映画の最初から最後までスクリーンに釘付けにされながら、これほど多くの思考を巡らせられることになるとは、正直これっぽっちも予想していなかった。
今日、ワタシが見たものは、おそらく世界のアニメの歴史において、今後長く語り継がれる極めて重大な意味を持つ作品になるだろう。
あまりの衝撃に呆然としながらぼんやりそんなことを考えつつ劇場を後にし、まとまらない思考を弄びながらいったん寝て、少しは冷静さを取り戻したと思うので、「羅小黒戦記」のいったい何がそれほど衝撃的なのか、あらためて自分なりにまとめてみることにする。
端的に言えば、中国でこれほど超ハイレベルな「アニメ」を自国のみで作れてしまう、その事実こそがワタシを打ちのめしたのだ。
話の前に「羅小黒戦記」のあらすじを簡単に述べておく。主役の羅小黒(ロシャオヘイ、劇中に倣い以降シャオヘイと呼称)は、都会の片隅で暮らす、幼い黒猫の妖精。孤独で拠り所のない彼のところへ、ある日フーシーという妖精が現れ「私はお前の仲間だ」と告げ、シャオヘイを深い森のような妖精の隠れ里へ連れて行く。ようやく仲間と居場所を得たシャオヘイだったが、ムゲンという強大な力を持つ人間が現れフーシーたちを圧倒したのち、シャオヘイを隠れ里から連れ出し、ふたりはある場所を目指して奇妙な旅を続けることになる…
上記のファンタジーのような導入と、予告編の動画を見て、この物語の時代と場所の設定を勘違いしてしまう人がいるかもしれない。実際ワタシもそうだった。これは現代の中国国内を舞台にした話なのだ(さすがに地名は架空のようだが)。深い森から異様にハイテク化された都市へ話と背景美術がシームレスに繋がっていくさまは、ここ20年ほどの中国の各都市に住む皆さんが体験してきた「風景」そのものなのだろう。
我々は過去に似たような「風景」を体験をしている。それは「高度成長期」と呼ばれ、世の中の何もかもがあっという間に変化し、整備され、近代化し、様々なものごとが試みられ、そこで生み出されたものの多くが、2020年まであとわずかになった現代においても、我々の生活基盤となっている。
日頃楽しんでいる「日本のアニメ」もその基盤のひとつで、主に戦後から高度成長期にかけて、先人が道を開拓し、試行錯誤を経て、豊かな表現の土壌を育んだ結果である。
その先人たちの規範のひとつに、「ディズニー」があったことは今さら指摘するまでもないだろう。では、「日本のアニメ」は、別の国のアニメ制作を志す人たちの規範となっているのだろうか?
答はもちろん「Yes」。宮崎駿や押井守や新海誠といった各氏の名前を出すまでもなく、「日本のアニメ」は広く高い評価を得るところまで来た。また、ネットの発達によって、日本国内で放送されたTVアニメシリーズを、ほぼタイムラグ無しで見られるような環境も整っており、世界中のアニメファンが一緒に作品を楽しむことができている。つまり彼らが「animation」ではなく「anime」と呼ぶものは、我々が「ディズニー」と呼ぶ作品群と意味が一緒なのである。
ただ問題がひとつあった。「日本のアニメ」を見て育ち、それを作りたいと思う誰かが出てきても、実装できる人間がいない。すなわちアニメーターの不在である。日本のアニメスタジオが韓国や中国、東南アジア等へ原画・動画・背景等の下請けをお願いすることは昔から行われてきたが、質が必ずしも伴わないのは、我々の「常識」であった。「RWBY」という萌芽はあったが、あれは3DCGだったので、手書きで自由自在にキャラクターと物体と空間を操る日本のアニメーターの技術はだいたい日本でないとほぼ会得できず、結果として「海外のアニメ」は、頑張っているけど何か違うという印象が拭えなかった。
「羅小黒戦記」は、このような我々の思い込み、いや、思い上がりと呼んでも差し支えないだろう、そういうものを綺麗さっぱり吹き飛ばした。
現在の日本のアニメーターの総力を結集したとして、「羅小黒戦記」に匹敵するものが作れるかと問われると、あらゆる面において難しいと答えざるを得ない。
それほどに圧倒的なのだ。
いくつか例を挙げる。シャオヘイは妖精なので黒猫や少年、化け物じみた大猫などに「変身」するが、黒猫や少年のかわいらしい動きの表現は日本のそれ、もっと言ってしまうと宮崎駿氏を筆頭とした重鎮アニメーターの直系に見える。大猫の姿はさしずめ「もののけ姫」の犬神のようである。
旅をするシャオヘイとムゲンのコミカルなやりとりはそれ自体が思わず笑みがこぼれるほど楽しいが、その周辺に描かれる雄大で時には激しい自然や動植物の描きこみは「ポニョ」を想起させる。そこから超近代的な現代の中国の大都市へ舞台を移しても、描きこみの精度は変わらない。シャオヘイが彷徨う雨で濡れた夜の路地は押井守氏を、鉄道や自動車、バイクなども含めた巨大都市の描写は新海誠氏を連想させるが、実体を伴ったスケール感はむしろ上かもしれない。
また、ワタシでさえ描写のコマを追い切れなかったド派手かつソリッドなバトルシーンやエフェクト作画は、ドラゴンボールやナルト、進撃の巨人、甲鉄城のカバネリ海門決戦等のバトルアニメ、そして京都アニメーションやTRIGGERの諸作品から直接影響を受けているだろう。というか、ゲストで日本人のカリスマレベルのアニメーターを招き入れたのかと感じたほど。あれだけの長い時間、人体やオブジェクトと空間がアクションに合わせて「バラバラで同時に」動く描写に、どれほどの腕前のアニメーターがいったい何人関わったのだろう。冴え渡る動きに目を瞠りながら、彼ら彼女たちの他の仕事も見たい、そんなことを思った。
そして忘れてはいけない、ところどころに挟まる「いかにも日本アニメっぽい」使い古され記号化されたギャグのカットは、彼ら彼女たちが何を規範とし何を目指したのかをはっきりと示している。『自分たちは「anime」を作りたいのだ』と。
クライマックスで、シャオヘイの秘めた力を悪用したフーシーが街を吹き飛ばすための「球体」を作り出す。ああこれもどこかで見た、そうだ「AKIRA」だ。「羅小黒戦記」は日本アニメの総括として中国が作り上げたものだとすれば、オチに「AKIRA」を持ってくるとは何と皮肉めいたことだろう。
ご存知の通り、「AKIRA」は漫画家である大友克洋氏が自身のマンガをアニメ化したものであるが、当時の腕利きアニメーターをたくさん呼び寄せ完璧主義を貫いた結果、「日本のアニメ」の「特異点」として伝説化している。でもそれはあくまで、アニメ黎明期から先人が切磋琢磨して積み上げてきた「日本のアニメ」の長い経験があってこそ生まれたものだと思っていた。
しかし「AKIRA」を含めた「日本のアニメ」を食い入るように見ながら育った海外のアニメ制作者は、積み上げ期間を省略してスタートを切ることができる。参考にできる作品が膨大にあるのだから。「羅小黒戦記」の原作者MTJJ氏の本職は漫画家だという。何とも奇妙な一致ではあるし、「AKIRA」公開から約30年、物語上の時間である2019年に「羅小黒戦記」が見られたのも、何かの巡り合わせであろう。
よって、少なくとも「日本のアニメ」はもう「追われる側」であり、ゆえに、安穏としてはいられないのである。
かわいい黒猫の妖精シャオヘイの大冒険としてシンプルに見てもよい。
派手なアクションシーンを堪能してもよい。
最初から最後まで一切の妥協が感じられない作画や背景の冴えを味わい尽くしてもよい。
ひとつ希望を述べるなら、日本語吹替版を全国の映画館で上映してほしい。ひとりでも多くの人に、この「まんがえいがの正当後継者」の誕生の瞬間を目撃してほしい。
そして、いつか日本と中国が、フランクにアニメを共同制作ができるような環境が整うことを願ってやみません。その時はもう、我々が「追う側」になっているかもしれないけれど。