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2018/02/25

そして母になる:映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」超ネタバレありレビュー

休日出勤がバタバタしながら終わって疲れた目でTLを覗いたら、信頼している何名かのアニメソムリエが良かったと言ってたので、当初はあまり乗り気でなかったんだけども「さよならの朝に約束の花をかざろう」を公開初日に見た。

端的に言うとこのアニメ映画、見るのにとても覚悟を要する。それは人によっては今までの、そしてこれからの人生を左右しかねない問いかけを我々に突きつけてくるからである。乗り気にならなかったのは「あの花」「ここさけ」が "not for me" の大きな理由であるところの岡田麿里氏が監督・脚本であるからだったのだが、今は見て良かったと感じている。

さて例によって思うところをつらつらと。ネタバレ全開であらすじをほとんど書くからむっちゃ長くなる&記憶だけで書くから間違いが多々あるだろうけど何とぞご容赦のほどを:


ワタシが尊敬してやまぬ自動車評論家である福野礼一郎の名著:「クルマはかくして作られる」に、織物について書かれた章がある。そこには、クルマのシート等に使われる布のメーカーを辿っていったら京都の龍村美術織物を紹介され、シルクロード経由で伝わり正倉院などに国宝級として何世紀にもわたって大切に収蔵されてきた数々の名物織物の一目一目の織り方を慎重に解読し復元された模様が現代のクルマのシートの生地のデザインに引用されていること、また、機械とコンピュータによって高度に工業化された現代においてさえ伝統を守り続ける職人が機織り機で長い時間をかけて織り上げた布は優にフェラーリ数台分の価値があることを、あの博学な福野氏が知って驚愕した事実が興奮した筆致で綴られている。



このアニメ映画の重要なモチーフである織物について上記の記事で学んだのは、複雑に見えたり高価であったりする織物も突き詰めれば経糸(たていと)と緯糸(よこいと)によって構成される、すなわちプログラム化が可能であるほど論理的であり、かつ、その単純な組合せから目も眩むような芸術が人間の手によって生み出され続けてきた(そしてその技術の一部は長い歴史のなかで確実にロストしている)ことである。この映画を語る前に、まずはこの事実を意識してほしい。その上でこの作品を俯瞰しよう。以下ネタバレなので嫌な人は引き返すか、下の「ネタバレおしまい」というところまで飛ばしてください。



主人公たちは代々布を織り続けて生計を立てている長命な少数民族…というより前時代の生命体の生き残りで、「別れの一族」と呼ばれている。彼女たち彼らが静かに暮らす集落を、同じく古代の生き残りである「竜」を使って壊滅させ、彼女たちの「血」を新しい権威の象徴として利用するのは新しい生命体…現在の我々のような人間たちで、国を作って争っている。その渦中に放り込まれるのは、やんちゃで活発なレイリアと、その陰になりがちな気弱で物静かなマキアというふたりの少女(ではあるが長命種なので正確な年齢は定かではないだろう)で、彼女たちを軸に物語は進む。

集落を焼かれひとりになったマキアは絶望し放浪した先でひとりの人間の赤ん坊を拾い、彼女の指をぎゅっと握りしめた彼をエリアルと名付けて育てる決意をする。ひとりの気丈な母とふたりのやんちゃな男の子と利口な犬が暮らす家に迷い込んでそこで暮らすうち、マキアは精神的に、そしてエリアルは精神とともに肉体も成長していく。



数年後、老衰で亡くなった犬を埋葬する時、マキアとエリアルの「親子」は、はじめて「死」というものを自覚する。

このシーンが辛く感じたら、すぐ劇場を出て見たことを忘れる方がいい。この先は冒頭に書いた通り、とても覚悟を要するので。



ある日、マキアの一族しか解読できない織物を受け取った彼女は、レイリアが生きていること、連れ去られた国の妃にさせられることを知る。そうして、美しい少女にしか見えない「母」と、まだ幼い「子供」の放浪が始まる。

生き残っていた一族とともにレイリアの挙式を混乱させて彼女を助けに行ったマキアはレイリアと再会するが、彼女が既に身ごもっていること、ゆえにもう元には戻れないことを告げられる。マキアを追っ手から逃すため、レイリアは己の腹の子に刃を向ける。

そして「親子」の放浪は続く。いつの間にか、マキアとエリアルは姉と弟に見えるようになっていた。マキアは成長してゆくエリアルを守りたい一心で、「母」であり続けようとする。その一方でエリアルは無邪気な子供から思春期を迎え、彼女が「本当の母ではない」ことに葛藤を覚え始める。

すっかり成長してマキアの背を超えたエリアルは、ある晩に泥酔した挙句、彼女に対して「決して言ってはいけないこと」を口走ってしまう。「母」であり続けるために身を粉にしてきた彼女にとっては残酷すぎる言葉。それを受け止めて、エリアルが出て行くのをマキアは穏やかな笑顔で見送る。いつか交わした「泣かない」という約束を守って。

一方、レイリアは無事に出産したものの、その子が男の子=世継ぎではなく、かつ、長命種の特徴を持っていなかったという理由で厄介者扱いされ、子供から引き離されて幽閉されていた。救出に来た残り少ない一族を目の前で殺され孤独になった彼女に残されたのは、我が子に逢いたいという、「母」としてのたったひとつの希望だけ。



こうしてマキアとレイリアは、同じ「母」でありながら、それぞれ「ひとりぼっち」になってしまった。



再び時は流れ、レイリアの国…「別れの一族」や「竜」という過去の遺物を権威にした専制的な国家に、それを快く思っていなかった周辺国連合が戦争を仕掛ける。エリアルは兵士となり、自分の家族を守るため戦いに身を投じる。

周辺国連合の側から潜入したマキアは、レイリアを再び救出しようとする途中で偶然に女性が苦悶している声を耳にする。それは、エリアルの家族…奥さんが産気づいて子供が産まれようとしている、まさにそのときだった。



戦いは終わった。古い国は倒された。奥さんは無事に出産し、マキアが取り上げた生まれたての赤ん坊は彼女の指をエリアルと同じようにぎゅっと握りしめる。エリアルは辛うじて生き延び、奥さん、そして新しい命と出会う。

もはや妃の子では無くなったレイリアの娘は覚悟を決める。そのとき、彼女ははじめて幽閉から解放された強くて美しい少女…自分の母親と出会う。それはほんの一瞬で、マキアが操る最後の「竜」に飛び乗ったレイリアは、ふたりで元の世界へ帰っていく。



さらに時は進んで何年後だろうか。以前と全く変わらぬ姿のマキアは、かつて迷い込んだ家を訪ねる。近くで遊ぶ幼い女の子へおじいちゃんに会わせてと声を掛け、その母親に案内された部屋には、すっかり年老いたエリアルが眠っていた。

彼女の姿にエリアルは気づいたのだろうか。何か言葉らしきものを口にし、安堵の表情を浮かべて彼は息を引き取る。マキアはそれを見届けて、彼の身体へ静かに布を掛ける。



帰り道、女の子=エリアルの孫から綿毛のタンポポの花束を贈られたマキアは、しばらく歩いてから家を振り返り、こう呟く。



「約束を破る」と。「泣かない」という約束を破ると。



ネタバレおしまい。これが、この物語のあらすじである。なぜ例外的にこの長さで終わりまで書いたかと言うと、この作品で描かれる「時間」と「人間」の関係が把握できないと考えたからである。

モチーフである織物に例えると、経糸は遥かな時間を生き続けるマキアやレイリアである。彼女たちにすればエリアルやレイリアの娘は、彼女たちの長い長い人生にほんの一瞬しか交わらない緯糸に過ぎない。しかしそれが単純な縦線と横線の交点でないのは、目を見張るほど美しく織りあがった織物を見つめれば分かることである。1本ずつの孤独な緯糸である我々は、経糸という時間の流れのなかで行き交い複雑に絡み合いながら、色とりどりの模様を描いてゆく。たとえ誰かの糸が途切れかかっても別の誰かが結び直せばいい、糸が無くなったら別の糸が後を繋げばいい。永遠に続く美しい織物は、たったそれだけの論理で織られ続ける。彼女たちは無数の死で彩られ涙に濡れたその衣で、新しい命たちを慈しみながら包んでゆくのである。



最後に。龍村美術織物の創業者である初代龍村平藏はこんな境地に至ったと、先のページに書かれている。
『「どんな複雑な組織の織物も、経糸と緯糸によって構成された、理屈で割り切れる偶数の世界」ととらえていた平藏ですが、「美」という3つ目の要素を加えることで割り切れない奇数の世界となり、それを構築することこそ芸術的完成につながる』
この、時間と人間を織り上げた物語に「美」という3つめの要素を加えたのは、もちろんアニメの制作スタッフである。P.A.WORKSや音楽の川井憲次氏はもちろん、個人的にはキャラクターの成長や生きざまを、ときにはダイナミックに、ときには繊細に、ときにはコミカルに、ときには残酷に描き尽くした、メインアニメーターの井上俊之氏を筆頭とした原画・動画の皆さんの仕事に、最大級の賛辞を送りたい。デジタル制作環境が当たり前になった現在でも割り切れない奇数の世界を追求するアニメーターがいる限り、動く絵としてのアニメの「美」は、どれだけ時を経ようと決して色褪せないのである。


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