クルマとバイクを散々乗り回してきた現在からは想像もつかないと思うが、ガキのときのワタシは実は乗り物にとても弱かった。車酔いの原因はよく三半規管をシェイクされるためと言われるが自分の場合はちょっと違っていて、ビニール張りの自家用車の内装、汽車やバスのディーゼルエンジンの排気ガス、古い客車で使われていたコールタール塗りの床などの匂いがトリガーで、それを嗅いだとたん吐き気に襲われて目的地に到着するまでひたすら我慢するしかなかった。この乗り物酔いグセは自分でバイクに乗り始める時期あたりを境にピタリと止むんだが、匂いと体験を繋ぐ記憶がいつの間にか上書きされたのだと今は思っている。
ワタシは裸眼視力以外の五感は他の人よりも敏感な方だと思っている。神経質と言い換えてもいいかも知れない。そして特徴的な刺激を受けた場合、それが体験や記憶と強くリンクして、ふとしたタイミングでそのシチュエーションをリアルに思い出すことがある。こういうのをフラッシュバックと言うんだろうか?ともかく、ワタシが受けてきた五感の刺激は、かなりの割合でワタシの経験してきた時間や場所、それから出会った人たちと繋がっている。
先日イオンモールへ出向いた際、フロアに足を踏み入れてワタシの五感へ最初に飛び込んできたのは高い天井でも売り場にあふれる商品でもなく、「イオンモールの匂い」であった。その匂いはまた、知人の家庭にお邪魔した際、部屋いっぱいにあふれる甘い香りの正体でもあった。日本全国各地の標準的な家族の営みの場がこの匂いで満たされているのかと思い、かなり強烈な目眩を覚えたのを白状しておく。
また別の日になるが妙齢の女性と会食する機会があって、年齢が親子ほども離れているせいか互いにかなりフランクな話題を持ち出して盛り上がったのだが、その女性が身にまとう花のような香りもまた強烈にインプットされた。何かしらの香水の類ではなさそうだったので失礼を承知で聞いてみたところ、やはり特に自覚も無く何も使ってないという答だったので、あれは彼女が過ごす家庭に染み付いた匂いと彼女自身の動物的なフェロモンとかそういうものに自分が反応したのだと思う。とはいうものの他の女性と会話していて常に感じるものではなかったので、彼女独特のオーラに近いと言うべきものかも知れない。
イオンモールからもたらされる一般家庭の匂い、女性が放つ芳しい香り、そのどちらも現在のワタシの生活からは遠いところにある。つまり自分が現在のペースで生活する限り、記憶の上書きができないことを意味する。ここでは内容を明らかにできないが、それぞれの記憶がとても大きな意味を持っているために、無臭空間で過ごす現在のワタシの毎日はそれらを思い出しては途方に暮れることの繰り返しである。
自分の部屋の淀んだ空気を入れ替えるために窓を開け放つ。そろそろ虫が入ってくる頃だと思い蚊取線香に火をつける。あの独特の匂いが部屋を満たす。今年も夏がやってくることを思い出す。