8/31は多くの学生にとって夏休みの最終日なので憂鬱なものと相場が決まっているが、彼女が誕生してから、ある種の祝日としての楽しみが加わった。彼女の名前はもちろん初音ミク。説明不要、もはや正真正銘のバーチャルアイドルと断言しても差し支えないであろう。3年前に彼女が現れたとき、現在の音楽業界の勢力図が彼女の手によってじわじわと書き換えられつつあること、マンガやゲームなど様々なメディアミックスが展開されていること、そもそも一過性のブームどころか多様な追従者(=他のボーカロイド)を生むに至ったムーブメントが継続していることを、おそらく誰も予想できなかったのではなかろうか。だって本家ヤマハが新しいボーカロイドを出すのはともかく、ガチャピンまでがボーカロイド化されるんだよ?そんな展開、誰も読めねえよ!
2年前、ワタシはこう書いた。「ボーカロイドとは音楽であり、歌であり、楽器であり、オーディオビジュアルであり、自己表現のためのツールであり、ITを中心とした様々な技術を進歩させる格好の素材であり、SFであり、そして世界と自分、現実と妄想(笑)を繋ぐための入口である。初音ミクという美少女の姿をしたキャラクターはそれらを統べるイコンであり、彼女が歌い続ける限り、そうあり続けるだろう」と。この思いは今でもまったく揺るぐことがない。そして、実際に彼女(と巡音ルカねえさん)を部屋のMacに迎え入れDTMを始めるに至った。自分で言うのも何だが楽器もロクに弾けない人間が手探りでやるもんだから、よちよち歩きで危なっかしくて不安にかられることも多いが、新しいおもちゃに触れたときのような、ワクワクドキドキする感覚が確かにある。齢40を超えてこういう新鮮な刺激が得られる環境があるというのは、やはり時代のなせる業なのだろう。
で、実際に触れてみて改めて思ったことがある。彼女はメートル原器みたいな存在である。ボーカロイドを取り巻く世界を語るとき、欠かすことができない単位系。あるいは空間座標を把握する際に必要となる原点、と言い換えてもいいかもしれない。彼女に基づいて世界が規定され、彼女を中心に世界が広がっていく。好むと好まざるにかかわらず、彼女はそういう運命のもと生み出された。それは今後も変わることがないだろうし、当の彼女も「そんなのべつに関係ないわよ」といいたげに、澄まし顔のまま歌を唄い続けることだろう(もちろん、その表情はワタシの頭の中の想像でしかないのだが)。
3年という年月は、人や環境を変えるのに十分すぎる時間である。あのころ生まれた赤ん坊は片言の言葉を話していることだろう。中学生は高校生に、高校生は大学生に、大学を卒業して新社会人として忙しい毎日を過ごしている若者もいるだろう。そして注目すべきは、彼ら彼女たちのなかに「ボーカロイドから音楽に入った」という奴が、確実に存在するという事実である。それはワタシがYMOを聴いて受けた衝撃と同じ種類のカルチャーショック、あるいはイニシエーションと言い換えてもいい。
ワタシの世代…第3世代オタク(アラウンド1stガンダム略してアラガン)は、自分たちより上の世代が創りだしたブームをひたすら消費することしかしてこなかった。ほぼ唯一の例外はヱヴァンゲリオンかもしれないが、あれすら穿った見方をすれば、庵野監督自身のオタク体験の再構成でしかない。では、我々は最終的にあらゆるネタを食い尽くし、老いて干からびた醜悪な姿をさらすだけの存在になってしまうのだろうか。何も残せず死んでいくだけなのだろうか。もしかしたら、ボーカロイドたちが唄うオリジナル曲の数々は、我々の手から次の世代へ渡せる「可能性という名のバトン」に成り得るのかもしれない、と考え始めている。これは、ワタシ個人のかすかな期待でもある。そんな勝手なものを託された彼女たちは、きっと困り果てた顔をするのだろうけど(もちろん、その表情はワタシの頭の中の想像でしかないのだが)。
追記:やはり今年も来てくれた。ありがとう。それだけしか言えません。