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2016/09/03

「響け!ユーフォニアム」深読み:舞台装置としての宇治(4)

(3)からのつづき

前回の終わりに「ロジック」という言葉を書いた。基本的な事柄だが重要なので、アニメーション制作のロジックの一部をほんの少しだけおさらいしたい。

押井守監督がこんなことを述べている。
「アニメの場合、演出する人間が作品をコントロールしようと思えば、限りなくコントロールできる。アニメは偶発的な要素が排除された世界に成立していて、演出家が計算した分だけ画面になる。」
押井守著「これが僕の回答である。1995-2004」より引用

脱線気味だが「響け!ユーフォニアム」第8話の特殊エンディングから、失恋した葉月がついにこらえ切れず涙をこぼす場面を例に挙げる(ホントは動画で見せたいところだが…)。



涙があふれて視界がにじむ心情を背景が急激にボケるという絵で描写する、このコンマ何秒かのシーンがアニメならではのウソだと気づいた人は、どれくらいいるだろう?(実写でも合成したり後で処理すれば可能ではあるが)。このように、描きたいものだけを描きたいように描く、それがアニメである。まあ最近は某怪獣映画のように、実写でもアニメ的にCGで大胆に描き替えたりするけれど…。

それともうひとつ。富野由悠季監督が自著「映像の原則」でこんな図を示している。


有名なものなので見たことがあるかもしれないが、これは別にアニメに限らない話で、演劇、映画やTVドラマ等に慣れ親しんだ方なら、よくご存知かと思う。舞台やスクリーンの位置にはそれぞれ意味があり、人物や物体の動きも別の意味を持つ。良い演出家は当然、この原則を意識しながらキャラクターやモノを配置して動かす。ちなみに「映像の原則」改訂版は、映像関係の大学の授業でも使われているらしいので、いずれ腰を据えて読もうと考えているところ。

さて、以上の基本的なロジックを念頭に置きながら、「ユーフォ」の場面をいくつかピックアップしてみよう。





このように「ユーフォ」では、久美子は左で麗奈は右にいる場面が頻出するが、その意味は彼女たちのキャラ性と先のロジックに則って考えれば自然と理解できるはず。なお、この「久美子は左で麗奈は右の原則」が、第8、12、13話では基本的に逆転して描かれている。理由はそれぞれ推測できるのだが、ここは皆さんへの宿題にしておこう。

さて、上で示したように、「ユーフォ」はアニメのロジックにかなり忠実に作られていると言っていいだろう。それが単に画面構成だけなのか否か。次回は久美子の日常空間の話に戻って、「仮説」の核心に迫っていく予定。

(5)につづく
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