これは難しい。
エピローグを見届けた直後、何となくホッとしてうっすら浮かんだ涙を隠しつつ、まるで久石奏に「この映画、良かったですか?センパイ」とでも尋ねられた気持ちになって複雑な顔をしながらそう思ったのを、正直に告白しておく。
なお今回は、作画と音楽についてそれぞれ分けて書くことにしたので、このテキストは主に物語の話が中心となる。以下、いつものようにネタバレ含めてつれづれと書いていくので改行を多めに:
「ユーフォ」シリーズの主人公であるユーフォニアム担当:黄前久美子が高校2年生へ進級した時代。北宇治高校吹奏楽部は、低迷から一転、強豪ひしめく関西大会を突破し全国出場という実績を勝ち取り、また、卓越した指導力を持つ若き顧問の(粘着)イケメン(悪魔):滝昇先生の存在によって、強豪校として一躍名を知られるようになった。
吉川部長&中川副部長コンビの新体制で迎えた今年度の目標は「全国大会金賞」。前年度にもう少しのところで叶えられなかったそれは、卒業生である田中あすかから託された「最後の副部長命令」でもあった。
ところが、あすかを筆頭として「いろいろあったけど吹奏楽を3年こつこつ続けてきた」卒業生たちが抜けた後の音には、新入生を加えてみても厚みが足りない。昨年度(の特に後半)と違って、緩んだ空気さえ漂うなか、低音パートに加わった新入生が揃いも揃って曲者だらけで…
物語のあらすじは以上。これだけ読むと一種のマンネリとも言えるが、石原監督とスタッフ陣は、今までの「ユーフォ」シリーズから、かなり大きく舵を切ったように感じる。それは「黄前久美子という個人を主人公として真正面から描く」映画にしたと思えるのが理由。TVシリーズでも劇場版1・2作でも目立った「語り部としての久美子のモノローグ」が大幅に減ったことが、何よりの証明だろう。それともちろん、「リズと青い鳥」という「久美子が主人公ではない」北宇治高校吹奏楽部という舞台と時間軸を共有した一種の並行世界が既に映画化されていることも影響していると思う。そんなわけで「誓いのフィナーレ」は、これまでの群像劇的な物語から、個人をクローズアップした作りにシフトしていることを、まずは強調しておきたい。
その上で現れるのは、皆から好かれる可愛らしさと確かな腕前を持つ、同じユーフォニアム奏者の1年生:久石奏。久美子に何かとつきまとう彼女は、実は愛想と毒を同時に振りまく、とても屈折した、はっきり言ってトラブルメーカーを絵に描いたような後輩である。久美子は1年生指導係として部の下級生の面倒をみながら、何かにつけ本心に探りを入れてきたり他人のパーソナリティをちくちく刺してきたりする奏をいなすのにも手を焼くことになる。
「誓いのフィナーレ」は「黄前久美子が主人公の映画」だと先ほど書いたが、もっと言ってしまうと、「主人公の黄前久美子と、何かと突っかかる久石奏の物語」である。
ここが、本当に難しいところだと思う。
TV版から劇場版1と2、「リズと青い鳥」をご覧になった方々、そしてもちろん武田綾乃さんが執筆している原作小説を読んでいる皆さんは、北宇治高校吹奏楽部の個性的な面々が織りなす物語の数々を既にご存知である。これを完全新規の100分のアニメ映画に落とし込むには、大量のエピソードをカットしなければならない。「リズと青い鳥」で希美とみぞれの物語をていねいに取り出してもなお、普通に作ればTVシリーズで2クール以上、映画で2〜3本ぶんくらいは余裕で作れてしまうくらいの話が、後ろに控えているのである。
おそらく石原監督とスタッフ陣はかなりの覚悟と慎重さと大胆さでもって、原作小説をシナリオと絵コンテとして刻み、これは個人的な想像に過ぎないが両者が出来上がった後もいくつかのシーンを泣く泣くカットして、「久美子と奏を軸に据えた」1本の映画に仕上げた。それはプロとして正しい判断だと思う。「誓いのフィナーレ」はあくまでも、ファンのためだけに作られたわけではない、一般の方々も見る娯楽映画なのである。本作の異様なほど軽快なテンポと、特にプロローグからオープニングで顕著なサービス精神は、その現れだろう。あれを見て「実質くみこラブストーリーじゃん!!!」って心の中で叫んだのは、ワタシだけではないはずなのだから。
それでも、とワタシは思ってしまう。あの構成である以上、誰でもコンクールの結果を予想できてしまう。せっかく出てきた新キャラクターにしても、今ひとつ掘り下げが足りない。鈴木美玲(みっちゃん)は、強気だけど人見知りなだけだったのか。鈴木さつき(さっちゃん)は、単に能天気なだけだったのか。月永求は、サファイア川島が暗に示しただけで片付けてしまえるほど軽い背景の持ち主ではないはずである。そして何より加部ちゃん先輩は、「チームもなか」を経て久美子と同じ1年生指導係を担当しながら、事情によって演奏者の立場から降りてしまうのだが、あれだけ久美子に関わった重要人物である彼女がエンドクレジットに表記されていないのは、いったいどういうことなのか。もっと言うとトランペットの1年生との(以下略)
こんなの、最初から分かっていたことだから。
あすか先輩がそんなセリフを言ったことを覚えている。短編集も含めると相当なボリュームと化した原作小説を100分の映画で描こうとしたら、エピソードを削りに削っても描き切れるかどうかというのは、最初から分かっていたことである。これが前後編だったら、これがTVシリーズ13話だったら、せめて尺があと30分長ければ、という仮定はたやすいが、1本の映画にした大人の事情が何となく透けて見えるのと、ひとりのファンとして、あれも見たかったこれも見たかった、もっともっと見ていたかったという強欲が、諦めともジレンマとも呼べない複雑な感情を呼び起こしてしまっている。冒頭に書いた
『まるで久石奏に「この映画、良かったですか?センパイ」とでも尋ねられた気持ち』
というのは、そういう意味である。
…以上は「めんどくさいユーフォおじさん」としての話。あらためて、本作を「久美子と奏の物語」として整理しておこう。「普段はボーっとしてて本音をついポロっと言ってしまう」久美子と、「誰とでも明るく接しているけど、本音を周到に隠し時々毒を吐いては探りを入れる」奏という、両極端すぎる性格をした2人がどのように成長したのかというのが、本作のテーマではないかと思う。
この2人の動きに意識を集中すると、この映画は違って見える。
2年生の久美子は、劇中ほとんど涙を見せない。対して、1年生の奏は、それまで意識的に避けてきたであろう己の感情に向き合わざるを得なくなった時、大粒の涙を流す。
久美子は中学生時代の麗奈の涙、大吉山での「愛の告白」、あすか先輩の生きざまを見たことによって、「ユーフォが好きだからユーフォを吹き続ける」と言い切ることができる。つまり彼女は、実は成長したというか自信をより深めたように見える。
一方、奏はユーフォを吹く動機をずっと見つけられずにいた。迷っていたと言ってもいいかもしれない。「黄前相談所」は、人当たりと付き合いの良さ、そしてその性格の悪さでもって、彼女から最高の答を引き出すことができた。
奏はおそらく、バスの中で感情のままに口走った言葉を一生忘れないだろう。それは紛れもなく彼女の本心であり、それこそが、彼女をひとりの演奏者たらしめるのに必要なスイッチだった。
表現者にとって、正負の感情は必要なものだ。
だからといって、感情の赴くままにしても良い結果が得られるとは限らない。出し過ぎても抑え過ぎてもいけない。
そしてその感情を、情熱という別のエネルギーに変換しなければ、表現者として成長できない。
久美子はそれを北宇治高校吹奏楽部の先輩と友人たちから学んできた。
だから、奏の嗚咽まじりの言葉を隣で聞いた久美子は、満足げに微笑んだのである。
「ひとつのレビューにふたつの結論を並べるのって、ずるくないですか?」
「これはワタシの本心だから」