実を、しかもそれをまだ20歳そこそこの彼女が示せたことを、「ユーフォ」にも出演していて十分なキャリアを持つ早見さんはもちろん、山田監督も、京都アニメーションの音響をずっと支え続けている鶴岡音響監督も、重く受け止めたに違いない。

いまさら指摘するまでもなく、山田監督のキャリアは「音楽」とともにあった。「けいおん!」からスタートして「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」、「ユーフォ」での選曲、そしてこの作品の冒頭で流れる「あの曲」のチョイスなどでも発揮されている通り、音楽へのマニアックなこだわりは現在も徹底している。個人的に印象深かったのは、「たまこ」における音楽制作へのスタンス(こちらの記事がとても詳しいので一読をオススメします)と、「まーけっと」「ラブストーリー」を通じてただひとつだけリアルに存在する曲を使った、という押し引きのメリハリであるが、そういう人物がこの映画を作るにあたって「音楽」から一歩進んで「音」にこだわったと言うからには、個人なり制作スタッフなり会社組織なりのレベルで何らかの変化があったのであろう、という、ぼんやりとした想像を今はしている。

荒川修作による「アート」である養老天命反転地が劇中に登場するのは、前回書いた。その荒川の他の作品を追っていくと必ず出てくるのが三鷹天命反転住宅である。


両者に共通する「天命反転」というテーマは、こちらのページでより具体的に示されている。一部を引用する:
私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。
これを読んでやっと、「音にこだわる」意味と「聲」の正体への手がかりが掴めたような気がした。

この映画の主題は聴覚障害者でもいじめでもなく、ディスコミュニケーションとその克服であるというワタシの解釈は前回述べた。ここにもうひとつ付け加えるなら、荒川修作が目指したような、個人ごとに異なる身体性の具現化と、それが持つ個々の可能性の提示ではないか。硝子の「聲」を可能な限りそのまま「再現」したことと、彼女が繰り返しダイブするという「肉体的な」描写は、その象徴と言っていい。絵と音で出来ているアニメという表現で、山田監督はそういう困難な命題と真摯に向き合ったように今は思う。

…ここまで考えて、リアルサウンドに載った山田監督へのインタビューを読んだ。すとんと腑に落ちる音がした。そんな気がした。遠慮しない。遠慮しなくていい。自分が持っているありのままをぶつける。人間のコミュニケーションと表現の本質は、そういうものである。

2016/09/19

iPadからiPad miniへ移行

event_note
2012年に台湾で開かれた「みらいのねいろ」参加時に購入した第3世代(でいいのかな)のSIMフリー版iPad。ずっと満足してたんだけど、数ヶ月前から内蔵スピーカーが音割れするようになった。イヤホンジャックに直接挿せるスピーカーでごまかしながら使い続けてたところ、ちょうどご縁に恵まれて、iPad mini 3 64GBを譲っていただけることになった(しまさんありがとう)。


元のiPadと容量が同じなので、バックアップをそのままminiに復元して(例によって何度かトラブルはあったけど)、ほぼストレスなく移行できた。

で、実際に使ってみると、スペックや画面の小ささはあまり気にならず、むしろ軽さと取り回しの良さに感心した。それと内蔵スピーカーがステレオなのがとてもうれしい。家でしか使わないならiPadまたはiPad Proでもいいけど、持って歩くならminiで充分だと思う。安く済ませるなら、まだ新品で売られてるmini 2でもいいくらい(mini 3とスペックがほとんど変わらないらしいし)。ただ、大画面化したiPhone 6/6 Plus以降とは差別化が難しい。オススメとしては、iPhone 5S/SEかiPod touchを使ってる人向けになるのかなあ。なお今回の機種はWi-FiのみでSIMが差せないけど、テザリングが解禁されてる現状ではあまりこだわる必要はない気がしてる。

というわけで、いつも通り画面保護フィルムをちゃちゃっと貼って本格運用を開始、んで、使い勝手のよいカバーを探す旅を始める楽しみが増えた。自分の使い方に合うカバーって、なかなか見つからないものなんですよね。増してや旧型になると在庫処分セールののち店頭から消えてしまうので。

…Appleというかスマートフォンやタブレット関係で最も困るのは、実はこの新陳代謝のスピードの速さに影響されて旧機種のアクセサリーがあっという間に手に入らなくなることなのかもしれない。

2016/09/18

目で聞く、耳で見る 〜 映画「聲の形」レビュー(ネタバレあり)

映画「聲の形」を原作マンガ未読のまま公開初日に見に行って、感じたことをとりあえず書き留めておく。従ってストーリーやキャラクターの掘り下げはあまりせず、この映画の演出を中心に話を進める。ただ、どうしてもモチーフやストーリーやキャラクターに触れることになるので、ネタバレを少しでも気にする人は、映画を見てから読んでいただいた方が良いかと思う。



まずはPVをご覧いただきたい。



これだけでもう充分に重たい話であることは伝わってしまうのだが…それはさておき、個人的に強く印象に残ったのは、TV版「響け!ユーフォニアム」で石原立也監督が大々的に用いた被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写と、牛尾憲輔氏によるピアノ主体の抑制的な劇伴である。石原監督と同じ京都アニメーションに所属する山田尚子監督は、本作でこれらを極めて自覚的に作品へ適用したと思った。

そういう話の前に、ストーリーのあらすじを上記PVのキャプチャ画像を引用しながら軽く説明しておこう。

主人公である石田将也(いしだ しょうや)の小学校に、先天的な聴覚障害を持つヒロインの西宮硝子(にしみや しょうこ)が転校してくるところから、物語は始まる。教室の困惑はやがて硝子への無自覚ないじめへと繋がり、無邪気さゆえに硝子へちょっかいを出していた将也は、ある日、いじめの先導者として糾弾され、それがきっかけでいじめられる側になり、周囲から孤立していく。




高校生になった将也は罪の意識を抱えたまま、いじめ発覚後に再び転校してしまった硝子と再会する。ぎこちなく接する将也と、「表面上は」おだやかなほほえみを絶やさない硝子の距離は次第に縮まり、周りに少しずつ友人が戻ってくるのだが、それはひとときに過ぎず、将也と硝子の想いはすれ違ったまま「顔に×印のついた」危ういバランスはついに崩壊してしまう。そして…


…と、ここまで書けば、聴覚障害といじめという重いモチーフが物語の重要な部分を占めていることはお分かりになると思う。劇中ではもっと生々しくて身を切られるような場面が続出するのだが、この作品は、それらを描くこと「自体」を目的としていない。

劇中の中盤、物語の舞台の岐阜県大垣市にほど近いところにある養老天命反転地が出てくる。建築・アート好きには説明不要なほど有名な荒川修作の「アート」だが、将也がコケていた通り、この場所では平衡感覚を狂わされて転ぶ人が多いと聞く。

(画像は養老天命反転地のwebサイトより引用、詳しくは他のサイトをご参照ください)

もうひとつ、これは本作と直接は関係ないのだが、八谷和彦による「視聴覚交換マシン」を紹介しておく。これは自分と他人の視覚と聴覚を丸ごと入れ替える体験を提供する「アート」だが、動画からは装置を装着した人々の戸惑いが伝わってくる。


例えばこのように、通常の感覚やバランスを喪失したときに生じる自他の混乱と、それに伴って不可避的に発生するディスコミュニケーション。そして、それを克服するために何が必要か。これが、本作で山田監督が描こうとしたものではないかと思う。

被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写は、「ユーフォ」では画面を盛り上げるためにここぞという場面で使われた印象があった。一方、この作品は、最初から最後までダメレンズで描写され尽くされる。画面の端に寄ると主役級キャラでさえ容赦なくボケて歪んで滲みまくるそれは、こころを閉ざした将也の視野の狭さと重なる。

そして、抑制的な劇伴は物語の起伏に寄り添わず、淡々と響き続ける。この、音が感情に連動していないさまは、硝子のこころのあり方にそのまま直結している。

では、「意識的に周りを見なくなった」将也と「先天的に音が聞こえない」硝子を繋ぐ糸は何だろう。

学生時代に「非言語(ノンバーバル)コミュニケーション」という本を読んだことがある。もう手放してしまったか部屋の奥に埋もれているのでこれだと断言はできないが、とりあえず本の表紙の画像を引用しておこう。


これによると、人間のコミュニケーションは言語より非言語、例えば、身振り手振り、色、座る位置etc.などの比重がずっと大きいという(…というようなことが書いてあったとぼんやり記憶している)。本作では、それらの非言語的なコミュニケーションの数々が、京都アニメーションならではの美しく細やかな筆致で描かれている。

ひとつずつ見ていこう。

硝子は聴覚障害者ではあるが、もちろん普通の優しい女の子である。ときには怒りも泣きもするし、当然、恋もする。その感情の揺れ動きは、言葉ではなく表情や身体の動きで読み取れる。ただ、彼女が「ある行動」を起こすまでは、本当のこころは分からないのであるが…。







次に、言語と非言語の中間として描かれる手話。硝子が使う手話には当然字幕が出ないので、手話を理解できないワタシをはじめ観客のほとんどには、彼女が話していることは分からない。しかし、手話を学んだ将也には、彼女の言葉が伝わっている。





そして、涙。感情に直結して目から流れ落ちる水滴が、言葉にならない嗚咽や言葉を失った表情などとともに描かれる。



最後は、水面に広がる波紋のモチーフと花火の爆発が象徴する、振動から来る皮膚感覚(最初に引用したPVではそれらの場面が描かれていないので画面キャプチャは割愛)。特に高校生の将也と硝子が物理的に触れ合うことがほとんどないのは、この物語のキーのひとつかもしれない。

アニメを含めた映像作品は、突き詰めれば絵と音で出来ている。その片方である音があらかじめ失われた少女に対して、彼女にまつわる複雑な想いを引きずる少年がどう向き合うか。それを描くために、被写界深度の浅い通称ダメレンズ描写と抑制された劇伴と、音で聞こえる言語ではなく目で見える非言語で伝えられる言葉の数々をていねいに積み重ねて、この作品は成立している。「けいおん!」や「たまこまーけっと」「たまこラブストーリー」で見せた、ふんわりとしてかわいらしくデフォルメされた表情や動きとは全く逆の世界の、リアルな青春の痛みを描き切った本作は、山田尚子監督の観察眼の確かさと繊細な作劇能力の高さを改めて示している。モチーフ的にはむしろ山田監督、いや京都アニメーションの新境地と言っていいかもしれない。

単なるラブストーリーではなく、見ると確実にこころを抉られるような重いものを突きつけられるが、それは決して受け止められないものではない。なぜなら、我々が豊かな感情を持ち、コミュニケーションすることさえ諦めなければ、想いは必ず伝わると分かっているからである。