この、全体から溢れる、強烈な意思とオーラめいたものがお分かりいただけるだろうか?歴史に名を残す数々の「よいアニメ」特有のそれと同じ感触は、個人的に我がアニメ人生オールタイムベストに近い「リズと青い鳥」を何度も繰り返し見ているときでさえ、ワタシを刺激するのに十分だった。
まだピンと来ない方もいらっしゃると思うので、少々ネタバレありでこちらを見ていただきたい。
ワタシが以前から放言しているところの「アニメはつまるところ動く絵と音でできている」、その真意がこんなにもはっきりと描かれているアニメは、そうめったにお目にかかれるものではないことを、ご理解いただけるだろうか?
いい機会なので具体的に話す。日本における「アニメ」とは何だろう?それは動画の枚数を減らしながら、新しい物語、視点、動き、構図、演出、音響、etc.を追求し続けた結果だとワタシは考えている。一言で表現するなら「何をどのように描きたいか」という作り手の強烈な意思と、それを成すため必然的に伴う苦闘の連続こそが、日本のアニメを日本のアニメたらしめていると、ワタシは思う。その意思を支えているのは、「こういう映像をモノにしたい」というアニメ監督の欲望である。エゴイスティックであればあるほどその欲求が強まるのは、故・高畑勲監督の仕事で一目瞭然であるし、「SHIROBAKO」で描かれた通りでもある。
要するに、子どもみたいにわがままで純粋なエゴを商業作品として形にするという大変に難しいことをやっているのが、日本のアニメでありアニメ監督であり、ということらしい。
さてようやく本題。映画「若おかみは小学生!」は高坂希太郎さんが監督を務めるということで、まずはそこで驚いた…驚かない人はこれ以上読まなくてよい。「茄子 アンダルシアの夏」「茄子 スーツケースの渡り鳥」から十何年ぶりだろう?あのオフビートでカラッとした作風からはかなり遠いと思われる、この児童小説をどのように仕上げてくるのだろうか。春から放映されたTV版「若おかみは小学生!」のていねいな仕事ぶりに毎週感心しながら映画の公開を待ちわびること半年、ようやく今日それを見ることができた。
親子連れ全員が楽しめる映画というのは、実はとても難しい。子どもに媚びれば大人はさっさと寝てしまうし、大人向けに話を振れば子どもは気が散って遊び始めてしまう。両方を納得させる方法論を確立しているのは、極論を言えばドラえもんやクレヨンしんちゃん、プリキュアあたりくらいなものだろう。近年のディズニーや最後期のジブリ作品でさえ、子どもが愚図る声が聞こえてきたくらいなのだから。
映画「若おかみは小学生!」は、親子連れどころか見た全員がほぼまんべんなく楽しめるという、ものすごく大きな仕事を成し遂げた。物語がクライマックスへ向かうにつれ、ポップコーンを食べる音が消え、子どもが立てる物音が消え、息を呑む音が聞こえ、しまいには鼻をすする音と嗚咽が聞こえ始める。それは先に述べた高坂監督をはじめ、TV版のシリーズ構成である横手美智子さんからバトンを受け取った脚本の吉田玲子さん、説明不要の重鎮・鈴木慶一氏の音楽、そしておっこちゃんが1年修行を重ねて成長したように、この作品に関わったスタッフの皆さんの努力があってこそである。
先に挙げた予告編のどこに、「よいアニメ」特有の強烈な意思とオーラめいたものがあるのかまだ分からない、という方のために少々アドバイスを。この作品が放つ色彩の豊かさと鮮やかさに、いまここでワタシが書くまで気づいた方はどれだけいらっしゃるだろうか?映画館の大きくて明るくきれいなスクリーンでこそ映える色というのは、デジタル4K画質が家庭向けに実用化された2018年においてさえも存在するのである。そしてそれを、実写では得られないほど自由自在に動かしている事の重大さに気づいた方は、おそらくもっと少ないだろう。日本アニメが連綿と紡いできた作り手の意思、それは想像力の結晶と呼んでも良いが、映画「若おかみは小学生!」は確かにその正当なる後継者と呼んで差し支えないと、ワタシは思う。
アニメはつまるところ動く絵と音でできている。
日本のアニメは総天然色の想像力でもって今もなお全速で前に進んでいる。
それを確かめたいなら、映画「若おかみは小学生!」を劇場で見よう。おっこちゃんの言葉を借りれば、よいアニメは誰も拒まない、全てを受け入れて癒してくれることが分かるだろうから。
長いことアニメファンを続けてきてよかったと、いま心の底からそう思っています。