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2016/04/27

TVアニメ総集編を特別な映画にするために〜「劇場版 響け!ユーフォニアム」レビュー

ちょうど去年、正確には2015年の4〜6月に地上波放映されたTVシリーズアニメ「響け!ユーフォニアム」(以下TV版)に思いっきりハマって遂には舞台となった宇治への「聖地巡礼」まで敢行してしまったのは、このブログでご報告してきた通り。過去のあれこれを知りたい方は以下をどうぞ:

その「ユーフォ」がいわゆる総集編映画、「劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~」(以下劇場版)として映画館で見られるというので、初日封切のチケットを押さえて見た。以下、その感想を述べる。なお、既にねりまさんやバーニングさん等による適切なレビューが存在するので、この作品を普通にご覧になりたい方はそちらをご一読することをオススメします。

さて本題。観劇後に映画館から出てきたワタシは、もちろん目は充血して真っ赤なのに、新作カットもたくさんあってうれしいはずなのに、まるで秀一からあがた祭に誘われたときの久美子のような顔つきをしていたと思う。それほど、ひどく混乱していた。

混乱の理由は、「記憶を強制的に上書き保存されていくような感覚を味わったから」とでも表現すればいいのだろうか。TV版で慣れ親しんだ話と絵はほとんど同じなのに、劇場版を全く別の体験として受け取った自分がいるのが理解できなかった。その訳を小一時間ほど必死に探し、TV版と劇場版の差として以下の4点を何とかひねり出した。
  1. ストーリーやエピソードを大幅に削って、久美子中心の部活ものから久美子の一人称視点の物語として再構成した
  2. 声優さんのアフレコを再度やり直した
  3. 劇中BGM(劇伴)をTV版の流用ではなく新規に書き下ろした
  4. TV版の見せ場のひとつだった「手ブレ」や「ダメレンズ描写」などの特殊な映像表現の大半を排除した

    ※特殊な映像表現についてはワタシのこの記事や以下を参照してください

1.は説明不要だろう。TV版全13話を約100分の尺の中に納めるには物語の2/3くらいを削らなくてはならず、そうすると必然的に主役中心の話とならざるを得ない。その副次的な影響として、2.も理解できる。特にTV版の序盤は劇中の時間の流れがとてもゆったりとしているので、同じ口調のままだと場面転換が速すぎてセリフをしゃべり終わる前にタイムオーバーしてしまうのだ。個人的にはTV版の、ややぎこちなさの残るところから始まって終盤に向けて大きく成長していく演技にとてもシンパシーを感じていたこともあって再録には残念な部分もあるのだが、劇場版ならではの新しい演技も期待できるので、まあ分かる範囲ではある。

問題は3.と4.なのだ。まず3.。TV版の劇伴は、吹奏楽では通常使われない楽器を巧みに配置して奏でられた、極めて印象深いものだった。各エピソードで繰り返し使われた旋律はTV版の特色である透明感や瑞々しさに少なからぬ影響を与えており、TV版の評価を形づくる代表的なポイントのひとつだったと言っていいと思う。一方、新しく用意された劇場版の劇伴は、TV版からフレーズやコード進行などをわずかに引用しながらも基本的には別なものになっていて、TV版と比較すると、やや抑制的で淡々とした印象を受ける。ワタシは劇場版を見ながら、TV版と同じ場面で「あれではなく」別の曲が流れる意味をずっと探っていたように思う。

そして4.の、「手ブレ」や「ダメレンズ描写」などの特殊な映像表現シーンの排除。TV版で執拗に繰り返され、これまた作品を強烈に印象づけるポイントだった、細かくブレて焦点距離が極端に浅く周辺の歪みや色ズレが激しいカットの数々は、劇場版ではまるで部分漂白されたように大半が取り除かれ、全体的には普通のアニメに近い印象の描画で話が進行してゆく。手ブレは目立たなくなり、焦点距離が浅いカットもモダンなレンズで撮ったようなソリッドな描写でわずかに挟まるだけ…。劇場版パンフレットによれば撮影はTV版を軽くなでた程度の手直ししかしていないそうだが、観劇中のワタシは一番の楽しみを見せてくれないもどかしさでいっぱいだったように思う。



と、ここまでは視聴1回目のお話。今日、上記の謎を抱えたまま2回目を見て、疑問は氷解した。

物語の終盤の吹奏楽コンクール地区大会本番(TV版では13話)。演奏会場控室に入ったところから「手ブレ」描写が「解禁」されて画面が大きく揺れ動くようになる。続く滝先生の話に部員たちが耳を傾ける場面、ここにTV版から「あの」フレーズを引用した劇伴があてられる。そしてステージの上で照明が強くなる瞬間に、「ダメレンズ描写」が戻ってくる。TV版とついに軌を一にした姿で演奏される「プロヴァンスの風」、そしてTV版劇伴で繰り返し引用されたフレーズを演奏するカットが追加された、この物語の象徴とも言うべき「三日月の舞」は、まさに最高の熱を放つ。全ては、この時のために計算されたことだったのだ。



TVで好評だったアニメを映画館に持ちこむ作品はこれまでにもたくさんあった。しかし当然、連続TVシリーズと映画は全く別のフォーマットであって、映画として成立させられるか否かは、ひとえに監督の手腕による。今回、京都アニメーションの石原立也監督は、この作品を「黄前久美子を中心とした北宇治高校吹奏楽部のTVアニメシリーズ」から「黄前久美子が主役の吹奏楽映画」に変換するため、吹奏楽の演奏シーンを大切に残しながら物語を無駄なくそぎ落とし、それに合わせてアフレコを新録し、TV版のストロングポイントであった劇伴と映像表現をコンサバと呼ばれることを恐れず一度捨てて、吹奏楽が主題であることを強調するためにあえて控えめな劇伴を新調し、最後の切り札として、捨てたはずの映像表現を呼び戻してここぞという場面の演出に使ったのだ。

こんな大胆な「映画づくり」ができるのかと思った。

久美子が悔し涙をこらえきれず駆けながら叫ぶ「うまくなりたい」という感情、麗奈が大吉山からの夜景を背に吐露する「特別になりたい」という感情は、全ての表現者が根源的に持つ。楽器演奏者はもちろん、映画やアニメの監督もそれは同じである。TVシリーズで様々な挑戦を重ねた末に成功をおさめて完結したはずの自身の作品を解体してひとつの映画として再構築するとき、どれほどの苦悩と葛藤があったことだろう。特別ではないワタシは、そういう特別な人、特別な人たちがこれからも直面し続けるであろうその重さへ、憧憬に近い想いを馳せるのみである。



北宇治高校吹奏楽部へようこそ。




2016/04/06

ガルパン劇場版&立川シネマシティ極上爆音上映は戦車映画の歴史に名を刻むか

ガールズ&パンツァー劇場版、なんだかんだで結局5回も見てしまったんだが、先日設備が増強された立川シネマシティの極上爆音上映(ガルパンの場合は「センシャラウンドファイナル」から「センシャラウンドファイナルLIVE」と改称された)が、あまりにも鮮烈な体験だったのでメモ書きしておく。

昨年の夏、プラチナチケットとして知られる陸上自衛隊の富士総合火力演習(総火演)の見学入場券を偶然と人の縁に恵まれて入手することができ、こんなチャンスはめったにないぞということで、いそいそと出かけていった。そこで見たのは、実物の兵器が実際に使用されるとこうなるという、戦後生まれの日本人にとっては完全な非日常と断言できる光景の連続であった。


総火演では様々な兵器がデモンストレーションされたが、とりわけ戦車が目の前で実弾をぶっ放したときのインパクトは文章で伝えるのが難しい。射撃姿勢を取るまではちょっとやかましい程度の重機のような物音で動いていて、射撃と同時に爆音と衝撃波と放射熱がいっぺんに襲いかかってくるあの感じは、戦車が砲身の中で火薬を炸裂させている結果だと頭では理解していても身体がついてこなかった。長く模型を趣味としていてわずかながらも戦車について分かっていたつもりだったが、やはり実物を見ないとダメだと演習が終わった後につくづく思った。

その実物である戦車を、執拗なまでにリアルに描き込んで成功したアニメがガルパンである。ほとんど大戦時の、博物館入りしてるような戦車しか出てこないんだからリアルも何もないだろうという意見もあるだろうが、例えばプラウダ高校の主力であるT-34が中東の紛争地域で現在でも目撃されているように、大戦からの歴史は地続きであって、その歴史の産物を扱う以上はリアリティに対して慎重であらねばならない。その結果、戦車が出てくる映画はたいてい戦争や紛争、人間の生や死といった大きく重いテーマと隣り合わせになるのが宿命だったのだが、ガルパンはそこを女子高生と戦車道という超アクロバティックなウソで回避した。これは「兵器アクションもの」として大胆かつ画期的な「発明」だと思う。

そのガルパンで描かれる戦車群はどれも入念なリサーチと専門家による監修を経ており、アニメやCGの域を超えて原寸大セットを組んだ特撮とも言えそうな映像に仕上がっている。姿形はもちろん、車体の挙動、砲弾装填や照準合わせの手順の細かな違いなど、見れば見るほど「タミヤのMMシリーズの部品をひとつひとつ組み上げていったときのような」ワクワク感が確かにある。これに足すとすれば総火演で体験したあの皮膚感覚だろうと確信し、各劇場へ足を運ぶこと5回目にして巡り会ったのが、冒頭で述べた立川シネマシティの極上爆音上映(極爆)である。

つい先日までの極爆は、端的に言えば重低音マシマシ上映であった。規格外のサブウーハーを劇場内に設置することによって実現されたそれは、同じ映画でこうも印象が違うものかと思わせるほどの迫力を出していた。そして3月末、この劇場は何をトチ狂ったのかスクリーン両脇にこれまた規格外のラインアレイスピーカーを増設するという暴挙に出た。Twitterでの評判を読んでいるうち居ても立ってもいられなくなり、時間を無理矢理作って新しくなった極爆=「ガルパン劇場版 センシャラウンドファイナルLIVE」を見に行った。

実物がそこにあった。

音が歪む。定位が怪しくなる。アンバランスで聞くことを考慮していない、むき出しの巨大な空気の振動が全身を震わせる。ところどころ何を言っているか分からなくなる。行儀が悪くて粗野な爆発の連続。もう何度も見たというのになぜか涙を流しっ放しの自分が理解できない。それほどひどく感情を揺さぶられ続けて約2時間の上映が終わった。

新しい極爆は、ラインアレイスピーカー導入直後ということを差し引いても決して理想の音響とは言えず、むしろダメな部類に入る。特に中低域が潰れていてBGMなどが聴き取りづらいのは今後の課題だろう。しかし、このピーキーで荒々しい現状の設備が、ガルパン劇場版で描かれる戦車にリアリティを付与する最後のピースになるとは、ガルパンのスタッフも立川シネマシティの中の人も予想しなかったように思う。今後、ガルパン劇場版が海外に出て一部の戦車好きに熱狂的な歓迎を受けカルト映画となるのは確実だが、そのとき世界中のファンに向かって立川の極爆=センシャラウンドファイナルLIVEこそが「本物」だと胸を張って言うことができる。なぜなら、こんなバカげた作品と劇場が揃うなんて、おそらく日本でしか起こらないことだからだ。



兵器ではなく武芸の道具として縦横無尽に駆ける数々の戦車を描いたバカなアニメ映画。

本来はスタジアムやアリーナで使われるはずのスピーカー群を持ち込んだバカな映画館。



バカとは狂気、すなわち非日常である。わずかな出費でそれに触れることができるアニメや映画のなんと幸せなことか。ガルパン劇場版と極爆は、そんな当たり前のことをあらためて思い出させてくれた。各地の劇場で異例のロングラン上映が決まっているようだが、アニメ好き・戦車好きじゃなくても「体感」しておいて損のない逸品である。





以下、ネタバレ含む余談:
  • 各劇場の個性がこれだけハッキリ出る映画も珍しいと思うので、余裕があれば上映方式の違いも含めて見比べると面白いです。特に4DXはアトラクションとしても楽しめるのでオススメ
  • 5月に発売されるBlu-rayは今後ホームシアターのセッティングチェックに不可欠になるでしょう
  • ストーリーが平坦でTVの焼き直しではとかキャラクターやエピソードが多すぎてよく分からんとか展開が速すぎといった欠点は多々あるけど、映画評論家じゃないので気にせず楽しんでます
  • 一方、ディテール描写を観察すると驚くほど細かいけど微妙にウソもついてて、そのへんはこだわりつつマンガ映画の文法に則ってるのかなあと
  • 脇役のエピソードもいろいろ語り尽くしたいが、ひとつ挙げるとすればケイさん率いるサンダースが大洗女子閉鎖危機時に戦車を引き受けてくれるシーン。これはトモダチ作戦へのリスペクトかもと思うとな…
  • 話の軸は西住姉妹という解釈。手をひいて走る回想シーンと、ラストであんこうチームのIV号を牽引するティーガーIの対比がとても印象深い
  • あんこうチームのIV号はとにかく傷つきよく壊れる。競技中は全くブレない西住殿とは対照的
  • クライマックスで西住殿が繰り出した奇手、あれは「高校戦車道最強の虎」を温存した二段構えの作戦だったのでは説。まほの乗るティーガーIはもしかすると劇中で1発も食らってないかも…