For short, " I. M. G. D. "
Established : 1997/12/07

Light up your room, and browse away from the monitor, please! :-)

2015/03/17

メモ:前回の続きなど

最近は文章執筆のリハビリのつもりであまり深く考えないよう意識してあれこれ書いてるけど、故障でブランクの空いたピッチャーがストライクゾーンに入らない球ばかり無理に投げてる気分。継続は力なりと言うけど、それを可能にする基礎体力づくりを怠ったらダメだな。スポーツ選手なら走り込みや筋トレ等だし、文章を書くなら読書や取材などで他の情報を積極的に摂取することが必要。いまのワタシは2年くらいアップデートされていない古びた情報を元にアウトプットだけしてる状態なので(「音楽を聴いてもなぜか何も感じない奇病」で新曲も流行の曲もチェックしてないし)、たぶんもうすぐ立ち枯れる。そうなったら、ボカロをネタにした話は根っこに栄養が再び染みわたるまで書けなくなるだろう。スポーツ選手には引退がつきものだけど、この先どうしようか。老害となじられつつ居座るのも適当にフェードアウトするのも、どちらも悪くない気がするけど。

くだらない話をしてしまった。先日「ボカロとボカロ曲とボカロPとファンの関係性を難しく考えないことにした」、もっと端的に言うと「ボカロはボカロ、ボカロ曲はボカロ曲としてその関係に囚われず自由に楽しんでいいんじゃないの」みたいなことを書いた(つもり)。これはまあ「頭でっかち」になってた自分への反省文みたいなものである。

ではなぜ「頭でっかち」になっていたのかというところについて、大きく分けて以下の2つの理由(?)を考えてみた。
  • 特に初期のキャラソン主流時代において顕著だが、ボカロ(ソフトとキャラの両方を含む)からボカロPがイメージを膨らませてボカロ曲を作り、それをファンが受け入れることでボカロ空間が一気に成長した歴史があること。言い換えれば、ある時代において、ボカロ(ソフトとキャラ)、ボカロP、ボカロ曲、ボカロファンは互いの関係性を強く想起させるほど密接な位置にあって、それは現在も「すべて繋がる」感覚として多くの方々に受け継がれていること。
  • ボカロ空間の間口が大きく楽曲以外の創作物(イラストや歌ってみた、演奏してみた等)も広く取り込み、例えばあるボカロ曲の感想を書いたり特定のキャラのフィギュアの写真を公開するといった行為さえも一種の創作行為として受け入れられる土壌が成立していること。
前者についてはあまり説明しなくてもご理解いただけると思う。「ボカロはボカロ、ボカロ曲はボカロ曲」と言われても、多くのリスナーはその好奇心によっていろいろ調べ始めて、いずれはその歴史や位置関係、それらが醸し出す多様な魅力をすぐ理解するに決まっているからだ。いわゆる文脈を把握するというやつである。これを止める気はもちろん微塵も無い。むしろ「ボカロ曲を聴き過ぎて疲れたと感じたらそういうところを過剰に意識せず一旦リラックスするといいかもしれない」とボカロ空間にどっぷり入り込んだヘビーリスナーに言いたい。

後者はとても悩ましいところではある。ボカロ曲と(言い方が悪くて恐縮だが)本来は歌声合成ソフトを売る方便として用意されたボカロキャラに魅入られてイラストを描く、フィギュアやアクセサリを作る、痛車を仕立てる、3DCGを動かす、網戸やポリエチレンシートを立てて召還を試みる、イベントを企画してみんなと盛り上がる場をつくるといった「ボカロ曲を作る以外の創作行為」も止めようがなく、むしろボカロ空間内ではそれをn次創作あるいはCGM/UCGの名のもと推奨する雰囲気があった(もちろん実際に創作する際には一定の社会的ルールを遵守する必要はあるが)。リスナー視点で考えた場合に最も身近な「作曲以外の創作行為」はボカロ曲を聴いた感想をTwitter等へアウトプットすることになるだろうか(例えばDAIMはそれをみんなで集まってやろうとした結果)。ボカロキャラのファンならとりあえず何かしらのフィギュアやぬいぐるみ等を飾った写真を撮ってアップロードするのが手っ取り早いのかな。まあ創作のファーストステップとしてはそれくらい気軽で敷居が低い方がいいと個人的に思う。

さてここからが問題なんだが、もしかしたら「ボカロ空間内では何かを必ず創作しなければいけない、だって "Everyone, Creator" って周りからいつも言われるから」という一種の逆転というか強迫観念というか…によって悩む人が出てきているのかもしれない。リスナー視点で言えば「何かをアウトプットするためにボカロ曲を聴き続けているのでとても疲れてる状態」という感じだろうか。自分がニコ動で毎日の新作をほぼ総当たりチェックしていたときに「義務感に駆られるな」と忠告を受けたことが何度かあるけど、振り返ってみれば、新作をチェックしなくなった瞬間に自分の居場所を失ってしまうかもという不安は常にあった。現在は他のたくさんの方々が継続的にチェックしているのが分かっているのでその不安はほぼ杞憂だったけどね(例えばTwitterの #vocanew タグはよく機能していると思う)。ただ、この一連の文章を書く発端となったツイート群を発したヘビーリスナーの皆さんのうち誰かが上記のような錯誤やワタシと似たような不安に陥ってるとしたら、「アウトプットするのを小休止して基礎体力の回復に励んでみたらどうだろう」と提案したい。ボカロ空間は広大だからもうクリエイターじゃない人も居られるじゃない。埋め合わせもたぶん誰かがしてくれると思うよ。

2015/03/16

メモ:ボカロとボカロPとボカロ曲とファンの関係性を難しく考えないことにした

昨晩眠れずにTwitterのTLをぼんやり眺めていたら気になるツイートが幾つか流れてきて私的な考えをまとめておきたくなったのでメモ。いきなり本題。
  • ボカロ:一部の例外を除いて、歌声合成ソフトのライブラリとシンボルキャラクターの両方で構成される。以降、前者の場合はボカロソフト、後者はボカロキャラとして使い分ける。
  • ボカロP:ボカロソフトを用いて楽曲を制作する者。音楽の話をしたいので今回はボカロキャラをモチーフに音楽以外の何かを制作する者…例えば絵師等は除外して考える。
  • ボカロ曲:ボカロPによって制作された楽曲群。
深夜に見た一連のツイート群では、例えばボカロ曲が好きになって(から)ボカロを好きになるという関係性(ソフトとキャラのどちらに比重を置くのかは個人による)、あるいはその逆の事例について、主にボカロ曲のリスナー視点で多く語られていたように思う。

一方、そのツイート群から存在がなぜかポロリと抜け落ちてしまっていた(ように見えた)ボカロPからは、例えばこういった証言が出ている。
ここからは「ボカロP時代とその作品を知らない米津玄師(=ハチというボカロP)ファン」が確実に存在すると読み取れる。同様のことがボカロキャラ、ボカロ曲に起こっていてもおかしくないと思うのだ。

極端な例を挙げると
  • ボークスのショールームでドールを買ったけどボカロソフトやボカロPやボカロ曲には興味が無い初音ミクというボカロキャラのファン
  • たまたまラジオから流れてきたので好きになったけど誰が作って何が唄っているのか全く知らないボカロ曲ファン
は、存在している可能性がある(特に「初音ミクというボカロキャラのファン」はその知名度と露出の高さゆえに可能性大。次点は鏡音か?)。ボカロソフトの唄声にしか興味が無いファンというのはなかなか想定しづらいが、ストラディバリウスの音色だけをコレクションしているオーディオマニアみたいな方はもしかすると存在するかもしれない。

以前ざっくりと垂れ流した通り、現在のボカロ空間は細分化が進行しているように思えるんだが、その空間内にある要素のひとつだけを取り出して愛好するのは別に何の問題もないと思う。もちろん各要素間の往々にして複雑な関係性に興味を抱いていろいろ調べたり考察するのはとても楽しいものだが、それを「ファンの在り方」のようなかたちで一般化する試みは、「ボカロの構成要素のうちのひとつだけのファン」が存在するのであれば、全員を納得させる「解」を提示できず「説」の域を出ないだろう(ワタシがこのブログなどで述べてきた戯言などはその例)。そういうのは然るべき方々に任せて、ファンは好きなように楽しんだもの勝ちなんじゃないのと昨晩以来あれこれ考えてそう思い至った。何をいまさら感が強い結論に着地したが自分で書いてて全くその通りだと自省している。

2015/03/15

「最高にロック」の意味をちょっと考えてみた

event_note
TwitterのTLを眺めていて時おり目にするフレーズ
「○○が××したのって最高にロックだった」
が何となく気になるので何となく調べてみた。

まず安直だがGoogle先生に「最高にロック 意味」で問い合わせた結果がこちら。その中にある上記のような用例を軽くまとめたものはこちら。一概には言えないが驚きのほかにウケ狙いや皮肉や自嘲も含まれているような複雑な印象を持つ。

先ほどのGoogle検索の結果中に英語のスラングとしての "rock" を解説している記事がこちらこちら。そちらでは「最高」「とても良い」という意味でよく使われていると書かれている。 "awesome" に近いとも。そして当然のごとく音楽ジャンルの rock や rock and roll にも触れられている。まあ納得ではある。

ここで気になるのが日米での意味の逆転…とまでは行かないにせよ日本では「ロックだ」という比喩がかなり捻くれた使われ方をしているように思われること。この理由を考えるとたぶん文献を何冊も読まないといけなくなるのであっさりと終わらせるよう心がけつつ以下を書き進める。

「ファンキー」という言葉はほとんど死語に近いが元は音楽ジャンルの funk から来ている(はず)。今風に表現すれば「ファンクっぽい」「ファンクだ」になる。逆に「ロックだ」が日本における音楽ジャンルのロックから来た言葉だとすると「ロッキー」とも言い換えられる…訳ではないのはあの有名な映画があるから。ともかく、「ファンキー」と「ロックだ」はその音楽ジャンルの属性や性質を用いてものごとを形容する際に転化して使われているようである。余談だが「クラシック」は「クラシカル」、「ジャズ」は「ジャジー」として使われるけど「フュージョン」や「テクノ」「メタル」等をこういう風にほとんど用いないっぽいのはちょっと興味深い。

さてここで注目すべきは「ファンキー」がその音楽ジャンルの成立からほぼ一貫して同じありさまを指してるように感じられる一方、「ロックだ」が日本におけるロックの広がりと位置づけの変遷によって多義的な意味を獲得していながら「ロックだ」の一言で強引に丸められてしまっているように思えること。また、(21世紀においても)いまだJ-POP文化のただ中にあって、そういう「ロック」を理解して英語のスラングと同様に「最高だった」という意味で使っている人がどれだけいるのかということ。

ここから先は日本や海外のロックやロックフェスの歴史とか現在活動しているロックバンドのポリシーとかスタンス等、そしてリスナー層の厚みや嗜好、果ては「ロックとは何か」という約半世紀にわたる戦争の推移と現況などを詳しく調べないといけない感じだが、知識的には全く弱い部分なので詳しい誰かにバトンを渡したい気分。ただ、特に若い人たち…例えばSEKAI NO OWARIのリスナーが「最高にロックだった」と発言したとき、どのような文脈と意味で用いているのかはちょっと注目してみたい気がする。

「さっき『最高にロック』って言ったけどそれってどのバンドのどの時期の状態を指して言ってるの」みたいなウザ絡みは絶対しないけどね。

2015/03/14

小ネタ:ボカロと鉄道趣味の親和性の高さについて

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以前から思っていたがJRのダイヤ改正で一部の話題が沸騰した感があるのでメモ書き。

正直に結論から書くが、ボカロ好きといわゆる鉄オタの親和性の高さは常日頃から不思議に感じている。

ワタシは祖父と父が国鉄務めだったので身近に鉄道があるのが当たり前の生活を送っていたのだが、鉄道そのものには全く思い入れがない。もちろん時刻表を読んだり必要な切符を買ったりするスキルは一応身につけているが、車両の形式や編成など子細までは興味がない。模型を趣味としていながら鉄道模型に触手が動かないのも、同様に興味が湧かないというその一点に尽きる。

その一方、一部のボカロファンが鉄道関係に極めて精通しているのにはいつも驚かされる。鉄道趣味の歴史の深さを考えれば、元々鉄オタだった方々の一部がボカロファンになったと表現するのが正確だろうか。日本全国津々浦々の鉄道ダイヤと車両編成を全て暗記しているような猛者も含まれていそうな勢いである。

歴史のある趣味と言っても中身は多彩だが、乗り物に限れば鉄道の他にクルマとバイクと自転車と飛行機と船とその他に大別されるだろうか。ボカロファンの皆さんの発言や行動を観測した限りでは、能動的に運転・操縦するというものとして自転車、受動的に乗るものとして鉄道が突出しているように思う。

ここからは全く裏付けのない飛躍。受動的に、あるプログラム(=ダイヤ)に従って時間軸に沿って動くものに身を委ねる快感、またはそれが動くのを想像する楽しみというのを想定した場合、DTMと鉄道には一種の共通点がある、のかもしれない。もしかするとサヴァン症候群っぽい領域まで到達している人も居そうな気もするが、医学的な知識が無いのでそのあたりは深くツッコまない。

ともあれ、ワタシの知らない深い鉄道知識を惜しげもなくさらりと披露してはワイワイ言っている皆さんを、驚き半分呆れ半分で見ている。驚きは文字通り、呆れはやはりワタシにとって身近すぎて何でそこまで思い入れが深まるのかいまだに理解できないのが理由である。まあ他人の趣味を無理に理解する必要はないし、もちろん「かつて中の人の一部であった」ワタシのこの感覚を誰かに押し付けようとも思わない。それが趣味というものである。

メモ書き終わり。

ボカロとまちおこしについて少々

(もはやゾンビか亡霊のようなワタシだがアタマの中を整理するため何かを思いついたら備忘録的にここへ書いていくことにする)

ツイート自体はもう消してしまったが、1ヶ月ちょっと前に「2014年の初頭に新千歳空港で雪ミク2014の買い物袋をもらおうとしたらお店のおねえさん2人がノリノリでたくさん詰めてくれて話を聞いたらミクちゃん知ってますという答が返ってきてちょっと感激した」という話をしたことがある。実は、これには前フリがある。

2014年の1月2日の道央圏はかなり強めの吹雪模様で新千歳空港からフライトできるか不安だったのだが、正月三が日でも市街地観光くらいはできるだろう、雪ミク電車もせっかくだから見たいし、という漠然とした気持ちで札幌駅で降りて歩き始めた。

大通公園へ向かうあのだだっ広い地下道…自分が住んでた頃には存在しなかったが…をぼちぼち歩いて、たまに外に出ては横殴りの雪に辟易しつつクリプトン本社があるビルへ「参拝」したりしたんだが、大通の市電乗り場で雪ミク電車の写真を撮って思ったことは「やっとボカロが居た」だった。そこに至るまでどこにもボカロどころかミクさえ影も形も無かったのだ。2013年の道新正月版には雪ミク2013が大々的にフィーチャーされた紙面があったのが2014年の正月版からは全く姿を消していて落差に驚いたんだが、その扱い方が札幌市民や道民の現実であると突きつけられたようでショックを受けたまま新千歳空港行きのJRに乗った記憶がある…もう1年以上前の話なので何とも言えないが、探し方が悪かったのかも知れないしデジタルサイネージなんかを見落としたのかも知れないし偶然イベント的なものの谷間だったのかも知れない。いずれにせよその時の札幌での「収穫」は、この市電の写真だけだったのだ。

最近は聖地巡礼という言葉も定着した感があるが、アニメの舞台となった街に訪問するファンを歓待することでまちおこしに繋げる事例をよく聞く。古くは鷲宮(らきすた)、近年で最も成功したのは大洗(ガールズ&パンツァー)だろうか。一方、クリプトンが本社を置くためにミクを筆頭としたクリプトンボカロが札幌(または北海道)のまちおこしのシンボルとして駆り出されるケースが見られる(最たるものはもちろん一連のSNOW MIKUキャンペーン)。ボカロ関係で他に思いつくところだと、今のところ女満別空港で展開される結月ゆかり、東北一円の復興を応援するべく生み出された東北ずん子、くらいだろうか(他にもあるかもしれないが思い出せん、漏れていたらすみません)。

アニメとボカロはキャラクターこそ存在するが異質なものなので安易に結論めいたことは言えないが、こういう場面における両者を乱暴に比較すると「その地域内で設計された舞台で展開する物語があらかじめ用意されているか」という違いがある。アニメの話はさんざん語られているのでそちらを参照していただくとして、「地域に根ざした物語が存在しない」ボカロを用いたまちおこしについて、先に挙げた3つを元にそれぞれ考えてみたい。

雪まつり期間と連動したSNOW MIKUキャンペーンには結局行けずじまいだが、特にミクファンの間ではすっかり根付いた感がある。イベントやグッズ販売等に試行錯誤の跡は見られるが、このまま推移すれば、10年ほど前には存続議論すら出ていた雪まつりという「旧態依然な」イベントへ新たな導線を付加することに成功するだろう。

女満別空港がなぜ結月ゆかりとくっついたのか正直よく分からないので多くを語ることはできない。フライトアテンダントというか空港内の案内嬢的ポジションでゆっくりと確実に浸透しつつあるように見えるのだがどうなんだろう。実情を知りたい(が、なかなか女満別まで行く機会がないので残念)。

東北ずん子は東北復興支援という極めて明確な目的を持つ一連のプロジェクトであり、クラウドファンディングなどを活用しながら音声ライブラリやイラスト等を現在進行形で整備している。アニメ化なども視野に入れているようなので、いずれ「地域に根ざした物語」を獲得するだろう。そしてこの「一緒に育てている感覚」が共有されることは一種のメタ的な「東北ずん子成長物語」になるので、実は既にアニメ的なまちおこし事例へ片足を突っ込んでいると見ることもできるのが興味深い。

以上、大雑把にまとめると
  • 唄うキャラクターに毎年ごとのキャンペーンガールを担ってもらうSNOW MIKUキャンペーン
  • 唄って話すキャラクターに空港のコンパニオンを務めてもらう女満別空港
  • 唄って話すキャラクターを成長させる体験を通して東北復興を応援する東北ずん子プロジェクト
という感じだろうか。東北ずん子のメタ的な成長物語を除けば背景に「物語」が存在しないのは共通で、まずキャラクターがあって、それをどういう位置づけで動かすかがポイントなのかなという印象を受ける(まあボカロの場合、その気になれば多数の楽曲の中から季節や地域にちなんだ作品をコンパイルして、「物語」を紡ぐことができてしまうのだが)。ワタシが2014年の初頭に抱いた「北海道や札幌にボカロが居ない感」は、別にミクその他のクリプトンボカロが北海道や札幌のイメージキャラクターとして年間を通して動いてないというだけの話で、単にタイミングが悪かっただけなんだろう。

というわけで、固有の物語をほぼ持たない一方でクリエイターの好きなように唄わせられるボーカロイド・語らせることができるボイスロイドのキャラクターを用いたまちおこし…文字にするといかにも堅いが…は、雪ミクのポジションすなわち「何かしらのイベントなり非日常空間に立ち現れるキャンペーンガール」的に振る舞ってもらうのが今のところの解のように思える。近い存在としてはレースクイーンかな。そういう意味では、地域の人たちやイベント主催者等は、ボカロのキャラクターを無理に動かそうとせず花を添える感じで望むのが今のところは良いのかもしれない。まちにふさわしい物語は、歌や言葉でそのうち誰かが語り始めるだろう。

追記:テトさん忘れてた!

2015/03/07

ボカロ音楽のミライ

さっきの話とはページを別建てしておきたかったので連投。数日前にツイートして消すつもりはないので詳細はそっちに譲るが、結論を先に言ってしまうと、ボカロ音楽…ここでは「各種の歌声合成技術によるボーカルを用いた楽曲を主にニコニコ動画へ投稿するかたちで発表する同人音楽シーン」と定義する…は、プラットフォームやスポンサーの都合に左右されユーザー層を変えながらも当分先まで続いていくと思う。ユーザー独自制作の週刊ランキングが(一時?)停止し、ユーザーからヤマハに主体が移った日刊ランキングが廃止され、その他いくつかの自主ランキングやサービスが休止・終了というニュースがこの数週間続いたが、代替のものがある限り大きな問題ではない(極端な話、ニコ動だっていつ終わるか分からない不安定な存在だと思うんだが、仮にニコ動が無くなったとしてもクリエイターは別のプラットフォームで作品を発表するだろう)。2007年夏からしばらく続いた熱狂的な空気や大規模なリスナー群、集まる才能に投資したいスポンサーなどはもう戻ってこないかもしれないが、それでもニコ動が好きで、ニコ動に投稿されるボカロ音楽が好きで、ニコ動を利用しているリスナーは確実にいる。そうすると必然的に、地道なクリエイターにチャンスが巡ってくる可能性が大きくなる(というかそう信じる)。ワタシはまだ「音楽を聴いても何も感じない奇病」に罹っているので皆さんの作品を残念ながら楽しむことはできないが、様々な状況を踏まえると2015年以降において「趣味のボカロ音楽制作の小さなゴール」としてニコ動へ投稿し、例えば何らかのランキング入りを目標設定するのは、以前より現実的なものに思える(もちろんYouTubeやSoundCloud等に同時投稿してもよい。どこでウケるか分からないからね)。そんなわけで(ワタシの知らないうちに)一種の熱狂から醒めた(かもしれない)ボカロ音楽は、「音楽のジャンル」というよりは「趣味のジャンル」として定着していきそうな予感がする…ってここまで書いて似たような事例を思いついた。BMSだ。機会があったら識者に詳細を聞いてみよう。

…ちなみに、こんな他愛の無いことをわざわざ書き残してるのは、明日になったら忘れるかもしれない、また、書きたくても書けない状況に陥るかもしれないから。そんなときこそTwitterと言いたいところだが、いろいろあって途方に暮れてしまうことが多いのは以前と変わらないので…

ボカロ空間の小宇宙化など、ここ数ヶ月の雑感まとめ

いかにも無難なタイトルにしたのは前回が釣り記事同然だったことの反省からである。こんな辺境のブログにも関わらず公開から2日ほど通知が止まらないという貴重な体験をさせていただいた。まずはお読みいただいたことへのお礼をあらためて申し上げたい。本当にありがとうございます。

前回の記事への反応は大きく分けて、こんな事例があったよと丁寧にアドバイスを下さった方々、エポックメイキングだらけだったのに目が腐ってるんじゃねえの的な批判を寄せて下さった方々、そしてこんなクソ記事なんか最初から読むに値しないと切って捨てた方々、である。どれも直接ワタシに届いたものについては目を通したが十分に返答できず申し訳なかった。何かとお騒がせしたことも含めこの場を借りてお詫び申し上げたい。本当にすみません。

数ヶ月後の視点であの記事を読んでみると、粗の目立つ酷い文章だと我ながら驚く。例えばOculus RiftとVOCALOID 4、葵上を直接列挙しながら考慮の外に置くと宣言している点。これはつまり「2014年にはエポックメイキングなことが無かった」という主張への反例として充分なポテンシャルを持つことを認めた上で、あらかじめ予防線を張っていることに他ならない。冒頭に書いた「釣り記事同然」というのは、突っ込もうと思えばいくらでもできるこういう小手先のごまかしや引っかけがあの文章に山ほど含まれているからである…通知が止まってしばらくしてから、現在服用している薬の処方箋に「怒りやイライラを鎮める作用があります」という一言が添えてあるのを見つけてハッとしたんだが、後悔先に立たずというやつである。

さてそれらの反省を踏まえて数ヶ月後の現在はどうかと言うと、体調は以前よりずっと良いものの、謎の「どんな音楽を聴いてもほとんど心に響かない病(?)」は相変わらずで、好きだったアーティストの作品さえ再生せずに過ごしており、ボカロ関係はせいぜい週に1作品に触れるか触れないか程度で終わっている。なので、昔のようにニコ動の新曲総当たりチェックによる定点観測はもちろん、各種ランキングを追ったりbotでオススメされる新作を聴いたりもしていない。

そしてニコ動を含めたボカロ界のニュースは数ヶ月間ニュース記事を追ったり雪まつりや第1回ボカコンで賑わったTwitterのTLを追ったりした程度だが、ディープなところは前回の記事でも白状したように全然追いつけてない実感がある。刃がこぼれてしまった刃物を適当に研いでも切れ味はそう簡単には戻らない。日々の手入れこそ全てなんだろう。

話が逸れた。じゃあ現在の自分はその少ない手がかりだけでボカロ界のことをどう捉えることができるんだろうか、どうまとめれば自分が納得する形に落ち着くんだろうか、そんなことをあれから数ヶ月ずっと考えてきた。以降はその結果。とにかく材料が少ない中で何とか組み立てた話(というか妄想)で個人のメモ書き・ホラ話を公表してるのに近く信頼に足るものではない。あらかじめご了承ください。
  • ボカロ(≒初音ミク)現象と呼ばれたものを理解するために、ニコ動と初音ミクを中心とした仮想的な3軸空間を想定してその広がりや空間内で生じる事象の相互干渉を観測すればよいと考えていたが、そのモデルを撤回する。
  • 代わりにボカロ空間という特に中心のない空間を想定し、ボカロに関わるもの全て…ニコ動や初音ミク、音楽やイラストといった個々の制作物とその制作者、ワタシのようなひとりの消費者さえその空間内の一要素として全てが含まれると考える。
  • ボカロ空間内ではより強く大きな存在は周囲のあれやこれやを引きつけて集団化するが、現在のボカロ空間は例えば初音ミクの構成要素…声だったり色だったりコスチュームだったり…すらひとつの単位として集団化を促す力を持つほど細分化している。
  • ボカロ空間内にはそういった「小宇宙」がたくさん生じていて制作者もリスナーもどこかの小宇宙に捕捉されており、ほとんどの場合それで満足を得られる(これ自体を疑問に思ったり否定したりするものではない)。
  • 時おり、小宇宙の間を旅して歩いたりトンネルを繋げたりしようとする者が強いバイタリティとともに現れる。そういう場合、新しい小宇宙が発生するかもしれない。新技術(例:Oculus Rift)・新要素(例:ボークスのドール)が投入された場合も同様。
  • 一方、小宇宙がブラックホールに飲み込まれて縮小したり消失した事例があるかもしれない。それは空間内の力学として止めようがない。
  • そうやって個々の小宇宙が常に拡大縮小しながら瞬き続ける中で、自分が含まれる小宇宙の中心を見定めている人は強いし、(ワタシのように)あっちこっちにちょっかい出してるようなモノの見方をしている者は弱い。
…書いてて雲を掴むような話になってしまったので自分でうんざりしてきた。要は「ボカロ空間なるものの正体を何とか自力で捕まえようとしてみたけど広大すぎて手に余る」ということがハッキリした、ということ。小宇宙の理解の助けになるはずの、新作を片っ端から聴いて得られた楽しみも、新しい音声ライブラリやイベントやコラボが発表されたときの興奮も、それぞれの小宇宙に吸い込まれて自分の中から抜け落ちてしまった。そういえば前回の記事で「結局『飽きた』ってことなんじゃねえの」的なご意見をいただいたが、全力でそれを否定したい自分と完全に否定できない自分がせめぎ合っている。つまり現在の自分は己の小宇宙の中心を見定めることができず、ただボカロ空間にいるらしいという無根拠な自己暗示だけで漂っている塵かガスそのものである。ワタシのアイデンティティであった「音楽を聴いて感動する体験」を取り戻せない限り、このまま拡散して知らぬうちに忘れ去られるのが世の中にとって幸せなのかもしれない。