くだらない話をしてしまった。先日「ボカロとボカロ曲とボカロPとファンの関係性を難しく考えないことにした」、もっと端的に言うと「ボカロはボカロ、ボカロ曲はボカロ曲としてその関係に囚われず自由に楽しんでいいんじゃないの」みたいなことを書いた(つもり)。これはまあ「頭でっかち」になってた自分への反省文みたいなものである。
ではなぜ「頭でっかち」になっていたのかというところについて、大きく分けて以下の2つの理由(?)を考えてみた。
- 特に初期のキャラソン主流時代において顕著だが、ボカロ(ソフトとキャラの両方を含む)からボカロPがイメージを膨らませてボカロ曲を作り、それをファンが受け入れることでボカロ空間が一気に成長した歴史があること。言い換えれば、ある時代において、ボカロ(ソフトとキャラ)、ボカロP、ボカロ曲、ボカロファンは互いの関係性を強く想起させるほど密接な位置にあって、それは現在も「すべて繋がる」感覚として多くの方々に受け継がれていること。
- ボカロ空間の間口が大きく楽曲以外の創作物(イラストや歌ってみた、演奏してみた等)も広く取り込み、例えばあるボカロ曲の感想を書いたり特定のキャラのフィギュアの写真を公開するといった行為さえも一種の創作行為として受け入れられる土壌が成立していること。
後者はとても悩ましいところではある。ボカロ曲と(言い方が悪くて恐縮だが)本来は歌声合成ソフトを売る方便として用意されたボカロキャラに魅入られてイラストを描く、フィギュアやアクセサリを作る、痛車を仕立てる、3DCGを動かす、網戸やポリエチレンシートを立てて召還を試みる、イベントを企画してみんなと盛り上がる場をつくるといった「ボカロ曲を作る以外の創作行為」も止めようがなく、むしろボカロ空間内ではそれをn次創作あるいはCGM/UCGの名のもと推奨する雰囲気があった(もちろん実際に創作する際には一定の社会的ルールを遵守する必要はあるが)。リスナー視点で考えた場合に最も身近な「作曲以外の創作行為」はボカロ曲を聴いた感想をTwitter等へアウトプットすることになるだろうか(例えばDAIMはそれをみんなで集まってやろうとした結果)。ボカロキャラのファンならとりあえず何かしらのフィギュアやぬいぐるみ等を飾った写真を撮ってアップロードするのが手っ取り早いのかな。まあ創作のファーストステップとしてはそれくらい気軽で敷居が低い方がいいと個人的に思う。
さてここからが問題なんだが、もしかしたら「ボカロ空間内では何かを必ず創作しなければいけない、だって "Everyone, Creator" って周りからいつも言われるから」という一種の逆転というか強迫観念というか…によって悩む人が出てきているのかもしれない。リスナー視点で言えば「何かをアウトプットするためにボカロ曲を聴き続けているのでとても疲れてる状態」という感じだろうか。自分がニコ動で毎日の新作をほぼ総当たりチェックしていたときに「義務感に駆られるな」と忠告を受けたことが何度かあるけど、振り返ってみれば、新作をチェックしなくなった瞬間に自分の居場所を失ってしまうかもという不安は常にあった。現在は他のたくさんの方々が継続的にチェックしているのが分かっているのでその不安はほぼ杞憂だったけどね(例えばTwitterの #vocanew タグはよく機能していると思う)。ただ、この一連の文章を書く発端となったツイート群を発したヘビーリスナーの皆さんのうち誰かが上記のような錯誤やワタシと似たような不安に陥ってるとしたら、「アウトプットするのを小休止して基礎体力の回復に励んでみたらどうだろう」と提案したい。ボカロ空間は広大だからもうクリエイターじゃない人も居られるじゃない。埋め合わせもたぶん誰かがしてくれると思うよ。