皆さんご存知の通り、本当にいろいろあってようやく2020年9月18日に公開された「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を、その数日後に(できるだけ人のいなさそうな時間帯と映画館を選んで)見て、さらに別の映画館でもう1回見た。初回観劇後に「必ず何か書く」と宣言したものの、自分の思考がどうしても人に読ませられるようなものにはならなさそうで、悶々とした気分を抱えて他の映画やTVアニメなど見ながら、実はボンヤリしていたことを最初に告白しておく。
こんな感情を抱いて見るのは、この映画が最初で最後になるかもしれない。
言いたいことは上記のひとことに集約される。以下、レビューの体裁を取らず、まとまりのないテキストを放出することにする。一般的なレビューや作品論は他の皆さんが既に山ほど述べられているので、そちらをご覧ください。
映画館の座席に腰かけ手持ちの荷物を足元に置き一息ついて、「映画泥棒」の絵面と音でそのスクリーンの質感をチェックするのは、ワタシが映画を見るときのルーチンワークだ。
「映画は絵と音で出来ている」
「ようこそ映画音響の世界へ」を見たことで、ワタシがアニメについて常々言っていたことが、単なる出まかせどころか映画界での一種のテーゼであるという確信を得たので、ワタシの目と耳はそのようにアップデート済みだ。右側の耳鳴りは相変わらず残ったままだけれど、慣れてしまえば、映画に没入してしまえば、すぐに忘れられる。
今日の目標は全体のディテールを確認すること。
誰よりも細かく。絵の1コマ1コマと、そこに置かれた音をできるだけ覚えること。
何をそんなに意気込むのかと思われそうだけど、当日のワタシは半ばそんな義務感に駆られていた。まあそれは、松竹さんの富士山、そして京都アニメーションの地球が大写しされた開幕だけで、胸がいっぱいになってほとんど雲散霧消してしまったのだけれど。
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冒頭に述べた通り、この映画は本当にいろいろな出来事が重なって、公開が何度かの延期を余儀なくされた。その出来事が生半可なものでないことは我々がよく知るところで現在進行形でもあるので、詳細は述べない。ただ個人的な想像ではあるのだけど、吉田玲子さんの脚本は2019年の春頃には既に完成していたはずで、絵作りのほうも当初のスケジュール的にはかなり進んでいたことが、様々な情報を追っていくと伺えた。
であれば、その線、その色を、できるだけ逃さず見る。記憶する。当然の帰結だ。
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しかし、この直球と言えるほど王道なラブストーリーは、(TVシリーズで描かれたように)戦争という大きな出来事から文明が進歩して、同時にそれまで大切だったものごとが忘れられてゆく時代を背景に、さらに時間のスケールを大きく取ることで、見る側へ「鳥のように」物語を俯瞰することを要求してきた。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という名を持つ女性の生きざまを俯瞰せよ。
1コマごとのディテールをできるだけ記憶するという目標は、この仕掛けが判明した時点で早々に放棄された。
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劇中、ヴァイオレットちゃん(愛称)が
「忘れることは難しいです」
と言った。それは彼女の育ての親にして、戦いの中で別れを強いられたギルベルト少佐への募る想いの吐露なのだけれど、良いことだけを覚えていて嫌なことは忘れたり避けたりしがちだったワタシには、その言葉が重い金属のように鈍く光って感じられた。
忘れることは難しい。良いことも、そうでないことも。
ヴァイオレットちゃん(愛称)の回想として挟み込まれる、戦場のカット。
彼女が代筆の仕事を引き受けた入院中の少年が、危篤化し苦しむさま。
この線を描いた人はどんな想いでこれを描いたのだろう。
この色を塗った人はどんな想いでこれを塗ったのだろう。
これを仕上げた人はどんな想いでこれを仕上げたのだろう。
この音を入れた人はどんな想いでこれを作ったのだろう。
これを監督した人はどんな想いをこの映画に込めたのだろう。
ひとつ言えることは、そうすることで少しでも忘れられる人たちが作業に没頭したんだろうということ。ヴァイオレットちゃん(愛称)が窮したときに必ず、代筆の仕事へ向かい続けようとしたように。
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これまでの京都アニメーションとこれからの京都アニメーション。確かに今までと同様に見えるのだけど、だが、何かが違う。違っている。ワタシの五感がそう訴えている。でもそれが良いのかそうではないのか、ワタシには分からない。たぶんこれからも分からないままだ。
そして劇中で述べられている通り、時代が変わり、多くのものが忘れ去られるのは世の常だ。
ただ、変わらないものもある。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という女性が書き記した数々の手紙。
これからも作り続けられる京都アニメーションの作品。
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この映画をあと何回か見たら、ワタシの気持ちもようやく一区切りつけられそうだと思った。本当にいろいろな出来事が重なり過ぎてしまって勇気を出せなかったというのが正直なところだったのだけれど、いずれ時が来たら西へ向かうことに決めた。
時間は戻せないけれど、われわれの記憶は生きている限り、こころのうちに留めておくことができるのだから。