まず、ざっくりとしたあらすじから。上流階級の子女が集う寄宿制女学校にいるイザベラ・ヨークは、その日々に馴染めずにいた。数ヶ月後に迫るデビュタント(社交界デビュー)に向け、親が差し向けた家庭教師は「自動手記人形」ヴァイオレット・エヴァーガーデン(以降ヴァイオレットちゃんと表記)であった。厭世的な態度でヴァイオレットちゃんに接していたイザベラだったが、(本人は仕事というか「任務」と捉えているため)何事にも真摯でひたむきに尽くすヴァイオレットちゃんと過ごすうち心の距離が縮まっていき、互いに「ともだち」と認めるほどの間柄になっていた。
そういうイザベラは過去に何があって、なぜこんなところで無気力な生活を送らなければいけないのか、その秘密をヴァイオレットちゃんに打ち明ける。それはまだ彼女がイザベラという名前ではなかった頃に止むを得ず離れ離れになってしまった、「妹」テイラーのことであった…
この映画を見終わって、これはTVシリーズの「外伝」というより、世界観を共有したひとつの独立した作品と捉えた方がしっくりくると思った。まず画角。これが初監督作品となった藤田春香監督(アニメ好きの人には「ユーフォ」TVシリーズ1期第八回の演出と言った方が伝わるだろうか)が、「この作品にはこちらの方が似合う」と意図して16:9からシネマスコープサイズに変更した的なことをパンフレットで述べていたが、架空とは言え蒸気機関から電気主体の文明に移り変わる時代の空気を描写するには、確かにこちらのほうが合っていると感じた。画面が横に広いため「その時代の景色」を見渡せる気がして、没入感が増したように思う。
そのシネマスコープサイズで展開される絵面と物語は、これが初監督作品で絵コンテも自身で手がけられた藤田監督の個性が発揮されたと言うべきか、大胆不敵なものであった。まず絵面。「ユーフォ」シリーズ後半で目立ったような、画面の端に大きく視線を誘導させる、また、顔や人物をあえて描写しない構図・レイアウトが多用される。16:9ではなくシネマスコープサイズなので、その振り幅の極端さは他のアニメはもちろん、実写映画でもなかなか見られないものだろう。一歩間違えれば破綻しそうな絵づくりを、「これぞ京アニ」と言ってしまいたくなるほどの絵そのもののクオリティとカット割りの妙でもってギリギリを突いてくる感じなのだが、これは相当冒険したなあ(または冒険させたなあ)と思ったのが正直なところ。スクリーンに近い席だと、見るのに少々疲れるかもしれない。
それから肝心の物語だが、今回ヴァイオレットちゃんは狂言回し的な役割になっていて、2人の姉妹が実質的な主役になっている。ヴァイオレットちゃんの物語はTVシリーズでいったん完結しているので、こういう作り方が確かにありなのは理解するんだけど、物語の構造が前半と後半で大きく分かれているのが難しいところ。要するに前半は姉、後半は妹が主役になっていて、ひとつの映画のなかで物語が分断されている。そのあたりの事情もパンフレットに書かれていたけど、であれば、時系列をさらにシャッフルするなど、シナリオと絵コンテを再構成して見せ方を工夫する余地があったのではと思う。風景のカットに早回しを用いることで時間経過を表現する演出などが光っていただけに、惜しいところではある。まあ「ユーフォ誓いのフィナーレ」の記事でも書いた通り、当時の京アニは多忙で時間が足りなかったんだろうなあとは思うけど、ここについてはもう少し工夫が欲しかった。
さて。
じゃあ本来は主役であるはずのヴァイオレットちゃんは、この映画において脇役で終わってしまったのかと言うと、実はそうではない。
前半では姉と、後半では妹と強い絆を形づくるヴァイオレットちゃんが、なぜそのようなことまでできるようになったかはTVシリーズで語られているので、この外伝だけで理解することは難しい。それはこの映画の欠点のひとつだろう。逆に、TVシリーズを追いかけてきた人たちにとって、本来は手紙の代筆業である「自動手記人形」が、単なる代筆だけではなく、手紙を介して人と人を結びつける大きな役割を果たしていると再確認できるような映画になっていることを、強調しておきたい。
姉・イザベラが過去に捨てた名前「エイミー」を記した手紙を、ヴァイオレットちゃんは粛々としたためて、同僚が妹・イザベラに届ける。ヴァイオレットちゃん自身が記した、「何かあれば私を訪ねてほしい」というイザベラ宛の手紙とともに。
時が過ぎ、イザベラがヴァイオレットちゃんの手紙に書かれている通り、彼女を頼って郵便社へ現れ、配達見習いとして働き始める。そしてまだ文字が読めない妹は姉・「エイミー」に手紙を書きたいと願い、それをヴァイオレットちゃんが優しく手伝う。
イザベラが書いた手紙は、長いこと行方知れずだったイザベラの元へ同僚が届ける。ただ名前を書いた手紙を託し、その返事が来ることを半ば諦めながら世捨て人のように日々を過ごしてきたイザベラにとって、自分を「エイミー」と呼んでくれる唯一無二の妹から届いた手紙がどれほどのものだったのかは、映画を見て確かめてほしい。
「エイミー」と「イザベラ」を再び結びつけたのは、モノとしては手紙なのだけど、それを書き、また、届けた、ヴァイオレットちゃんやその同僚たち、「自動手記人形」や郵便配達人、つまり「人」なのである。ヴァイオレットちゃんは案外ポンコツなので、自分自身がいつの間にか「手紙」になっていることを全く自覚していないだろうけれど、彼女が「良き自動手記人形」である限り、こんな人と人との結びつきは、これからも少しずつ時間と空間を超えて彼女の手によって紡がれていくのだろう。
最後に。
この作品のモチーフが「名前」だったことを噛み締めながら、エンドロールを最後まで見つめていたことを記しておきます。名前は本当に大切なものなので。
2019/09/13追記:3週間限定だったのが(少なくとも現時点では)2週間の上映延長が決定したそうな。シズル感とでも表現するべきか、京アニが描いた繊細極まりないアニメーションを、映画館でぜひ堪能してほしいです。