For short, " I. M. G. D. "
Established : 1997/12/07

Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2015/12/19

トラックボールを変更

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ワタシのPC環境はずいぶん前からMac mini (Early 2009) を中心として構成されていて、入力デバイスからデータバックアップシステムまで数年単位で変更せず使ってきた。今回話題にする入力デバイスのひとつであるトラックボール(ロジクールM570)は、約3年前に腱鞘炎の悪化を予防するため知人のアドバイスで導入したもので、  少々手を入れて以降は快適に使うことができていた。

ところがここ数週間、どうにも調子がおかしくなってしまった。具体的には左クリックが確定されなかったり勝手にダブルクリックと認識されたり…いわゆるチャタリングの発生である。「M570 チャタリング」で検索すると同様の症状多数、自分で内部のスイッチを交換する猛者も見つかったりしたが、実はこの機種、3年無償保証(!)の対象らしく状況によっては新品交換になる場合もあるっぽいので、いつ買ったかははっきり覚えていないがとりあえずサポートへ連絡することにした。

で、結果どうなったかというと、電話と数回のメールのやりとりの後、自分の手元にはM570tという同製品のマイナーチェンジ版トラックボールが届けられた。製造番号の確認により購入3年以内であることが分かり、通常利用による不具合の範疇だと認められたわけである。代替品をさっさとよこして元々の品はルールに従って処分してくださいねというロジクールの太っ腹でスピーディかつ割り切ったサポート姿勢に感服しつつ…本題はこれから。

最近エレコムがトラックボールの新製品を立て続けに出して、一部で話題になっているが、実はこの製品群の前モデルが存在していて、ワタシはモデルチェンジ直前の在庫処分時にちゃっかり1つキープしていたのだった。ていねいな対応をしてくれたロジクールには申し訳ないが、せっかくの機会なので今回はこちら、M-XT1URBKを棚の奥から引っ張り出して使ってみることにした。

さてこの機種、M570と比べて若干小ぶりで人差し指左側の「進む」「戻る」ボタンの位置が窮屈に感じるものの、全体的な感触はM570と大差なく、すぐ慣れることができた。トラックボールやチルトホイール、各ボタン類の感触はこちらのほうがいいので、通常利用なら甲乙つけがたいなあと思う。

しかし、細かな設定などをしていくと少々困った問題がひとつ。エレコム製品はマウスアシスタントと呼ばれる自社製ドライバをインストールして各ボタン類に機能(≒キーボード入力)を割り振ることができるのだが、tabキーが「任意キー」のメニュー内に無く、例えば「control+tab」といったキーコンビネーションが設定できないことが発覚!ブラウザ等のアプリケーションのタブ切り替え等にtabキーはよく使うし、そもそも「任意キー」以外のメニュー内にはtabキー入力がしっかり用意されている(=tabキーだけをボタンに割り振るのは問題なくできる)ので、何を考えてこんな仕様にしているのか正直意味不明である。これじゃあ画竜点睛を欠くなあと思い、エレコムのサポートへ要望を上げておいた。…が、ずいぶん前にエレコムのBluetoothマウスを買ったときも同じ問題に当たってぶん投げた記憶が…ハードウェアが良くてもソフトウェアがタコだと商品価値が下がるという現代のものづくりの難しさの一面とか、そういう話なのかもしれない。些細なことだけど。

ともかくこのトラックボール、上記の不満点を除けば今のところ問題なく快適に使えている。新型では左手用や人差し指操作タイプなどちょっと変わったモデルも積極的に展開している同社には、トラックボール愛用者として今後とも期待したい。入力がストレス無くできればそれに越したことはないので(特に人差し指操作タイプはすごく気になってる)。

2015/12/14

ボカロブーム8年とナユタン星人の登場に思う

誰も書かないなら早い者勝ちということで、ナユタン星人さん(以下敬称略)について思うところをつれづれと書く。端的に言って、2015年の夏にナユタン星人がニコ動に現れたのはひとつの事件であり、また、ボカロブームがもたらした必然だとわりと本気で考えてるのだが、本稿ではそれを何とか説明したい。ちょっと手に余りそうで自信がないが。

とある方がナユタン星人を評して、「正解しか選んでいない」と言ったのを覚えている。ここでの正解とはDTMの音源選びから作詞作曲動画制作のメソッド、ニコ動で伸びるためのスタイルの取り方やプロモーション手法など何から何までにあたる。つまりナユタン星人は2015/07/01の登場時から、誤りなく迷いなく突き進んできたように見える。異星人だから当然っちゃ当然だけど。

さてニコ動でのボカロ楽曲ブームは初音ミク登場から数えて8年を超えたわけだが、一種の熱狂から醒めた現在は、2010〜13年頃に持て囃された「いかにもボカロ曲っぽいスタイル」…高速で細かく刻むリズム構造、難解な漢字熟語を多用した内省的自傷的歌詞、四隅が黒っぽくてキネティックタイポグラフィ的なPV等…の氾濫が落ち着いて、制作者はわりと自由にやっているように感じる。その引き換えとして爆発的な再生数を稼ぐ作品は以前のようにはなかなか出てこなくなったのだが、今回はどちらがいいとかそういうレベルの話はしない。重要なのは、そのような状況下でナユタン星人が全く何もないところからじわじわと侵略話題を呼び、結局ほとんどの発表曲がヒットしたという事実である。

実際にナユタン星人の作品を視聴すると、どれも非常に洗練されていて、かつキャラが立っていることが分かる。それは前述した通り誤りの無さ迷いの無さゆえだが、このセンスはどこから出てきたものだろうか。当人が異星からやってきた存在なので全く想像の域を出ないが、音楽好きであるのはもちろん、かなりの確率で相当なニコ厨、それもぼからんを毎週チェックしたりVOCALOIDタグを全て聴き漁るようなボカロ廃であることが理由にあるように思う。その体験を異星人の頭脳はデータベースとして蓄積して分析して、どうすればヒットするかのノウハウとして自らの作品に適用しているのだろう。

ここでワタシが思い出すのは、かつてあったひとつの音楽ムーブメントである。古今東西のレコードを山ほど買い漁り、サンプリングと引用を駆使して新しい作品として発表する…渋谷系と呼ばれるそれは現在ではひとつのジャンルとして認識されているが、ここで強調したいのはいわゆる渋谷系の曲調ではなくて、バックグラウンドとなった巨大な音楽ライブラリの存在と、スタイリッシュなサンプリング・引用という手法である。ナユタン星人にとってのそれらはもしかすると、8年にわたってニコ動に蓄積された膨大なボカロ楽曲群と、性能・機能的に洗練されたDTMという編集ツールに相当するのかもしれない。おそろしいのは、渋谷系的なそのアプローチを2015年のニコ動でやっているのがたったひとり(確認されている限り)で他には誰も見当たらない感じというところだが、本人は異星人なので案外けろっとしてそうである。

最新作でありアルバム「ナユタン星からの物体X」のラストを飾る「ストラトステラ」の歌詞に一言こうある。

「だから、さよなら」


…そういえば「全ての言葉はさよなら」って曲があったなあ、とドキリとしながら、メロウで瑞々しい歌詞を噛み締める。ワタシにはもう遠くなってしまった場所の歌だが、異星人なら時間も距離も問題にさえしないだろう。そしてワタシは天体観測に戻る。異星人の放つ輝きを待つために。



追記:本当は「曲単体もアルバムも短くて潔いのが特徴のひとつ」とか「初音ミク成分が最初から限りなく抜け落ちてる」的なことなども書きたかったけど冗長になるので次の機会に

公開しました> #2015年ボカロ10選 +1

今年はたぶんやらないと言ったな、あれはウソだ。というわけでボカロリスナー年末恒例のボカロ10選をついやってしまった。今回は勢い余って1曲はみ出て合計11作品。

http://www.nicovideo.jp/mylist/54145167

2013年は年末にいろいろあって2014年はほとんどネットから離れていたから、こうやってまとめるのはたぶん3年ぶり。日常的に書いていた楽曲レビューもすっかりご無沙汰しているので思うようにアイディアが出てこず不満の残るリストとコメントになったが、現状ではこれが精一杯。もし期待されていた方がいたとしたら申し訳ない。

与太話はともかくリストを改めて眺めてみると、我ながら振り幅が大きいというか好みがハッキリしてるというか節操がないというか…。ニコ動のボカロ楽曲から大きなトレンドが失われたように見える現在、あえてその中をクロールするボカロリスナーが作品を選ぶとその趣味と嗜好が以前よりも色濃く反映されてしまうのだ、と、もっともらしい言い訳を述べておく。

総評としてはそんな感じで、選曲した各作品についてはマイリストのコメントを参照してください。それとナユタン星人さんについては章をあらためて書く。氏が2015年に現れたことこそが一連の行動の動機なので。



2015/12/25追記:廻転楕円体さんの「収斂する退化」が再投稿されたので「双頭の零」と入れ替え

2015/11/10

BloggerにTwitter Cardsを設定

event_note
このブログはGoogleが提供するサービスのひとつであるBloggerを使っているのだが、以前から気になっていたTwitter Cardsの設定を実験がてらやってみた。

まずいつもの通り、検索して引っかかったこちらの方法を丸パクりしてみた(Twitter IDは当然自分のものに変更)。

そしてCard validatorに行ってURLを入力してみたが、"Required meta tag missing"とか言われてしまった。

こりゃいつものごとくTwitterかBloggerに仕様変更があったのかなとも思ったが、エラーの内容から考えると追加したmeta tagのmetaDescription部分に問題がありそうとアタリをつける。少々調べたところこんなページを発見したので、ここに書かれた通りにBloggerの管理画面>設定>検索設定>で「検索向け説明を有効にしますか?」のチェックボックスを「はい」にして保存。そしてページ編集画面に現れた「検索向け説明」欄に適当な文言を放り込んで、再度チャレンジ!

できた!

…のはいいんだが、最初の方法に書いてある「Request Approval」ボタンやら申請画面がどこにも見当たらない。試しにブログのURLをツイートしてみたらそれっぽい表示になったので、結果オーライこれでよしとする。こんないい加減でいいのかと自分にツッコミつつおしまい。

2015/11/09

ボカロ系批評サークルは衰退しました(?)

いつものようにTwitterのTLを眺めていたら下記のようなツイートが流れてきた。



それを受けて我らが「DAIM」のボス・しまさんのツイート

中村屋与太郎氏率いる白色手帖は、「VOCALO CRITIQUE」とそれに続く「ボカロ批評」の発行によって、同人活動におけるボカロ批評界(って便宜的に呼ぶけど実体がどういうものかはここでは定義しない)のフロントランナーであり続けた。まずはそのバイタリティと功績に敬意を示したいと思う。

一方、しまさんが指摘する件だが、我々「DAIM」は元々ボカロだけではなくネット上の同人音楽を広く対象として個別にレビューするという方針を取っているため、厳密な意味ではボカロの批評(だけ)を目的にしたサークルではない。ボカロが同人音楽のなかでも比較的アクティブな話題であり、また、ボカロから同人音楽に入ったためボカロと親和性の高い(=ボカロ好きな)レビュアーが集まり、その結果としてボカロ曲を多く扱っているというのが、「DAIM」がボカロ寄りに見える理由である。

ともかく、同人活動におけるアクティブなボカロ系批評サークルは、我々「DAIM」がいるだけになってしまったようである(以前は「Vocapedia」や「Vocalo Imagine」といったユニークな本で賑わっていたものだが。VOCA'ONは元気だろうか)。とはいえ(すっかり何も書かなくなってしまったワタシが言うのも何だが)「DAIM」も開始当初のスタイルから変化してwebマガジン+不定期刊行の冊子という活動形態に落ち着いており、何より上記のように音楽以外の話題の受け皿とはならないため、白色手帖が広く扱ってきたような「ボカロ現象」的なものについて何か発表するためには、個人でなんとかする以外の道がなくなってしまったようにも見える。

「ボカロ現象」的なものへの言及というのは、例えばSFマガジンやユリイカで特集された記事や、また現在だと、ミクダヨー展や金沢21世紀美術館で展示されているGhost in the Cell:細胞の中の幽霊等について語ることを想像してもらうと分かりやすい。電子楽器の一種であるボカロによってアマチュアによる音楽作品が爆発的に発表され、同時に、電子楽器という枠からはみ出して映像や芸術、文学、もっと大きく文化や経済さまざまな方面に大きな影響を及ぼしたこと、それらについてまとめて発表するのが別に学者や専任の記者・ライターの特権ではないのは、白色手帖を筆頭としたこれまでの同人的ボカロ批評活動が示してきた通りである。一方、「DAIM」が当初ネットを主体に活動していたことからもお分かりのように、その論文めいた何かを必ず本という形態で頒布しなくてはいけないわけでもない。現状では、思い立ったときに然るべきサービスを使ってブログを書き公開してしまうのが最も手っ取り早いだろう。

では実際のところどうなのか。積極的に探したわけではないが、そういったボカロ批評系ブログはあまりバズらずニュースサイトの記事がTLに流れてくるケースの方がずっと多いように見える。この「思い立ったらすぐ書いて発表できる」にも関わらず「書かれた結果」を目にすることはあまり無い状況を逆に考えると、思い立つ人やそのモチベーションが減った、ということも言えてしまう(「すぐ思い立つけど書くことに対して何故かものすごく腰が重くて結局何も書かない人」というのは「DAIM」メンバーに限らずたくさん見たけど)。これは、ある側面では事実だと思う。あれだけ発行されていたメジャー出版社の各種雑誌がほとんど無くなってしまったのが、その傍証である。しかし、別の側面…我々おっさんではない、今まさに熱狂している層(その多くは小中学生らしいが)を見渡してみると、ボカロ小説が読まれ、絵が描かれ、キャラクターとして愛されている、らしい。その彼ら彼女たちの中には、ボカロに対する新しい価値観が育まれているはずなのだ。こういう現場を取材するとそれだけでひとつ記事ができそうだから誰かやりませんか。

閑話休題。ここまで書いてやっと、ボカロ批評界は今がある種の世代交代の時期なんじゃないかという結論とも妄想ともつかないところに達した。約8年にわたる「ボカロ現象」がひとまとまりの歴史として認知され、新しい切り口の批評がそろそろ出始めるころなんじゃなかろうか。それを納める容れものはきっといつか然るべきかたちで現れるだろう、と、白いページの後ろに書いてひとまず閉じることにする。

…中村屋さん、今度一杯やりましょう。

2015/10/14

ニコ動のボカロ音楽における単色背景派について

こういうのは深く考えずざっくり書き散らしてしまおう。

ニコ動のボカロ音楽デイリー新着チェックをしなくなって2年近く、それでも最近はサムネだけでもボンヤリと眺めて気になったものを少々聴いたりしている。

そんななか浮上してきたのが、「単色背景で全体の色数が極端に少なくフォント表示がおおむねソリッド」な動画を上げる皆さん。ここでは例によって勝手に「単色背景派」と呼ぶ。

代表的な作家(と言っても全体から見ればごく少数だが)を下記に示す。

  • ナユタン星人さん



  • anomimiさん



  • みみみエナさん



ご覧になってお分かりの通りこれまでにも存在していたスタイルではあるのだが、世間一般のフラットデザインの潮流を照らし合わせて見ると、うまく説明できるのではないかと思う。一目見て分かるキャッチーさ、縮小しても損なわれない視認性の高さ、シンプルに構造化され華飾を排したデザイン志向、etc.。当然そのような考えは各自のサウンドデザインにも当てはめることができ、これまで続いてきたボカロ音楽の単なるフォロワーとは一概に言えない魅力を放っている。

情報と音圧と音符を詰め込むだけ詰め込んだ過剰なPVがもてはやされた時代から数年、個人的な休止期間がミッシングリンクになってしまったのが痛恨の極みではあるのだが、その後にこういう音楽や映像が育ってくるというのが何とも興味深い。実際、ナユタン星人さんは現在発表している4曲ともヒットしており今年の顔のひとりになりつつある。このスタイルが次の時代のスタンダードになるのか、長い目で見守りたいと思う。

2015/09/06

パストフューチャー・マジカルミライ

Twitterで皆が絶賛しているのを見て自分とのギャップにかなり戸惑いながら、おそらく少数派になるであろうワタシの意見を今のタイミングでまとめておくのも決してマイナスには作用しないだろうと信じて、努めて冷静に書こうと思う。あらかじめ断っておくけど単なるdisならPV目当てでもっと露骨にやるからご安心を。もちろんこのエントリへの批判も謙虚に受け止めるつもりでいる(特に座席の位置が違っていたら印象はかなり変わっただろうと感じていることは先回りして白状しておく)。

2015年9月4〜5日、歴史的な事実として後世に語り継がれるであろう「バーチャルアイドルによる武道館単独ライブ」が決行された。この「マジカルミライ2015」自体は別館で開催される企画展なども含んでいるが今回は省略して、ワタシが見た4日夜の公演について感想その他を述べる。

ワタシの座席は1階西側でステージ中央から見て斜め30〜45度という感じ、これではディラッドボードに投影されるCGその他を細かく観察できないと早々に諦め、左にステージ、中央から右に観客席という風景を眺めながら、ハジメテ訪れた武道館という場所でミクが唄いバンドが奏でてPAから飛び出す音に浸ろうと決めた。「武道館の音響はよろしくない」という通説が一抹の不安として頭をよぎったのだが、最初からネガティブになっててもしょうがないと自分に言い聞かせていた。ライブが始まるまでは。

しかし、1曲目の「Tell Your World」が流れたところで先の不安が現実味を帯びてきた。低域の分離が悪くてキレがない。音圧がもの足りない。4曲目の「独りんぼエンヴィー」が終わった頃には、もう自分をごまかせなくなった。似たような傾向の選曲と似たようなアレンジ。演奏がひたすら一本調子で緩急や押し引きがなくリズムやビートにグルーヴ感が無い(しかもたまに演奏が走ったりして不安定だしミスもあった)。これらの瑣末と言えば些末な問題が最後の最後まで気になって結局ワタシの意識はそれに持っていかれてしまって「みんな本当にこれでいいの、満足なの」という疑問で頭の中がいっぱいになり、ライブに没入することなく「ハジメテノオト」を迎えてしまった。

終演後に皆が言っていた「新曲が多かった」というのは作品そのものの発表年ではなく「初音ミクの公式ライブで新しく演じられるもの」という意味であり、セットリストを眺めれば有名Pによる数年前の大ヒット曲(特にProject DIVAがらみ?)を並べているだけにも思えるので、本当の意味で新曲と言えるのか、新進気鋭の作曲家の作品を選ばず保守に逃げたんじゃないかという疑問は残る。また、合間に挟まる古参ホイホイ的な定番曲のチョイスはなかなか鋭いものを感じたが、出だしの「Tell Your World」は大感謝祭で、ラストの「ハジメテノオト」はMIKUNOPOLISでそれぞれ以前にやったパターンなので、個人的にサプライズは無く過去の資産の焼き直しという印象を全否定するまでには至らなかった(ワタシが知らない他の公演でも同様の構成があったかもしれない)。

一方、ステージ演出に関しては今回かなり見るべきものがあった。ディラッドボードへの投影はよく見えなかったので自分の意見は保留するとして、話によるとずいぶん鮮明だったようだからキャラ好きな人は満足できたんじゃないだろうか。また、2015年のキービジュアルである四角やキューブ状モチーフのステージ美術への組み込み方、ライト、ステージ両脇のLEDアレイ、レーザー、ミラーボール、スモークといった装置の使い方はとても洗練されていたと思う。ディラッドボードや後方スクリーンへの映り込みも計算に入れたんじゃないかと思わされるほどライティングがビシッと決まる瞬間が何度もあって、そこは場数を重ねてきた経験の賜物であろうと素直に評価したい。

それゆえ一層、まるで「2010〜13年頃のボカロックを演奏してみた」的なセットリストと出てきた音が現在の視点から見ると既に過去のものでステージ演出とのギャップを生じさせ、2013年の横浜アリーナ(で失望した最大要因)から本質的にアップデートされていない、進歩していないように思えて仕方なかったのである。2010年代半ばにギターをかき鳴らしてギューンってやって解像度を気にせずベタッとした音を出してロックですって言って面白い?…今でも面白い人はいるんだろうな。ロックはもはや古典として慣れ親しまれていて最新であることは必ずしも要求されないものだし。しかし例えば、セットリストからアゴアニキが消えラマーズPが消えOSTER Projectが消えたように、ステージ上からポップな多様性が排除されてしまった事実は指摘しておきたい。繰り返しになるようで恐縮だが、今回特に「ロックな初音ミク」を見たかった人のほとんどは武道館という場所の象徴性も込みで諸手を挙げて賞賛するだろう。だが、実際に演じられた「初音ミクのロック」は、ワタシにとってバーチャルアイドルにふさわしい未来を感じさせるものではなかった。「これがクリプトンフューチャーメディアというロックバンドの音です」と言われたら、もう「ごめんなさい」と頭を下げるしかない。と、ここまで考えて、これは本質的にマジカルミライというライブのサウンドコンセプトとワタシの相性の問題だと思い至った。横浜アリーナから2年を経ても印象が変わらないというのはそういうことなんだろう。

ボーカロイドは「歌声合成ソフトウェア」である。キャラ成分を抜いて考えたときにそれは「歌声」すなわち「音楽」と不可分と言える。新しいテクノロジーによってもたらされた「歌声」は新しい「音楽」とともにあってほしい、そのライブを公式と名乗ってやるからには、「ステージ上に投影された大きな嘘」であるところのボカロキャラを活かすために、周りを彩る「音楽」は偽りなく新しくて精緻を極めていてほしい…というのはワタシの勝手な願望である。そして公式ライブがワタシ個人の想いを実現する場である必要なんかこれっぽっちもないので、上記に書き連ねた不満は無い物ねだりそのものである。満足できなければ自分でライブイベントを企画するか今まで通りニコ動で新しい曲と新しい作家を掘って妄想を膨らませていればよい、ただそれだけの話なのだから。目ざとい何人かはもう気づいてるっぽいけど、「ポストロック」ならぬ「ポストボカロ音楽」的な萌芽は確かに感じられるからね。

2015/09/01

小ネタ:久しぶりにダイエット

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食欲がいまひとつコントロールできなかったのと満足に運動をしなかったことなどが重なって、気づいたら腹の周りに余分な肉が目立つようになっていた。こりゃいかんと思いダイエットを決意したのが7月初旬、結果から言うと2ヶ月で約4kgの減量に成功した。先日久しぶりに知人と会ったが「何だか精悍になった」と言われるのはやはり気分がいい。

方法としては別に何か特別なことはしておらず、摂取カロリーを控えて適度に運動しただけ。初期はとにかく毎日の食事を見直して夕食を冷奴だけにしたり晩酌をしなかったり外食を控えたりして、その後に、腹筋やスクワットといった室内でできて大きな筋肉を動かすトレーニングを、適度な負荷&数日に1度の自分的に無理がかからないペースで実行した。

それともうひとつ、7月に実家へ帰省したのを皮切りに、この2ヶ月間あちこちへ出かけたのも大きい。単なる散歩以上の距離を歩くのは、それだけで十分な運動になってダイエットにも効くというのを実感した次第。あと猛暑が(必要以上に)身体への負担を増してくれたのも大きい。

さて減量の目標はあと2kgというところなんだが、その程度の体重はだいたい誤差の範囲ではあるので、これからは徐々に維持の方向へ意識を向けていくことにする。まあ自分の場合、ポテイト&コーラの暴飲暴食あたりを我慢すれば大丈夫大丈夫…。

2015/08/05

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(11:宇治へ行ってちょっと考えた)

劇中で麗奈が18きっぷでどこかへ行きたくなる衝動を語っていたが、似たような気分にあてられて、7月の終わりに京都府宇治市へ行ってきた。今回は、いわゆる「聖地巡礼」とも呼ばれるアニメ等の舞台となった土地での見聞とそのつれづれを、結局長くなってしまった連載のまとめとしてお送りしたい。なお撮って出しの写真はこちらのツイート群をご覧ください(iPhone 5Sのレンズが汚れたまま撮ったのもあるので最後の方ほど見苦しくて恐縮だが)。


いきなり白状すると、長いことアニメファンを自認してきたワタシが「聖地」へ赴くのは初めてだったりする。近年は特に「ガルパン」での大洗町が有名になったが、その気になれば行ける距離にある場所が多数あったにも関わらず、そこまでしようと思わなかったのが正直なところだった。

じゃあなぜ今になってということなんだが、「ユーフォ」における宇治市の背景描写があまりにも「執拗」なので、そのディテールを直接この目で確認したくなったのがひとつ、そして、このアニメがだいたい2015年4月から8月くらいという現実の時間軸に沿って進行していくので、その時期のうちにリアルの宇治へ行けば、劇中で描かれているものごとの理解が深まるのではないかという当てずっぽうな期待がもうひとつ。で、徒歩で移動するのに都合がよい晴天が予想でき、かつ、昼が長く写真を撮れる時間が多くなる季節、そして「屋外で活動してたらうっかり鼻血が出る暑さ」を体験できそうなタイミングを選んだら、梅雨明け後の7月下旬が狙い目という結論になった。原作小説も考慮して、あがた祭や花火大会といった地元のイベントに合わせる手も考えたのだけど。

旅程は、リソース節約のため首都圏から京都への長距離移動に夜行バスを使い、京都市内から宇治、宇治市内の移動はせっかくなので京阪電車の1日フリーきっぷを利用した。夜行バスに関しては道中で充分に眠れるなら快適という経験則に沿っているが、正直あまりオススメしない。逆に、上記の1日フリーきっぷは劇中の各ロケーションを見て回るなら必須だと思った。主人公の久美子をはじめとした登場人物が京阪電車を使う場面がたくさん出てくるので電車移動は合理的ではあるんだが、他の「聖地」がどうかはともかく宇治市内はクルマでは小回りが効かず自転車でもちょっと距離と高低差があって苦労しそうな気がする。あのへんを楽器持って自転車通学するなんて吹奏楽部員は相当な健脚揃いだよなあなんて後で何となく思ったりした。


現地へ着いてから思い出したのだが、宇治は本来、自然があふれ、歴史やお茶や鵜飼いといった観光資源に恵まれた街である。と同時に、宇治市は京阪都市圏のベッドタウンとして機能しているらしい。「ユーフォ」では前者にはほとんど脚光が当てられず、どちらかというと後者の、ありふれた日常生活空間としての宇治が描かれる。が、そのディテールが異様に細かいのは繰り返し述べてきた通り。その理由を考えたが、最終的には「京都アニメーションがある街だから」という他愛のないものに落ち着いた。街を歩いていても「アニメーションでまちおこし」的な看板が立ってるわけでもなく、道ゆく人たちがそれを意識しているわけでもなく、普通に地元産業のひとつとして京アニがある、そんなふうに感じた。そして、京アニの中の人が今まさに生活しているそのような街を自らが手がけるアニメの舞台に据えたら、そりゃあ解像度は上がりまくるけど見せたくないものは描かなかったりボカしたりするでしょ、とも思った。あの背景描写の細かさと被写界深度の浅さは演出手法のひとつではあるが、きっと一種のプライドのあらわれと照れ隠しでもあるのだろう。


さてそのディテールは、劇中その他の情報を参考にしながら宇治の街をくまなく歩くことで本当に多くの風景として発見できた。帰宅してから録画を見直して「ここ通った!」と気づく場所も多く、事前に下調べをあまりしなかったことが逆にクエストっぽい感覚を覚えさせてくれたことはうれしい誤算だった(大きな鳥が飛んでるだけでOPで見たと感激するレベル)。ただ、夏の盛りにいい歳こいたおっさんが汗だくで街をとぼとぼと放浪している構図はいかにも怪しく、そういう意味では地元民に偽装するか観光と割り切ってしっかり準備してピンポイントで行ったほうがよいようにも思う。とにかく「聖地」と呼ぶには日常的すぎる場所が劇中のロケーションとして広範囲に使われており、そこをわざわざ見に行くのは時間もかかるし地元の方々からすれば変としか言いようがないからである(まあ後者は作品の認知度が上がれば自然と解消するだろうが)。それと宇治は山坂が多くて歩くと想像以上に疲れるのは強調しておきたい。例えば大吉山は市街地からびっくりするくらい身近な場所にあるけど、いざ登ってみると長くて急なつづれ折りで足を取られそうになる。誰かさんみたいにハイヒール的な靴では確かに怪我しそうなのは間違いないと釘を刺しておこう。

街を巡る道中の昼下がり、半分ぼーっとしながら郊外を歩いていると、部活か何かから帰る途中らしい制服の高校生集団とすれ違った。現実とアニメが割とごっちゃになって現実の彼ら彼女たちがアニメに引っ張られて妙に子供っぽく見えたが、暑さと疲労で自分の体力もついに尽きたか、それとも夢見心地のままこの街に埋もれてしまうか、こういうとき久美子なら死んでしまってもいいと表現するかもな、などとぼんやり思った。

宇治にはまた行くことにする。見ていないところ、知りたいことがまだまだたくさんあるので。

2015/08/04

過剰で執拗で容赦のないアニメ〜響け!ユーフォニアム(10:色彩設計について)

言いたいことはだいたい書いてしまったのでこのシリーズも終わりに近づいてきた。先日勢い余って宇治まで行ってあちこち歩き回ってきたけど、その感想は次回にまとめてそれで一段落としよう。さて今回は色彩設計、平たく言うと色づかいの話。

アニメ作品がなぜアニメと呼ばれるのかというのは作品にアニメ的な要素が含まれるからだが、そのひとつに独特あるいは突飛な色彩が挙げられるのは異論のないところだと思う。アニメ作品内では、特に髪と瞳で顕著だが、日本人というか人類ばなれした色をまとったキャラが闊歩している。一方、リアルでも髪を染めたりカラーコンタクトレンズを使えば明るいピンクや緑などにすることは可能であるが、じゃあそれで日常生活を送れるかというとなかなかに難しいのは、コスプレを楽しむ人たちの多くが地毛ではなくウィッグを常用している事実からも伺える(レイヤーさんは様々なキャラに扮するのでウィッグの方が都合がいいというのもありそうだけど)。まあ要するにアニメ的ファンタジーをそれと分からせる仕掛けのひとつとして、多くの作品で様々な色彩が意図的に用いられている。

その色彩だが、最近のアニメ制作では色彩設計といった名目の担当者が置かれることが当たり前になった。実際の作業風景を知らないので想像だけで言うしかないのだが、この仕事は昔から受け継がれている動画ごと・場面ごとの色指定作業に加えて、作品を通した色調の統一も行っているんじゃないかと想像している。各社ともデジタル作画に移行して久しいが、塗料の種類や調合比率にとらわれずRGB(場合によってはCMYKかも知れないが)でダイレクトに指定できるぶん、あらかじめ全体を見渡してその値を決めておかなくては作品がとっ散らかってしまうのは目に見えている。逆に言えば、色彩設計はデジタル環境だからこそ注目度・重要度が上がった職能と言えるかもしれない。なにごともチューニングは大切なのだ。

「ユーフォ」のスタッフに色彩設計は特にクレジットされていないと記憶しているが(おそらく美術さんが兼任している?)、いまさら指摘するまでもなく慎重に色を選んでいるのが分かる。まず髪の色だが、吹奏楽部員全員を一望できるカットというのが実は少ない(音楽室だと画角の関係で映らない生徒がいる)ので、ネタバレではあるが最終回のEDから引用してみた。黒が青と緑に、茶が赤と黄(金)方向に幅を持たせているのが分かるが、総じて地味で抑え気味な色調で統一されている。リアリティで言えばアニメと実写の中間から少しアニメ寄りくらいだろうか。まあピンクの髪のキャラは今後2期があったとしても出てこなさそうである。


そして瞳の塗りを見ると、キャラごとにそれぞれ明確かつ細かく、ビビッドな色づかいをいとわずに指定されている。場面ごとにあまり色が変わったりしないところをみると、瞳はヘアアクセサリや持っている小物などとともに演出装置というよりキャラの性格づけのための場所ということのようだ。吹奏楽部員その他の大量の登場人物全てに個別の指定を行うその「執拗さ」には驚き半分呆れ半分、指定する方も塗る方もよく混乱しないものである…このあたりは「アニメは工業製品である」というワタシの持論に繋がる話でもあるのだが、今回はこれ以上触れない。とにかく、「ユーフォ」を全体として眺めた場合、「アニメ的な色彩」は主にキャラの瞳で表現されていると考えてよい。

個人的には、この「全体的にはリアル志向で必然的に地味にせざるを得ないなかでキャラの個性をどうデザインするか」をほんのわずかな色指定で表現していく仕事ぶりに、実は強くシンパシーを感じている。言われなきゃ分からない職人技みたいなものと表現すれば分かってもらえるだろうか。こういうきめ細かさの積み重ねが作品の密度を高めているのは言うまでもないが、2015年のTVアニメ大量生産時代においてこの職人技の塊みたいな作品が実際にTVシリーズとして放映されるところまで行ってしまったという「事件」は、もっと知られて然るべきだとつくづく思う。