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2019/04/29

「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」レビュー:作画編(ネタバレあり?)

「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」については、総論めいたレビューとは別に、作画(原画・動画・撮影・3DCG etc.)編と、音楽編を別立てで書くことにした。

本作にはそれぞれ語るべき要素が盛りだくさんというのが第一の理由だけど、プロアマ問わず書かれる大半のアニメレビュー的な記事がストーリーとキャラクターしか追わない現状を、何とかして変えたいという個人的な思いもある。ワタシが常々言っている「アニメはつまるところ動く絵と音でできている」という話を、もっともっとたくさんしたいというのが、正直なところ。

というわけで今回のお題、「誓いのフィナーレ」の作画について。


以下、ネタバレの可能性があるので改行を多めに:






「誓いのフィナーレ」のエンドクレジットを見て、ワタシが最も驚いたのは、「三好一郎さんが直接関わっていない」という事実だった。三好一郎=多田文雄=木上益治氏についての説明は(皆さんよくご存知だと思うので)省略するけど、その氏が関わらずともこのクオリティのアニメ映画を「半内製で」作れることを、まずは大きく評価したい。

それでも、と、ワタシは呟かずにいられない。『時には原画の時点でキャラクターのセリフさえ変えてしまうほど「アニメの何たるかを知る」』氏がわずかでも関わっていたなら、「誓いのフィナーレ」はもっと違うルックになっていたかもしれない、と。



今回のこの映画、「京都アニメーションにしては」絵面の荒さが目立つ。より正確に言うと、いつもの京アニらしい精緻な場面と、妙にぼんやりした作画が、凸凹に混在している。スタッフブログは通常であれば日々折々のものごとをしたためた内容が多いのだが、「誓いのフィナーレ」製作後半、おそらく2018年末くらいから書かれた内容からは、何か緊迫した、社内総動員的な空気がピリピリと伝わってきていた。それを読みながら、完全新作映画なのだから仕方なかろう、でも京アニさんのことだからきっちり仕上げてくるだろうと予想はしていた。その期待を込めて見た映画が上記のような「ちぐはぐな」印象だったため、ちょっと肩透かしを食らったような感触を持った。

この原因はワタシが最初から(「リズと青い鳥」と並行しているがゆえに)そうぜいたくに決めつけてしまっていたのが半分、そして、京アニの制作フロー、もっと言ってしまうと京アニというアニメ制作会社にとって、今後解決すべき大きな課題が露呈してしまった結果が半分だと思う。

まずは精緻な場面、これは特にサンフェスやコンクールの演奏シーンで顕著なのだが、何もそこまで手書きにこだわらなくても、という、美しいとかすごいとか言うより、執念を感じてちょっと畏怖するようなカットの数々に圧倒される。いくら見せ場だとは言え、ウィンドマシーンを3DCGにしても今さら誰からも文句は出ないと思うが、いかがだろう。PVに使うわずかなシーンを手書きしたために作画工数が大変なことになって仕方なく3DCGを採用したという噂の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」で、京アニさんは何も学ばなかったのだろうか。



もちろん、スマートフォンで撮ったプライベートムービーみたいな縦画角のカットでよく分かる通り、「誓いのフィナーレ」では、3DCGがより多用されているように思える。特に建物関係や室内などの背景は、かなり3DCG化が進んでいるんじゃなかろうか。手書きというか水彩画的な美しさをキープしたまま、言われなければそうと気づかないレベルで馴染んでいるので、その企業努力は素直に評価したい。

それとキャラクターがアップになるシーンでは、ぞくぞくするほど暴力的で艶かしいインパクトを持った絵面が続出する。こういうメリハリは手書きならではであるし、総作画監督や作画監督の皆さんをはじめ原画・動画担当の方々の面目躍如といったところだろう。それから忘れちゃいけない、ここぞというときに撮影で加わるエフェクトも相変わらずの輝きを放っていた。



問題はその中間。例えば音楽室などでちょっと上から引いたカットや、コンクールのステージ全体を俯瞰する3DCGなど。状況を説明するために必要なのは理解するけど、こっちにももう少し手を加えてもいいんじゃないかという些細なほころびが、個人的にとても気になるのである。



石原監督は「誓いのフィナーレ」を、これまでと同じようにやると最初に決めたという話を、どこかで拝見した。シリーズとしての連続性を考えるなら、その判断は正しい。しかし、楽器演奏シーンに代表される、あまりにも膨大に思える部分の作画工数を引き続き手書きして、そちらに手間がかかるあまり、ちょっとした隙が出てしまったとしたら、作品全体のクオリティコントロールという(京アニのストロングポイントのひとつだと個人的に思っていた)点に疑問符がついてしまう。

これは単純に、時間が無かったんだろうなと正直思う。なんせ当初のスケジュールから遅れること約半年、ようやく公開にこぎつけたのだから。よく完成させてくれたと感謝する反面、そろそろ限界なのかもと余計な心配をしてしまう。



「映画year」宣言前後の京都アニメーション作品は、スケジュールの遅れが目立つようになった。それは映画だけではない。「ツルネ」は当初2018年春に放送開始と言われていたはずが、気づいたら同年秋の中途半端な時期に始まって、年明けにいつの間にか終わっていた。語弊があるのを承知で言うが、あれだけ「京アニにしては」省力的な作りに徹しても、である(なお「ツルネ」自体は全体的にとてもよく出来た作品であったことを強調しておく)

前述した「京アニの制作フロー、もっと言ってしまうと京アニというアニメ制作会社にとって、今後解決すべき大きな課題」とは、クオリティを保ちつつスケジュールを律儀に守り続けることで勝ち取ってきた自社ブランドへの信頼と、業界でも異例と言われるほどホワイトらしい労働環境を、仕事量を増やしながら今後どのように保ち続けるかということである。

はっきり言って、今の京アニの少数精鋭的な方法論でもって、この課題を解決するのは無理があると思う。冒頭に名を挙げた三好さんの他、社内のかなりのメンバーが既に別の作品(Free!とヴァイオレットちゃん)の仕事に取り掛かっていそうだというのは差っ引くとして、それでも自社をこのままスケールアップできるほど簡単に人を雇えないのは、京都・宇治という地理的条件からも、業界の慢性的に流動的で不足気味の人材リソースの問題からも自明である。なので、どこかでさらに割り切って省力化をもっと進めるか、腕の良い外注さんやフリーの皆さんにもっと仕事をお願いするか、思い切って実力のある他のスタジオを買収するか、巨大資本から大型案件をもっと受注するか、どれかしかないと思う。素人のワタシには解決方法がこれくらいしか思い浮かばないのだけど。



気の早い話だが、「ユーフォ」シリーズの新作がこの先もアニメとして見られるかどうかは、まだ何も決まっていない。だけどワタシは、京都アニメーションだからこそ、「ユーフォ」シリーズをアニメとして魅力的に描くことができたと信じている。だから、京アニが現在のやり方に固執し続けるとしても、今は劇場に通いつつ、たまに宇治へ出向いたりして、もう少し「京アニのユーフォシリーズ」を応援し続けることにする。



散漫になってしまったので最後にひとつだけ。見せ場のズームアップ、時々挟まる妙なカメラワーク、何かにつけクルクルと回すカットはもう、石原監督のサービス精神の現れだと思う、思います。はい。

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